12.明日河昴の家庭の事情
無事に睡眠をとり、起きてから考えたけれど荷物は財布、スマホ、そんなもんだった。だいたいのものはコンビニで手に入る。昔一人で出たときは寝袋とか持っていったけれど昴がいるとそこまでワイルドな野宿もできない。
昼過ぎに昴の家に迎えにいくと、庭に人影が見えた。
ボウズ頭の……いや、あれはモヒカンだ。ド派手なピンクのモヒカン。
モヒカンの女性が野球のバットを持って昴の家の駐車場にいた。ぴちぴちの白いタンクトップに下は迷彩柄のズボン。編み上げブーツ。片手には瓶のお酒を持っていて、それをぐびりと飲んでいた。すごくパンク。
そしてその人はおもむろに、停まっていた車のボンネットに向かって思い切りバットを振り下ろした。
ガシャン、ガシャン。
威勢よく叩かれるそれにボンネット、フロントガラスがヒビだらけのベコベコになっていく。
あっという間のできごとだった。唖然として見ていることしかできずにいると、屋内から悲鳴が聞こえて、昴の母親が飛び出してきた。
「キャアァー! 彗希! ア、アンタお父さんの車になにやってるのよ!」
「ろくに使ってない車だから壊してあげたのよ! ヒャハハハハ!」
口を開けて笑うと舌にピアスがきらりと光った。ファンキーに世紀末な感じの人だ。
昴が二階の窓から顔を出して、俺に向けてスマホを指差した。
尻のポケットにあった自分のスマホを確認すると『裏の公園にいて』とメッセージがあったのでそこに移動した。
しばらくすると、昴がコソコソした走りかたで出てきた。
「……さっきのあれ、うちのお姉ちゃん。櫂くん覚えてない?」
「え、あれが?」
昴の五つ上のお姉ちゃんと言えば、むろん知っている。ものすごい美人で優しくて、上品で、しっかりした感じの人だった。スポーツで大きな大会にでたり、成績も全国でもトップクラスによかったとかなんとか。超人だった。今、アレなのか。ああなったのか。ちょっとショックだ。
「お姉ちゃんは、櫂くんも知ってると思うけど……美人で賢くて優しくて、なんでもできて、昔から、なんでこの家にこんな子が、って感じにものすごくできる人だったから、ずっと周りが、もう親だけじゃなく親戚中が期待しちゃってたんだよね……でも、三年前に、大学受験で志望校に落ちたの」
「え、それで……落ち込んでああなった?」
「ううん。落ち込んだのは、お母さんのほう。もともとは明るい人だったんだけど、暗い人になっちゃった」
たしかに、昴の母親とは一応面識があるが、明るい人だった。
「お姉ちゃんはわりとすぐ持ち直したんだけど、お母さんはほんとに引きずっちゃって……体調も崩したし、痩せたし……なにかっていうと気にしなくていいよって、失敗することもあるよって、そんな話をずっとずっとしてたんだよ……お姉ちゃん、そんなに気にしてなかったのに……それで追い込まれちゃって」
自分の失敗に目に見える形で落ち込まれて、暗くなられる。それで「気にするな」とずっと言われ続けたら、それは暗に気にしろと言われているのと同義だろう。ストレートじゃない分気が滅入りそうだ。
なぜか母親のほうが悲劇を横取りして嘆いている。そういった状況のようだった。
「それで……なんだか家全体が暗くなってしまって。お姉ちゃんは最初浪人してもう一度そこを受けるはずだったんだけど……ある日ブツンといって、それからちょっとおかしくなっちゃった」
アレをちょっとと形容していいものなのかは疑問だが、なんとなく概要はわかった。
「お父さんはもともと忙しいんだけど……お母さんは暗いしお姉ちゃんがいると突っかかって喧嘩ばかりだしで、余計に家に寄りつかなくなっちゃった。休みの日も仕事とかそれ関係の接待とかに積極的に行ってて、なんだかじわじわ崩壊してる」
「え、それで、もしかしてお前が代わりに優等生やって、その、親の希望のいい大学入ることにしたの?」
三年ぶりに会った昴は見違えるように優等生になっていた。俺と過ごしていたころの姿がそのまま進んだなら、はっきり言ってあり得ない姿だ。
「代わりとか、そんなんじゃないんだけど……なんだろ。私は……家族がバラバラになりそうで……なにかできることをしようとして、バランスを……とろうとしたのかな。今までずっと自由にバカをやってたから、今度は私ができる子の役を引き受けたら、少しは持ち直すかなって」
