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森のレクイエム  作者: 長月京子
一:森は歌う
5/22

5:すれちがう風

 昼食を終えて食器を流しへはこぶ僕に、悠兄は退散しろと合図を送ってきた。思わず笑いながら、軽くうなずいて見せる。


「悠兄。僕、仕事場へいって絵を見るから。いいよね」

「ああ」


 食卓をはなれて廊下へでる。仕事場へはいかずに、盗み聞きすることに決めていた。息をひそめて中の様子をさぐる。


「あのな、小夜子……」

「悠、今度はどんな物語なの?」


「まだ決まってない。それより、小夜子」

「ご飯、もういいの?」


 しばらく、沈黙があった。心臓が幾分、鼓動を強く打っている。じれったいようで、不安で、少し嫌な予感がしたのだ。


「それが、お前のやり方か」


 低くおさえた声が漏れてくる。小夜子さんの小さな声が答えた。


「少し、考えさせてほしいの」

「わかった」


 椅子をひく音がして、慌てる僕にかまわず悠兄が姿を見せた。何も言わず、無表情なまま自分の仕事部屋へ消えていく。背中を見送ると、胸に石がつまったように苦しくなった。そっと食卓をのぞくと、小夜子さんは食器の片づけをはじめていた。


「貴史君。悠の部屋へ行っていたんじゃないの?」

「どうして? お姉ちゃん」


 彼女は察したようで、寂しく笑った。


「盗み聞きはよくないわね」

「どうして。悠兄のこと、嫌いになったの?」


「違うのよ」

「だったら……」


「ねぇ、貴史君。私には、私の事情があるの」


 小夜子さんは涙を零さないのが不思議なほど、哀しそうな顔をしている。悠兄よりも明るい琥珀の瞳が、潤んでいた。僕は何も言えなかった。


 森から、歌が聞こえてくる。ゆっくりと小夜子さんからはなれて、悠兄の部屋へ向かった。

 どこか哀しい歌声は、仕事部屋にも響いている。冴え渡ったソプラノは不気味なほど高音だ。女の人の悲鳴のように聞こえる。


「貴坊か」


 右手に筆を持って、悠兄が振りかえった。いつもどおりの微笑みが宿っていた。少しホッとして近寄る。物語の一部を書きなぐった紙が床に落ちていた。鉛筆のうすい線が筆記体のように滑っている。


 『森のレクイエム』


 右端に書かれた、その言葉だけを読みとった。


「これ、落ちてる」

「それは、そこに置いてあるんだよ」


 描かれている緑は、さっきよりもわずかに深くなっていた。


「森?」


 聞くと、悠兄は尻上がりの口笛を吹いた。


「正解、よく分かったな」

「うん。だって、あの紙に。……ここの森がモデルだね。どんな話なの?」


「簡単に言うと、森が歌う話」

「レクイエムってどういう意味?」


「死んだ人の魂を、慰めて鎮める歌ってことかな」

「……ふうん」


 悠兄の絵は、そのまま彼の心だと思う。優しいのだ。色使いも、線の流れも。水を含ませた筆が何度も行き来して、言葉で表せない、澄んだ色が広がる。色鉛筆で仕上げをされた絵になると、透き徹った色彩のうえに、鉛の影が落ちて、深い情景が現れる。画面一杯に、想いが溢れて息づくのだ。


「また、哀しい物語になるの?」

「かもな。貴坊はハッピーエンドの方が好きか」


「ううん。でも、悠兄はなんでそんな切ない物語ばっかり書くようになったのかなと思って。昔の奴は、気持ち良すぎる位ハッピーエンドだったから」


 彼は、ただ首をひねった。


「そういえば、そうだな」と呟いてから、吐息をつく。


「現実はそう甘くないからな」

「悠兄って夢がないよね。それが物語にでてるわけだ」

「悪かったな。ハッピーエンドも好きだけどね」


 森の情景は、透明感をそのままに深みだけを増していく。硝子の箱に閉じこめられたように、平面の中で世界ができあがる。しばらくじっと絵に見入ったあとで、オズオズと言ってみた。


「ねぇ、悠兄。小夜子さん、泣きそうな顔をしてた。だから、あきらめたら駄目だよ」


 ゆるやかに動かしていた手をとめて、彼は僕を見る。少し胸が痛くなるような、優しい微笑みが返ってきた。


「予感はしていたんだ。時計をしていないから」

「時計?」

「そう。ほら銀色の、お前も知っているだろ? いつも肌身はなさず付けていたのに。だから、な」


 小夜子さんの細い腕を飾っていた腕時計。全体が銀色で、表面の水晶硝子が針を屈折させる。

 悠にもらったのよ。って、彼女の笑顔を一緒に覚えている。


「でも、去年も言ってなかった? 悠兄。お姉ちゃんが時計してないって」

「……言ってないと思うけど」


「じゃあ、気のせいかな。とにかく、時計なんて忘れてきただけかもしれないし。がんばれ、悠兄」 


 声援を送ると、彼は笑う。


「まだ、振られたわけじゃないからな」

「うん」


 聞こえてくる森の声はどんどん遠ざかり、やがてやんだ。

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