6:森の歌
夕食がすんだ後、悠兄はすぐに仕事部屋にこもる。
リビングのソファに座っていると、森が歌いだした。途切れがちなソプラノが聞こえてくる。やがて声が近くなった。
優しい声音が高く響きわたる。あまりにもはっきりと聞こえるので、外へでてみると小夜子さんが歌っていた。玄関をでたところの段差に腰かけて、森と一緒にメロディーの波に漂っている。
「お姉ちゃん」
ピンと張った糸がゆるむように、声が途切れた。彼女は振りかえって笑う。
「森の声かと思った。歌が好きだね」
「まぁね。学生時代は声楽をやっていたから。目指せソプラノ歌手、なんてね」
「へぇ。だから上手なんだ」
「これくらい、普通よ」
笑いながら、彼女はまた歌いはじめた。高い音が更に上り詰めてゆく。水晶をこすりあうと、そんな音がするのかもしれない。
ゆっくりとした旋律が、しだいに高まり、樹々と共鳴する。
染みわたる歌声。重なる森の歌と、葉ずれの囁き。
不思議なほど、心が落ちついた。少しずつ思いが磨かれ、最後には素直な気持ちだけが残る。
闇が洗われたように、透明感を増していた。
小夜子さんの独奏が終わると、思わず拍手を送った。
「すごいよ、お姉ちゃん。それ、何て言う曲?」
「『アヴェ・マリア』よ」
「きっと、一生忘れないと思う。見て見て、鳥肌が立ったよ」
彼女はギュウッと僕の肩を抱いて、嬉しそうに笑った。
「大袈裟よ、貴史君は」
「そんなことないもん」
森は、静かに闇に沈んでいる。小夜子さんは深く息をついて僕を見た。
「ねぇ。私は悠にふさわしいと思う?」
驚いたけれど、すぐにうなずいた。彼女は撫でるように僕の頭をたたく。横顔からどこか暗い微笑みがもれた。
「私はそうは思わないわ」
「そんなことないよ。それに、悠兄が好きなんでしょう?」
彼女は真っすぐ僕を見た。暗闇の中でも、吸いこまれそうなほど澄んだ瞳。
「私の心には、悠が棲んでる。今別れても、きっと思い出と一緒に彼だけは残るわ。でもね、見て」
小夜子さんは細い腕を少し上げた。それは白い磁器のようにぼんやりと光って見える。
「時計を、無くしてしまったの」
「そんなの。それ位のことで悠兄は怒らないよ」
「そうね。でも、この時計が二度と戻って来ないように、取りかえしのつかないことがあるの」
「何かあったの? お姉ちゃん」
彼女はゆっくりと首をふった。
「ただ、もう彼にはついていけない。今年で最後にしようと思っていたのよ」
「別れちゃうの?」
長い髪がゆれ、彼女はうなずく。弱い微笑みを浮かべたまま。
「そんなの変だよ。お姉ちゃんは悠兄を好き。悠兄もお姉ちゃんを好き。なのに、どうして?」
思わず声が高くなっていた。小夜子さんの横顔が、遠かった。空をおおう黒い梢にさらわれ、消えてしまいそうだ。
「悠が、可哀想よ」
「お姉ちゃん」
「何をもめているんだ」
開いた扉からもれる光が、僕と小夜子さんを照らす。悠兄が背後に立っていた。ゆっくりと扉を閉めて、歩み寄ってくる。
「貴坊。中に入ってろ」
おだやかに、彼が言った。後ろ髪ひかれながらも中へ戻る。リビングの窓から二人の姿をたしかめて、奥の仕事部屋へ駆けこんだ。
ちょうど、その部屋の窓から二人の様子が間近に見える。すでに窓は開いていて、声が聞こえてきた。
「小夜子……。何かあったのか」
「何も。ただ、時計を無くしてしまったの」
小夜子さんの隣に、悠兄はゆっくりと腰をおろした。二人は寄り添うように座って、影を作る。樹々の間からのぞく夜空に、月が煌々と光っていた。
「もう、今年で最後にしましょう」
森がふたたび歌いはじめた。ゆるい風が流れ、葉ずれの音にソプラノの歌声が重なる。切ない、悲しい音色。まるで、小夜子さんの心を語るように。
「俺は理由を聞いているんだ」
彼女が、隣にいる悠兄の顔を見つめる。遠くてよく分からないけれど、微笑んだようだ。
「今の貴方には、知らないことが多すぎる」
「小夜子」
「――悠は何も知らない」
彼は小夜子さんの腕をつかんで引き寄せる。悠兄の澄んだ瞳は、遠目に見ても綺麗で、真摯に光っていた。
「知っているよ。小夜子を知ってる」
月が照らしだす二つの影が、一つになった。くぐもった小夜子さんの声が、途切れがちに聞こえた。
「一緒にいるのは、苦しいわ」
「それはお前が、俺に惚れているからだ」
森の美しい声だけが、音になる。細く細く、微かにここまでたどり着く声。暗く沈む森の彼方で、誰かが歌っているように。
やがて、小夜子さんの笑い声がとどいた。
「自惚れてるわ」
「そうだよ、悪いか」
彼女は顔をあげて、少し彼から身をはなす。
「でも、もう少し考えさせて。まだ心の整理がつかないの。……貴方には、笑顔で答えたいから」
「――わかった」
悠兄の声が、優しかった。