素養もあったのだろうけれど、かなり無理をしてがんばったのかもしれない。
「私は……お母さんの希望の大学に入ってあげたい気持ちもあるけど……もしかしたらそうしようと思っていろいろ変えようとしたのかもしれないけど……でも、本当にそうしたいのか、わかんないんだ……」
「……」
「高校も、なんだかんだで、親の期待とは違うとこ入っちゃったし……」
「そういやお前なんであの高校にしたの? もう少し上のところ行けたろ」
「それは……お父さんの転勤中もこっちに家あったから、ものを取りにきてたときに偶然櫂くんのお母さんに会って……櫂くんがあそこ受けるって聞いたから」
なんだそれ……聞いてないし。
「それで、私、どうせ帰ってくるんだし、同じとこに行きたいって、思ってしまって……少し反対されたんだけど……反対されたら結局、反発心みたいのも出てしまって」
「あー……」
「なんだかね、結局うまくやれなくて……居心地が悪い」
事情を聞いて、なんだか納得した。
昴の家庭の事情はたしかに、そこまで深刻でも重くもなく、地味に疲れが溜まっていく類のものだ。家庭内がギスギスしているときは家にいるだけで気がふさぐし居心地が悪い。「ちょっとこの場所を出たいな」が多くなる程度の嫌なストレスだ。
「でも、あの状態を放って家を出てきてよかったのか」
「あの状態だからこそ……どさくさに紛れて出れるといいますか……すごく出やすかった」
「うん……」
「櫂くんの言う通り、今日にしてよかったよ。いろいろ準備も根回しもできた。ちゃんと連絡も入れるし、大丈夫だよ」
まぁ、家出だと思われなければ騒がれないしそれなりに平和だろう。
「さて、じゃあ櫂くん、どこ行こうか」
「とりあえず夜まで時間つぶして……そのあとは一応考えてるんだけど」
「櫂くんひとりで家出してたんでしょ。そのときと同じ感じで!」
「同じにもいかんなぁ……」
俺は中学生で、今よりさらに金もなかったが、気候はこんなにヤバヤバしい暑さではなかった。昴がいると野宿するわけにもいかない。条件がいろいろ違いすぎる。
「私のことは気にせず元気に家出してよ!」
「いや、元はお前の家出だろ!」
「櫂くんの自然体でたのむ!」
「俺は自然体だと今現在家出してねえんだよ!」
結局、行くあてもないので、夕方まで街をふらふらと歩きまわった。
無駄に店に入って商品を見て涼んだり、駅前のベンチに座ってペットボトルのジュースを飲んだりだとか、なにを買うでもなく本当にうろついた。昴はずっと上機嫌で、いつもより弾けた感じにはしゃいでいた。
「櫂くん、疲れた。そこのベンチで座ろう」
昴はデパートのエスカレーター付近にある途中階の休憩所みたいな簡易ベンチに腰掛けて、ふうと息を吐いた。
貧乏金なし、モテる思考能力もなし。
大量に時間を持て余し、金も場所もないというこの状況が、たとえば付き合ってる彼女とだったらものすごく居心地が悪かったかもしれない。
根拠はないが、彼女とデート中にこんなところに腰掛けてはいけない気がするし、あてどもなく店を歩きまわってもいけない気がする。常に退屈させず、苦労をかけず、楽しませなければならないというような思い込みがある。とても面倒くさそうだ。
幸い明日河昴とは今よりさらに金のなかった小学校時代を共に過ごしている。なにして遊ぶかも決めずダラダラ歩きまわってもなにも困らない。なんなら会話がなくても困らない。
実際しばらく黙って座っていた。
俺は俺の、昴は昴の思考を、たぶんそれぞれしていた。視界にはたくさんの人の姿が通り過ぎて、喧騒は耳の端にノイズのように流れていく。一瞬だけ隣に昴がいることを忘れそうになった。
昴が思い出したように口を開き、そちらに注意が向いた。
「あのね、でも私、前のお姉ちゃんも好きだけど、今のお姉ちゃんも……好き」
「そうなの?」
自分ちの車のフロントガラスベコベコにしてたけど……。
「うん、行動力があるところとか、イメージを持ってお洒落するところとか。はっきりものを言うところとか……中身はそんなに変わってないんだよ。今はちょっといろいろ辛くなっちゃってるだけで、本当にすごく素敵な人で……大好きなんだ」
昴がすごくいい笑顔でそう言うのを聞いていたら、なんだか俺もそんな気がしてきた。
昔のあの人は綺麗でそつなくて、優しい人だった。
でも、今のアレも、なかなかいかしてる。