16.木嶋家の夜
「櫂! てめぇこのクソバカ! このあたしの留守中に女の子連れ込むとはいい度胸だな!」
すごい勢いで詰め寄ってきた母に襟首をつかまれ、ガクガク揺さぶられて「グェー」しか声が出ない。
どうやら昴の懸念した靴にはしっかり気がついて、わざと玄関の扉の音を立てて罠をはられたようだ。
「ろくでもないことしてないだろうな! あんたにセックスとかあと三十年は早いわ!」
「い、いくらなんでも三十年は厳し過ぎだろ……!」
「いーや! アンタみたいなのはあと五十年……」
「少し負けてよ!」
「やだねー!」
「あ、あのー……」
声が聞こえてそちらを見ると昴が扉から顔を覗かせていた。
「あ、バカ! 出てくんな」
慌てて言う。母がそちらを見て動きを止めた。
「………………昴ちゃん?」
「……はい」
俺の襟首を離した母が、昴を数秒凝視した。
「えー! きゃー! やだやだ! 昴ちゃんじゃない! 前から可愛かったけど超可愛くなってるじゃなーい! 久しぶりー! え、なにしてんの? うちのゲボカスドラ息子に妙なことされてないよね?」
「『息子』の前、妙な形容詞付けすぎだろ!」
「いえ、一緒にお掃除とかしてました。その……私櫂くんに手伝ってもらって、プチ家出中なんです……」
「え、じゃあお母さん心配してんじゃない?」
「友達と旅行に行ってることになってます。だから家出だけど、家出ではないです」
理由は作ってきたと言っていたがそれは初耳だった。家出は家出でも、親の気を引きたいタイプの家出ではないので、そこらへんはしっかり嘘をついていたようだ。
「うんうん。昴ちゃんは昔からしっかりしてたからねぇ」
「そうかぁ? すっげぇアホだったろ」
「アンタは黙ってな。え、で、昨日はどこに?」
「俺を睨みながら聞くのやめろよ! 昨日はクラスメイトの男の家に行ったんだよ」
「え、なにそれ大丈夫だった? 変なことされてないよね?」
「えっと、踏まされたくらいで……」
「え? 隠れキリシタン探し?」
「昴、余計なことは言わなくていい……話が面倒くさくなる」
この期に及んで『汚い踏み絵・雲井』の変態性の説明までしたくもない。
「で、今日はどうするつもりだったの?」
「まだ決めてないけど……」
昔家出したとき飯を食わせてもらったことのある、二十四時間営業の中華屋にでも行こうかと思っていた。あとはファミレス、カラオケ、ネカフェくらいしか思いつかない。
「じゃあウチ泊まって行きなよ」
母親があっけらかんと言い放った。
「わあ! いいんですか! やったあ!」
「うん。客用布団、リビングに敷くからそこで寝るといいよ。ね? そうしよ?」
「泊まります!」
「ひゃっほー! 決まり! あたしこれから買い物行くから、お肉買って帰るね!」
「おにくー! 待ってます!」
どうやら母親は仕事が終わり、いつものようにそのまま買い物に行こうとしたら普段使っているエコバッグを忘れてきたので一旦家に戻ったらしい。そのせいで俺の目算より帰宅が少し早かった。
しばらくして「奮発しちった」と言いながら母親が大量の肉を持って帰ってきた。
三人で家庭用の鉄板を囲んだ。
カルビ。タン。ハラミ。ハツ。いくつかあった。最初はいちいち確認して食べていたけれど、途中から面倒になって口に放り込む。肉はどれでもなんでもうまい。肉の味がする。
昴のほうはわりとちゃんと、タンはレモンで、カルビはタレで、時々サンチュに包んだりして丁寧に食べていた。グルメ番組に出てくる女子タレントみたいな食いかただ。母親はビールを片手にニコニコしながらそれを見ている。
立ち上がってご飯をおかわりしようとすると、昴がしれっと自分の茶碗を渡してきた。奴隷の話、どこに行ったんだろうと思いながら二人分米をよそぐ。
口の中に米、肉、ふたつ混ざって頭が肉色になる。力が蓄積されていく気がする。
「昴ちゃんは中学のときはどこ行ってたの?」
「群馬県です」
「へぇー。そっちで彼氏とかいたの?」
「いないですよぉ」
「モテたでしょう」
「はい! 中二くらいからかな……髪が伸びてきて、ちょっと女の子っぽくなったら異常にモテるようになりました!」
謙遜まるでなし。半目で眺める。
「高校でもモテるよね! ね、櫂くん!」
「ふん」
「櫂、モテないからってひがむなひがむな」
「ひがんでねえし!」
