黒い本 6
「下だ」翠玲葉が声の主を探して周囲を見渡していると、横からため息交じりの少年の声がした。
「・・・あ。失礼しました」
「いや、構わないよ。慣れているからね」彼は慌てて頭を下げた翠玲葉を余裕のある口調で諌めると、朗らかな表情で両者を見上げた。
「まずは、自己紹介とするかね。わしはクルト。今は貴重品の番を任されておる。見ての通りドワーフじゃ」
「こちらこそはじめまして。私は翠玲葉と言います」
「お前さんのことは、マダムから聞いておる。今日は頼むよ」
彼は今までの男たちと全く雰囲気が違っていた。背丈は両者の膝にも満たなかったが立派な髭と鷹揚とした佇まで、眼鏡の奥から覗く思慮深そうな眼差しは老紳士という言葉がよく似合っていた。豪快で粗野な者が多いと思っていたので意外だなと思っていると、彼はそれを見透かしたかのように笑みを零していた。
「わしも昔は血の気が多かったが、ここに来てからはすっかり落ち着いたよ」そう懐かしそうに語ると、いつの間にか少年に視線を合わせていた。
「さて。そろそろ年寄りのおしゃべりは終わりとするかね。・・・いつもどおり、住民証を見せてくれるかい。面倒じゃが規則だからね」すると彼は小さくうなずくと右袖を捲り、赤い石が付いた幅広の金の腕輪を彼の前に差し出した。彼は眼鏡をかけ直しながらそれをしげしげと観察した後、ゆっくりと顔を上げた。
「あれ、これ・・・」
「確かに、本物に間違いないね。それじゃ、開けるとするかい」あまりに軽い調子で言うので思わずそれで良いのかと翠玲葉が言いそうになると、彼は柔らかく目尻を緩めてレンズを指差した。
「実はね、これも魔法具なんじゃよ。このレンズを通して見ると、どんな偽物もまやかしも見抜くことができるんじゃ。まあ流石に高度な魔術は、中々見抜けないんだがね」彼は柔らかい口調で言うと襟から鎖を引き出し、そこに付いていた小さな鉤型の飾りを重厚そうな金属の扉の端にあったくぼみにそっと差し込んだ。するとガタンと歯車が回るような音が一つ、また一つと一定のリズムを刻みながら鳴り続けた。そして最後に大きくガチャリと鳴ると静かになり、彼が扉に右手を置くとそれは何の音も立てずにとても簡単に開いた。
「さてと。もう入れるよ」そう彼にゆったりとした口調で語りかけられ、それまで驚いて目を見開いていた翠玲葉は急に我に返った。
「これは魔法具じゃないよ。人間と暇なドワーフが作ったただのおもちゃじゃ。・・・さあ、二人ともおいで」翠玲葉の言葉を先回りするようにいうと歩き出し、翠玲葉が少し緊張したまま彼に続いた。中はあまり広くないが天井がとても高い部屋で、壁には上までいくつもの金庫がびっしりと並べられていた。彼はその中でも特に何の変哲もなさそうな中型の金庫の前で立ち止まると、そっと両手を扉に当てた。
「鍵が開いたよ。黒魔術書はこの金庫の中じゃ」
「・・・あ、はい」
「そんなに緊張することないよ。失敗したら、燃やしてしまえは良いんじゃからね」彼は朗らかに笑いながら実に軽い口調で言い放った。しかしその過激な言葉に翠玲葉はぎょっとした表情を彼に向けて固まり、少し離れた場所で暇そうにしていた少年もびくりと体を震わせた。そんな二人を交互に見た後、彼は突然大声を上げて笑い出した。
「もちろん冗談じゃ。黒魔術書を燃やすなんていうのは、どうしようもなかったときの一か八かの最終手段。どうじゃ、落ち着いたかい?」
「ええ、まあ・・・」
「あんたの冗談は冗談に聞こえない・・・」少年がため息をつきながらそうこぼすと、彼はまた声を上げて笑った。
「二人共、真面目じゃねえ。・・・それじゃ、ここからはよろしく頼むね」そう彼はさも何もなかったかの様に優しく言うと、ゆっくりと金庫の扉を開いた。
「・・・・・これが、黒魔術書ですね」
「念の為、これをはめてくれるかい?」彼はそういうとポケットから白い手袋を差し出したのだが、翠玲葉は小さく首を横に振りそれを拒否した。
「素手のほうが、魔力を感じ取りやすいのです」
「・・・そうかい。それじゃ、くれぐれも取り扱いには注意しておくれ」
「・・・・・はい」小さくそういうとそっと右手を伸ばし、ゆっくりと両目を閉じた。
「・・・クルト」
「ん?・・・おや、これは!実に、きれいな色をしているね」
感嘆の声を上げたクルトに少年はぼそりとつぶやいていたが、翠玲葉は背後の声には一切反応せず手元に意識を集中した。
黒魔術書を破棄するためには、まずは本にどれほどの魔力が込められているのかを確認しなければならない。そのためには微量の魔力を当てる方法が一般的とされており、ある程度経験のある者にとってはさほど難しい作業ではない。ただし翠玲葉は久しぶりだったため慎重に作業を進め、一冊目は通常よりも時間をかけて探るつもりだった。
「おや。もう終わったのかい?」
「・・・・・おかしい」




