13.雲井の家
日が沈んだ。このままほっつき歩いていてもしょうがない。俺の頭に行く場所はひとつしか思いつかなかった。
雲井の家だ。
あいつは高校生のくせに家の都合でアパートに一人暮らしをしているというラノベ設定の男なのだ。俺ひとりなら駅だの公園だので寝ればいいが、昴がいるとそういうわけにもいかない。とりあえず一晩くらい泊めてもらうならそこしかない。
雲井に電話をかけると、今バイトが終わったところなので、あと三十分ほどで戻るとのことだった。
「櫂くんは、雲井くんのお家には行ったことあるの?」
「ない。話だけ聞いてた。場所も今初めて聞いた」
たどり着いたそこは、二階建てのややボロいアパートだった。
雲井は帰宅していて、簡略化された事情を黙って聞いて、俺と昴の顔を順に見て、頷いた。
「なるほど、だいぶ雑だが、明日河さんが家出したいのを、奴隷のお前が安心安全にサポートしたいと……それで家に来たと、そういうわけだな」
「すっごい不本意だし、まったく真意が伝わってないんだけど……とりあえずこいつの家出に付き合わされてるのは本当」
雲井はもともと人の話を聞かない男だ。よくも悪くも、ものすごいマイペースさがある。
「ただでは泊めない」
なんとなく、そんな気はしていた。
「……木嶋、わかってるな?」
「ああ……みなまで言うな」
「え、なに」
俺と雲井のただならぬ感じに、昴が身をすくめる。
「昴! 雲井を……コイツを……」
途中まで言った言葉の続きを、雲井が勢いよく低い声で言い放つ。
「俺のことを、踏んでください!」
「え、えぇー」
昴が俺と雲井を順番に見た。
「ふ、踏むって?」
「こう、もちろん制服のままでいい……! 寝そべった俺の体の上に、起立! 直立! それだけで俺はとりあえず満たされる!」
昴はうつむいて、あからさまに意気消沈してしまった。両手の指で自分のシャツについている飾りをモゾモゾつまんで「うーん」とか「うむー」とか迷った声を出す。
「昴、踏むくらい、いいだろ。屋根とエアコンのついた宿のためだ。割り切ってやれよ」
「でも、でも、私は櫂くんの奴隷でしょ……? カイドレのはずでしょ」
「妙な略しかたすんな。カイワレドレッシングか」
「櫂くんはいいの?」
「え?」
「櫂くんは、私が、ほかの人踏んでもいいの?」
「まったくいいと思うけど……」
それ、そんなたいそうなことなのか。
困惑してると雲井が割って入った。
「なるほど明日河さんの気持ちはわかった。それでは、こうしよう」
昴と俺はまたもや揃って雲井の顔を見た。
雲井は優しげな笑みを浮かべ、頷いた。
「俺は明日河さんに踏まれる。これは譲れない交換条件だ」
俺が「ああ」と頷き、昴が「それ、譲れないんだ……」と軽く引いた。
「しかし、明日河さんは木嶋が気になるらしい」
「うん……」
「だったら木嶋、お前も、一緒に明日河さんに踏まれればいい。ていうかそれしかないだろ」
「……お、俺も?」
「わあ、それならいいよ!」
「いいのかよ! 俺は踏まれたくないんだけど!」
「美少女の女子高生に踏まれるのはいいもんだぞ……」
「……だってよ! 櫂くん! 人生一回くらい踏まれときなよ!」
「お前らどこのまわしもんだよ!」
俺の目の前でなぜかふたりは合意した。
一体なんなんだ。
「なぁ、雲井。念のため聞くけど、それ、危険はないのか?」
「俺の兄貴はそれであばらを折ったまま入社式に出たが……死んでないし、俺はたくましいから大丈夫だろう」
「お前の兄貴……入社式前になにやってんだよ……ていうか嫌だよ! 俺、お前ほど頑丈じゃないし!」
「大丈夫だよ……兄は比較的……ふっくらした女性が好きなんだ。明日河さんは軽いだろ」
雲井の言葉に昴が「ど、どうだろ……最近ちょっと太ったし……」と自信なさげに呟く。せめて最近ちょっと痩せてて欲しかった。
「嫌だ嫌だ!」
「でも、私は雲井くんだけ踏むわけにはいかないし……」
「そうだ。こうするしかないんだ。それでみんな幸せになる」
「俺だけ幸せじゃないだろそれ!」
「櫂くん、新しい扉!」
「嫌だ! 俺は踏まれたくない!」
「グヌゥ……お前だけが我慢すればすむものを……」