「まぁさー、アンタのモテ期はきっと五十年後くらいにくるよ」
還暦越えてんじゃねえかよ……。時間設定が適当すぎる。
煙の匂い。肉の焼ける音と、やたらにしゃべりまくる母。けらけら笑う昴の声。そんなものを聞きながらちょっといい肉を食った。
「昴ちゃん、リビングにお布団敷いたからね」
「ありがとうございまーす」
「櫂……あんた……」
「うるさいな。こんなうるさい母親がいるのにわざわざ妙なことするわけないだろ」
「わーかっていればいいのよ」
要らぬ釘をさされて、昴がおかしそうにくすくすと笑う。小学生のときはこんなこと間違っても言われなかったのに。俺とこいつでなにかが起こるはずがないじゃないか……こいつはそういうちんぴく対象じゃないのに。と思いかけて昼間のベッド下の珍事を思い出し、絶妙な気持ちになった。ほんと混乱する。
*
自室に戻って五分もしないうちに部屋の扉をノックされた。「うぁーい」と適当な返事をすると扉が開いて昴が立っていた。
「櫂くん」
「なんだよ」
「櫂くん、ちょっと来て」
「なんだよ……俺もう眠いんだけど」
「お話しよ」
「俺睡眠時間八時間はとらないと駄目なんだって」
「うん。お話しよ」
「眠いっての……なんでお前はいつも俺の睡眠を妨害しようとするんだ……」
手首をつかまれて、リビングに連行される。
「ここ座って、私が眠くなるまでお話しよ」
「お前人の話をまったく聞かない上に図々しいな……」
「いやぁ、櫂くんだし、いいじゃない」
「そこは人権を認めろよ……」
豆電球になった部屋で昴が客用布団にちょこんと座る。しかたないので俺も座った。闇に目が慣れてきて、ぼんやりと顔が見える。
「櫂くんのお母さん……離婚したんだよね? すごく元気そうでよかった」
「ムカつくほど元気。離婚したあとのほうが元気……」
「櫂くんとも仲良しだね」
「いや、めちゃくちゃ喧嘩したし。ぜんぜん仲良くないし」
あの母親は離婚のときもはっきり言った。
『あたしにとっては悪夢みたいな男でも、あんたにとってはそれなりにいい父親だったかもしれない。でも、あたしはあたしの人生のために離婚する。あんたのことは愛してるから連れていくつもり。まーまー全部あたしの都合だけどごめんね!』
たっぷり蚊帳の外にされてモヤモヤさせられたあと、一方的に結果だけ言われたので本当に腹が立って暴れた。今では良い思い出……ではまったくない。
「私は櫂くんのお母さん好きだな。はっきりしてて……自分勝手だけど、そのことをちゃんと知ってる。人を傷つけてる自覚がある」
「……」
「うちのお母さんはね、いつも自分が中心なの。だから基本自分は『被害者』なんだよね。自分が加害者であることは絶対に認められない」
昴はそこまで言って薄闇の中うっすらと笑った。
そうして自分の膝に、顔を伏せた。
「うちがもし、櫂くんちみたいなことになったら、子どもが離婚に怒って暴れたことも、自分の傷にしてしまって、なんでこの子は私の気持ちをわかってくれないんだろうって、悲劇のヒロインの顔をするんだと思う」
「……」
「私は表面上は、好きにやりなさいって、いつも言われてるけど……あの人にとって、子どもがお母さんの期待に応えるのは当たり前で、応えられなかったら……きっと傷ついた顔を隠そうともしないんだと思う」
昴の母親は悪気はないのだろうけれど、自分中心で子供への期待が強すぎるタイプ。そして、昴はその期待を完全に無視することはできない性格なのだろう。なまじ能力があるだけに、気にして応えようとしてしまう。
それでも、俺の奴隷になんかなったのは、本当はそこから無鉄砲に抜け出したい願望の現れにも感じられる。
「この話はおしまいにする……。櫂くん、寝るまで手握ってて」
「さすがにムカつくから却下」
どっちが奴隷なんだかわからない。
「じゃあおやすみのキスする?」
「しない!」
「じゃあ歌って」
「俺は一体お前のなんなんだ!」
昴はくすくす笑ってゴロンと横になった。
「あー……櫂くんといると、いろいろどうでもよくなる……」
それから暗闇の中、一分ほど二人静かに黙っていて、ふと見ると昴が寝入っていたのでびっくりした。思わず近くでまじまじ確認したが、小さく口を開けて完全に眠っていた。
えぇ……なにその変態的なまでの突然入眠。
苛立ち紛れに掛け布団を上から雑にかぶせて部屋に戻った。