11.家出願望
夏休みに入って一週間ほどしたころ、深夜に枕の下に入れていたスマホが着信した。
音は切っていたから、振動がブーブーうるさい。電話は一度切れて、またすぐにブーブー鳴り出す。
繰り返すが夏休みに入って一週間ごろの深夜だ。
そういう時期はだいたいにおいて、はりきってだらしない夜更かしをしているので、ちょっと前に寝ついて、一番気持ちよく寝ている時間だった。
眠い目を擦り、表示を確認する。
明日河昴だった。受話ボタンを乱暴にタップして耳に当てる。
「うぉい……なんの嫌がらせなんだよ……」
「櫂くん、今から出てこれない?」
「あのさぁ……嫌がらせをするのも、命令するのも、俺がやるべきことなんじゃないのか。一応……奴隷なんだから」
正直なところ、最近奴隷契約の効力などというものはなきに等しいが、それでも立場が逆転してはたまらないので一応抗議の意を述べる。
はたして電話越しに弱々しい応答が聞こえた。
「お、お願いチケット一枚、つかう……」
「ふぁ?!」
そこまでして、こんな夜中に会うの?
「今から会いたい。櫂くんに会いたい。外、出れない?」
「い、今からぁ……? 何時だと思ってんだよ」
時刻はなんと午前三時半。お化けだってそろそろ寝ているであろう時間だ。
「……俺、もう寝る」
だってものすごく眠いから。今にもまぶたが落ちそうだから。
「じゃあ……いい。ひとりで出る」
びっくりしてちょっと目が覚めた。
「この時間に? 危ないから寝なさいよ」
「……出る」
「……わかった! わかったよ!」
「やった! じゃあ、待ち合わせはどこにする?」
「立ち直りはえーな……お前の家の前まで行くから、連絡するまで絶対出るなよ」
「うん。待ってる。待ってる。待ってる」
待ってる三連打きた。
こんなに眠いのに、奴隷に呼び出された……。
それ、もともと俺がやりたかった迷惑行為なのに……。
ボロいスニーカーに足をつっこんでそのまま家を出る。外に出ると夜のひんやりした風が吹いていた。
*
昴の家の手前あたりでポケットからスマホを取り出した。連絡しようとしたけれど、窓を見上げると昴が顔を覗かせていたのでそのままポケットに戻す。昴はすぐに顔を引っ込めて、玄関からそっと出てきた。
「櫂くん、ありがとう。はいこれジュース」
「う、うん」
ご足労ご苦労というようにジュースを渡されて、絶妙な気持ちになる。普通にただお礼を言われるより、パシリ感が強まったのはなぜなんだろう。俺はジュース一本で深夜に駆けつける男なのか。しみじみ手の中を見つめる。今日はペプシコーラ。
そのまま、昴の家の裏手にある小さな公園に移動した。
「最近夜でもすごい暑かったけど……今日はわりと涼しいね」
昴はつぶやくように言って空を見上げた。
つられて見た空には雲に隠された月と、星がいくつか光っていた。
昴がため息まじりにこぼす。
「家……出たいなあ」
「そんなに嫌なことがあんの……?」
「ううん、特別嫌なことはない……いつも通りだよ……」
「……」
「でも家に、いたくないこともあるの」
缶のコーラを開けた。ぷしゅ、いい音がする。ひと口飲んで、隣に渡した。昴がモノも言わずそれをごくごくと飲んだ。
缶の炭酸のジュースは、小さいころは禁止までいかなくてもあまりいい顔はされなかった。家でも積極的には与えられなかったからそれは特別なご馳走だった。お金だってそう持ってなかったからご馳走はこっそりふたりで分けるのが習慣だった。
高校生の今はそこまでご馳走ではないけれど、思いがけないところで昔の習慣は顔を覗かせて、あとから自分でびっくりしたりする。
「友達の家とか、行ったりしてねえの? 一日くらい泊めてもらえば?」
「友達とはたまに遊ぶし、それはそれで楽しいんだけど……気、使うから……ちょっと疲れちゃう」
「猫被ってるのがいけないんだろ」
「気を使ってるだけだよ。猫はそこまで被ってないでしょ。本気で猫被ってたら櫂くんの奴隷やってるなんて公表しないし」
それは確かにそうだ。わりと奇異の目で見られているのに、あえてそうしたということは、そこはさほど気にしなかったのだろう。
学校社会はほどほどに面倒くさい。
男だってそこそこ面倒なのに、女子にいたってはお揃いの髪飾りを使わなかったから断罪裁判、一緒に便所に行かなかったから処刑などという厳しい連帯感を求められることもあると聞く。
昴はわりと立ちまわりがうまいほうだが、根がふざけているのでうまく浮かないようにするには気を使うかもしれない。
「そろそろ帰ろうぜ……」
「やだ。帰るのやだ」
「親に騒がれると面倒くさいだろ」
「……」
「俺は家出なんて中学の時にさんざんやった。面倒なだけで気も晴れないし、いいことはなんもなかったよ」
しかし、昴は納得しないようだった。
「……私はしたことないもん。櫂くん一緒に家出して」
「えぇ? なんで俺が」
「お願い」
「俺は帰る。帰って寝る」
「やだ。お願いチケット十枚分つかうから、一緒にいて……」
「十枚分とか、そんな特別ルールあんのかよ」
「……」
昴は黙ってポケットからチケットを取り出した。俺の手にぐいぐい押し付けるように渡してくる。
無言でつき返すとふてくされた顔でしまった。
「もう! 櫂くんが無理ならひとりで行くからいいよ!」
止めたことで少しムキになってる気もする。放っておいたら本当にひとりで家出するかもしれない。
中学時代だから余計に目立ったのかもしれないが、俺ですら家出中に妙な大人に声をかけられたりした。昴のような目立つ容姿のやつが夜の街をひとりでふらふらしていたら、たぶん、確実に目をつけられるだろう。
昴の様子を見ていると、べつに耐えられない嫌なことがあるわけではなく、蒸発したいわけでもない。たんに鬱憤がたまっているので数日でいいから自分の日常と離れたどこかに行って煮詰まった閉塞的な気分を変えたいという感じだ。
かつて似たような逃避願望を抱いていた身として、なんとなく気持ちはわかる。
「……わかったよ。……三日。二泊三日くらいなら……なんとかしてやる」
「え、うん!」
「でも、明日からな」
「えぇー」
「荷物も持たずに家出するつもりかよ。アイテムは一個でもあったほうがいい」
「そっか。はーい!」
「俺ちゃんと寝たいから、明日の昼過ぎくらいから決行な」
「じゃあ明日のお昼過ぎに迎えにきてね! 約束だよ!」
「わかった」
返事をしたあとで気づいたけれど、なんで俺が迎えにいくことになっているんだ。
帰らせた昴が少し先の道で振り返って大きく手を振っていた。むちゃくちゃ笑顔。まんまと乗せられた気分。
眠い。帰ってもう一度寝よう。
缶ジュースの残りを流し込み、ゴミ箱に投げ捨てた。
空は下のほうがうっすら白味がかってきている。
もうすぐ夜が終わる。