17.ホテルよしお
家出三日目は、母親が軍資金をくれた。
理由はわからない。もしかしたらふたりで部屋にこもることに要らぬ警戒心を働かせたのかもしれない。
とりあえず海でも見てこい。そんな雑な案を出されて、ほかに行くところもなかったので、海の見えるところまで出ることにしたのだ。
マンションの外に一歩出ただけで、部屋に逃げ帰りたくなった。夏は毎日これでもかと暑さを増していく。焦げたアスファルト。蝉の声。全て暑さでぼんやりとろけているようで、現実感が薄くなる。
駅前にまばらにいる人たちも、みんな暑さでやられた顔をしている。
「櫂くん、電車あと一分で来るよ!」
「うーん。走るか」
「走ろう!」
待つか走るか、顔を見合わせ一瞬で判断した俺たちは、駅の階段を駆け上がった。
昔はやたらと走っていた気がする。走ることそのものが楽しかったのかもしれない。
軽く息をきらせながら、来た電車に乗り込んだ。車内はひんやりと冷えていた。
「最近なにしていた?」
「勉強! 櫂くんは?」
「勉強以外だな」
そこから道中では、互いの中学時代の話をぽつぽつとした。とはいっても、込み入った話ではない。昴の引越し先の近くのピザ屋さんの話だとか、俺がひとりで家出したときに会った変わり者のおっさんの話だとか、世間話ばかりだ。
電車を降りた途端、ホームに充満するむわっとした熱気に出迎えられた。
「なぁ、海……すっごく暑そうじゃないか」
「私もそんな気がする……」
二人揃って暑さに臆した結果、とりあえず駅ビルに避難する。
「ひー……涼しい……外出れない」
「朝、金もらったからそれで喫茶店でも入って冷たいもんでも飲もう」
駅ビル内のカフェに入って、メニューをひろげた。二人揃ってメロンソーダを注文して一息ついた。
「なぁ、これで帰りの交通費も抜くと軍資金の残りはだいたい七千円だろ……これを全部使いきって遊ぶとすると……なにがいいかな」
あまらせてもどうせ残りは返せと言われるのだから、だったら景気よく全部使いきりたい。
「うーん。あ、七千円分駄菓子買うとか?」
「発想が小学生時代に逆行してるな……」
「櫂くんといるとつい……へへ……」
そこでメロンソーダがきて、昴がたいへんうれしそうな顔をした。ご機嫌な顔でストローを咥えて緑の液体を吸った。そして、途中でひらめいたのか、そこから口を離してほがらかに言う。
「あっ、ラブホテルのご休憩に入ってみるのはどうだろう!」
「ゲフォ! ……急に成長しすぎだろ!」
「櫂くんといるとつい……はは……」
「だいたいこのへんにラブホテルなんてあるのかも知らないし……」
昴が手元のスマホをぽちぽちして声をあげる。
「駅裏に何軒かあるよ! 近くだと……『ホテル搾乳』があるけど」
「そんな猟奇的な名前のホテルには入りたくない……」
「櫂くんも? 実は私もそう思ってた……」
「こっちは? 『ぱっふん天国』だって」
「そんな浮かれきった名前のホテルも嫌だ……」
「『ホテルよしお』もあるよ」
「よしお誰なんだよ……。なんでそんなふざけた名前のとこしかないんだよこの辺……こわいわ」
昴がけらけら笑った。
「それに、ご休憩って二時間とか三時間だろ。それで金使いきったらまた残り時間暑いし」
「んん? 櫂くん詳しい?」
「詳しくない。高校生男子の一般常識だ」
「……使いもしないのに備えてる常識なんだね」
「むなしくなること言うな……」
本当むなしい。
メロンソーダのアイスは気がついたら溶けていた。
「……やっぱ行くか」
「どこに?」
「ホテル。べつに妙なことをする気はないが……ちょっと中見てみたいだろ」
「おぉー……たしかに。どんななんだろ。でも、どれ?」
