14.木嶋家、キッチン
朝早くから雲井のスマホが鳴った。通話を切った雲井が焦った顔で言う。
「今から親が訪ねてくるから帰ってくれ」
そう言われて雲井の家から追い出された。
「雲井くん、どうもありがとうね」
「明日河さんはいつでも踏みに来てください」
「あはは、嫌だよ」
「木嶋も仲良しセットで踏んでいいですから」
「俺の許可なく妙なセットにするのやめろよ!」
「雲井くん、また学校でね。じゃあねー」
ほとんどの店もまだ開く前の時間帯。動き出す前の街は騒がしくなる直前のひそひそとしたざわめきに満ちている。
ふいに自分のスマホが振動して確認する。
「あ、母ちゃんだ」
『生きてる?』と聞かれたので『生』と返しておいた。
特に画面を隠していなかったので、目に入ったらしい昴が「えっ、それでいいの?」と驚いた声をあげる。
「いいなぁ。男子は家あけても適当で……」
「アレは半分諦めてるんだよ」
「……いいなぁ。私の文章の五百分の一くらいですんで」
そう言って、昴は自分のスマホをぽちぽちやりだした。さっきから返すたびにぱすんぱすん返信が届く音がするので、そこそこ長いラリーをしているようだ。困った顔でスマホを操作する昴をしばらく見てから遠くの景色を見た。
雲井の家の最寄りの駅前まで出てしばらくふたりでウロウロしていたけれど、日が昇るにつれ暑くなってきた。
蝉はうるさいし着ていた服はじんわりとかいた汗で湿っている。大型の店舗に入って涼をとったりしたが、特に買い物をするわけでもないので退屈だった。
正午も近づいたころ、一旦外に出て、くらりとした暑さを感じて限界だと思った。
服は数分でぐっしょりだし脳天は直射日光直撃で痛いし、顔から汗が出て不快。日が沈む夜まで、あと何時間もこうしていられない。
「家に帰るか……」
「えぇー、もう? 三日って話じゃなかった?」
「いや、俺んちに戻るんだよ。シャワーも浴びたいし着替えもしたい」
「えーっ、行こう!」
そんなものがあればだけれど、家出のルール違反になるだろうかと思っていたら昴は案外あっけなく賛同した。
「櫂くんの部屋見たい! 櫂くんのお母さんにも会いたい」
「仕事に出てるからいないよ」
「そっかあ。残念」
そのまま駅に入り、電車に乗って一駅移動した。
中二のころ同じ町内で引越したので、昴はここには来たことがない。
最寄り駅からは徒歩十分。エレベーターで四階に上がり、一番端の部屋。
「広くて綺麗なお家だね。駅からも近いし」
「俺はよく知らないけど……慰謝料だの養育費だの……いろいろ巻き上げたみたいだからな」
玄関には俺が小学生のころ工作で作ったイルカの形のオブジェが置いてある。母親が気にいっていて、前の家から持ってきたものだ。昴は自分の知っているそれを見て笑った。
それから鼻をくんくんさせてから頷いた。
「ひとのお家の匂いだ……」
自分の家の匂いはあまりわからないが、他人の家の匂いはわかるので、なんとなく、そういったものがあるのだろう。
入ってすぐの扉は俺の部屋だ。そこを素通りするとキッチンとリビング、その奥に母親の寝室がある。
薄暗いキッチンに入り、テーブルの椅子に腰掛けた昴が「お腹減ったぁ」と呟いた。
棚を探すと、とんこつ塩ラーメンが一袋だけ出てきた。
「こんなもんしかないな」
「わぁ。餓死する前にぜひ食べたい」
「じゃあそこ座って待ってて」
鍋に水を入れ火にかけて、ふつふつと沸騰したら麺をぶちこむ。卵もふたつ投入。スープの粉投入。終わり。
できあがったラーメンを器に半分に分けた。
明らかに量が足りないので、冷凍庫にあった冷凍食品の焼きおにぎりをレンジに入れて、ひとつづつ添えた。コップに冷たい麦茶を入れたら、半ラーメンとおにぎりセットの完成だ。
「よく考えたら昨日もラーメンだったな……」
「カップ麺と袋麺はべつの種族だから大丈夫だよぉ」
「そうかぁ? 犬の犬種くらいの違いだろ」
「どの犬も可愛いから大丈夫」
すごく雑なまとめかた。
「いただきまぁす」と言って昴が箸を手に取った。
そんなものでも腹が減っていたのでうまかった。
部屋がまだ十分に冷える前に火を使ったので蒸し暑い。無言で、ズルズルハフハフしながら汗だくで食べた。熱せられた体に塩分が染みる。
部屋には換気扇がまわる音だけが流れていて、窓の外からは車の音と蝉の音が小さく聴こえた。そちらは壁に隔てられた少しだけ遠い世界のように感じられる。けれど、外の世界が猛烈に暑いのはなんとなくわかる。
今、いつだっけ。
小学生のころの夏休みが重なる。以前もこんなふうな日があったような気がする。家はそのころ住んでいたのとは違うし、昴しか共通点はない。その昴ですら形を変えている。けれど、連想した。
食事がすむと、バスルームに昴をつっこんだ。
母親はこの時間には戻らないはずだが、同級生の女をこっそり風呂場に入れることに妙な後ろめたさがわく。小学生のころとは、似ているようでやっぱり違う。
ざあざあと水音が響く。扉を隔てた先にいるのは、俺の知っている明日河昴のはずなのに、知らない女が裸でいるような感覚が混じり合い、ひどく落ち着かなかった。
裸を連想するときだけ、俺の知ってる明日河昴が少し遠くなる。彼女の持つ女体と昴そのものは俺の中でべつのものとして存在している。
あの六月の日に、冗談まじりに「付き合わない?」と言ってきたのが現在の昴の形をした知らない女だったなら、俺はなんとなく付き合っていたかもしれない。
でも、そのなんとなく付き合った可愛い女のことを俺が大事にしたかというとそこは疑問だ。少なくとも家出には付き合わない。
そもそも俺は女性を大事にするということがどんなものかよくわかっていない。たとえばよく知らない女と付き合ったとして自分勝手な欲をぶつけようとして振られるだけな気がする。一挙手一投足気を使ってがんばればやっとこさそれなりな人間関係は築けるかもしれないが、ものすごく疲れそうだ。無理な気がする。
「さっぱりしたー! 櫂くんありがとう」
ニコニコしながら出てきた昴はさっきまで着ていたものとは違う、簡素なワンピースを着ていた。薄い蓬色の生地から露出した白い肌は素直に綺麗だったし、覗く鎖骨は涼しげだった。
髪の毛がしっとりと濡れていて、そこからこぼれた水滴が胸元に一粒ついていた。
昴をキッチンに待たせて自分もシャワーを浴びた。
顔から頭から吹き出ていた汗が全部流れると、モヤモヤしていた感覚が一緒に流れて、思考の海から現世に帰ってきたような感覚になった。