「嫌だ!」
「木嶋、さっさと横になれ。俺は早く踏まれたいんだ、フンッ!」
「ぎ、ぎゃあー」
俺は力強きドッスンである雲井に押さえつけられて、うつ伏せで地面に沈まされた。そういえばこいつ柔道部だった。もう駄目だ。殺される……。
「さあ明日河さん! なるべくどーんと勢いよく頼む!」
「せめてそっとにして!」
「じゃあ、ふたり同時に行くね……」
雲井のほがらかな「お願いしまーす」の声が響く。昴がふうと息を吐いて緊張したような声でこぼす。
「ちょっとこわいな……」
「俺のほうがこわいわ!」
「行くよ! ……えい」
「あぎゃ! ふぎやぁああああ」
「あ、あ、あぁー♡♡♡」
狭い部屋の中、俺と雲井の悲鳴が響いた。
「櫂くん叫びすぎじゃない? 女の子に対して失礼だよ」
「お、お、男の子を踏むのは失礼じゃないのかよ! ないのかよおー! 早く降りろ! 雲井、これ、いつまでだ?」
「いついつまででも……こうしていたい……」
横から雲井の、うっとりとした声が聞こえる。
「じょ、冗談やめろ! もういいだろ! 俺の背骨と自尊心がコナゴナになる前に……」
「あ……♡ 明日河さん、そこでちょっと足踏みして」
「こ、こうかな……」
「やめろおぉーー!」
*
一通りの儀式がすむと、雲井はカップ麺を出してきた。
「ありがとう。ありがとう。明日河さん、これ食べて。木嶋も……食えよ。百五十円だ」
「俺だけ金とんのかよ!」
「私チリトマトがいいー」
「じゃあ俺はカレーで。木嶋はシーフードだな」
「もうなんでもいいよ!」
カップラーメンにお湯が注がれた。
三人で小さなローテーブルを囲む。
「それにしても、明日河さんは、なぜこんな男の奴隷をしてるんですか」
「えー、好きだから。本当は彼女がよかったんだけど……」
「そこが! それがすでにおかしいのです」
雲井は熱弁しながら砂時計を見て、ラーメンの蓋をめくった。俺と昴もそれにならう。
「誰かを好きなことが、おかしいなんてあるかなあ」
割り箸を割った昴が呑気な口調で言う。
「だってあなたがこいつを好きになる理由がないじゃないですか。まさか前世が亀で、助けられたとか? 鶴の姿で助けられたとか! あっ、さては、大事なはごろもを隠されて……!」
昴はにこにこしながら麺を美味しそうにすすり、スープを少し飲んだ。
「あのね、私はべつに、子どものころに櫂くんに困ってるところを助けられたとか、優しくされたとか、特別なことはないんだけど……あ、あるかもしれないけど、そんなのはたくさんの日々の中で忘れちゃうようなことで……」
ぼんやり話した昴はまたラーメンを箸で持ち上げる。
「なにか特別な瞬間があったわけじゃないけど、私は櫂くんと一緒にいると、毎日が楽しかったんだ」
「……」
「毎日当たり前にまた遊ぼうって、明日もまた会いたいなって……思って」
そうして、俺の顔を見た。
「だから、櫂くんといると楽しいのは当たり前だったんだ。当たり前だったから、なくなった時に本当につらかった」
空白の中学時代。
俺は自分の家のことで荒れていた。
だからかもしれない。俺は昴といると、なんだか昔の平和だったころ、家族が傾き分解する前の幸せな時間を思い出す。
昴も、離れた場所で新しい環境や家族の変化に戸惑っていた。だからもしかしたら彼女は、本当は俺のことが好きなわけではないのかもしれない。
いや、普通には好きなのかもしれないが、戻ることのないあのころへの憧憬は確実に混ざっているだろう。
飯が終わると雲井は風呂場に行って寝巻きらしきジャージに着替えて再登場した。
「じゃあ俺はいつもロフトで寝てるから」
「え……そうなんか」
「明日河さんは客用布団、木嶋はソファもあるし、寝袋も出したから……それで寝るといい」
「ああ、悪いな……」
「変なことするなよ……」
「するか!」
雲井はあくびまじりにロフトへの脚立を登った。上がってから首だけ下に出して言う。
「おやすみなさい、明日河さん。ついでに木嶋も」
背後で昴が「おやすみなさーい」と緊張感のない声を上げた。
暑さで思ったより疲れていたんだろう。まぶたを閉じると意識を失うのは早かった。