「うぅん……その中だと、まだ……ぱっふんかな」
「そう……? 金額的にはよしおがめちゃくちゃ安いんだけど」
「よしおはいやだ。なんか絶対いやだ」
めちゃくちゃ安いのすら逆にこわい。
中に金ピカのよしお像とか立ってそうでこわい。名言の色紙とかも飾ってありそうでこわい。
「櫂くんのいくじなし! いいじゃない! ラブホテル入るくらい」
「人聞きの悪い表現をするな!」
「よしおも待ってるよ」
「それだと俺がよしおとホテル入るみたいだろ!」
「本当だ……え、よしおって誰よ? 誰よ!」
「俺が聞きたいよ!」
メロンソーダがなくなった。
昴がなぜか強いよしお推しを発揮させたため、とりあえず、よしおの前まで観にいくことにした。
地図でなんとなくの位置を確認して裏路地を歩く。人通りはそう多くはなかった。
やがて、目的の建物が見えた。
ちょっとドキドキしていたのに、ややボロいくらいで、拍子抜けするほど普通の建物だった。看板のよしおの文字だけが異端で、ほかにどこによしお成分があるのか、逆に不満に思ってしまうほどだった。
「ひゃっ、櫂くん、満室だって!」
「安いから儲かってんのかなあ……」
「……満室、てことはみんな……夏休みとはいえこんな平日の真昼間から……」
昴は建物の窓を見上げてなにか想像したのか、口元を押さえてほんのり赤くなった。
「お前ほんっと、ムッツリスケベだよな……」
「えぇーっ、私、ムッツリじゃないもん! オープンだもん」
「いや学校では隠してるだろ。ちんこなんて見たことも聞いたこともありませんみたいな顔してるだろ」
「え、だってそれは櫂くんのしか見たことないよ!」
「また誤解を招く表現すんな! 幼年期の俺のちんちんはちんことは言いませんー!」
「そ……そんなに今と人相変わってるの?」
「五百円払ったら見ていいよ」
「……考えとく」
「考えんでいい」
いつまでもよしおの前にいてもしかたないので、なんとなく歩き出した。
「搾乳、ここから近いけど、見てみる?」
「うん……見るだけなら」
搾乳はホラーな物件だった。
建物全体の雰囲気がどんよりしている。
料金が書いてあるプレートに、赤黒い手形の染みがついているのもいただけない。
「空いてるみたい……だけど」
「いやだよ……俺、こんなところ入りたくない」
「ははは……そ、そんな変かなぁ」
昴は笑いながら言うわりにかなり腰が引けている。
「ほら、あの駐車場にいるの、人食いタコだぞ……」
塀の向こうには駐車場があるようで、大きなタコのオブジェが置いてあった。高い位置に飾ってあるので塀の外からも見える。
もとは陽気さを演出するためのものだったのかもしれないが、経年劣化で足が途中で一本折れているし、目の部分が完全に消えていた。闇落ちしたタコだ。タコなのに、空間の辛気臭さを増長させるとても邪悪なオーラを身に纏っていた。あれは門番だ。倒さないと中に入れない類のやつだ。
「ははは……海の近くだからかなぁ」
「これ、入った人数と出てきた人数が合わないやつだ」
「はは……そんなバカな……きゃあっ!」
「なななに!」
「あ、あれ」
塀から帽子をかぶった男性がこちらをニヤニヤしながら覗いていた。なんだ、人か、と一瞬落ち着きかけたが、すぐに違和感を感じる。
向こう側がどうなっているのかわからないが、背が、高すぎる。顔が……牛に似ている気がする。
「か、櫂くん……」
「う、うん」
あとずさって、手を取り合う。
そして、ひぎゃぁーと悲鳴を上げてその場を退散した。
うしろから言葉にならないような「おごももももー」みたいな声も聞こえた。
ラブホテルは恐ろしいところだった。入ってないけど。