4:紺色(ビロード)の小箱
悠兄が仕事場にしている奥の部屋は、絵の具の匂いがする。濃いその香りは、森の青臭い匂いと似通っていた。
「兄ちゃん、昼ご飯だって」
「んー」
振りかえらずに返事をする彼に近づくと、デスクの上に淡い色彩が広がっていた。まだ書きはじめたところらしく、一面緑だったけれど、それだけで充分優しかった。
「綺麗だね」
「まだ、何を書いているか分からないだろ」
筆をおいて、悠兄は僕に笑いかけた。
「お昼だよ、いこう」
「なぁ、貴坊」
ふいに呼びとめられて振りかえると、悠兄は部屋の扉を閉めるように促す。
「どうしたの?」
扉を閉めて、再び彼のデスクに近づくと、悠兄はちょっと考える様子で言った。
「小夜子、おかしくないか」
「おかしいのは悠兄じゃないの?」
「がくっ」
彼は椅子の上で態勢を崩すフリをしてから、苦く笑う。
「だって、何か考えこんで怖い顔したりさ」
「んー、それは何て言うかね、けっこう覚悟がいるんだよ、男は」
「はぁ?」
首をかしげると、悠兄はデスクの引きだしから箱を取りだした。紺色の小さな箱。窓からの太陽光線で青色に鈍く光っている。深い青は、まるで海底の色を吸いとったように鮮やかだ。桃の皮のような毛並みまで持っていた。
「それって……」
「さぁ、貴史。これは一体何でしょう」
「ひょっとして、指輪?」
「ピンポン」
「すごい。悠兄。やったじゃん」
「お前ね、まだ渡してないだろ」
彼の手の中の箱を取りあげると、確かに中で指輪が煌めいていた。くもりのない眩しい輝き。硝子でもなく水晶でもない、透明に磨きあげられ、切りこまれた石。神聖な光が表面で反射する。
「早く渡せばいいのに」
僕がはしゃいでいると、彼は吐息をついて髪をかきあげる。箱を手にしてデスクに置くと、もう一度言った。
「小夜子、おかしくないか」
めずらしく、悠兄は悩んでいるようだ。
「こういうことはガキの方が敏感だろ」
「そうかな、確かに悠兄をさけてるかなって思う時もあったけど。でも、それは悠兄が怖い顔してたからじゃないの?」
言いながら、思わず吹きだしてしまう。
「悠兄、可愛いなぁ」
「お前はー、調子に乗るんじゃない」
すぐに腕が伸びてきて、プロレス技をかけられる。
「痛い。ギブアップギブアップ」
僕をはなしてから、悠兄はまた溜め息をついた。頭をたれて上目使いにこっちを見る。彼の長い前髪が視界をさえぎり、その瞳に影をつくった。
「単に俺が神経質になってるだけか」
「そうだよ。……だいたい、これを用意するためにここにくるの遅れたんだろ。小夜子さんが少し機嫌を損ねてるとしても、それを渡せば解決じゃん」
「でも、時計をしていないんだ」
「え?」
「ああ、いや。お前も中坊になって、しっかりしてきたな」
悠兄の言葉に胸をそらせて威張っていると、いきなりドアが開いた。
「こら。二人とも、早く来てって言ってるでしょ。ご飯が冷めるじゃないの」
「ごめーん、お姉ちゃん」
慌てて部屋をでようとした僕の背後で、低い声がした。
「小夜子、話があるんだ」
思わず僕の鼓動が高鳴る。小夜子さんの横顔がサッと緊張したのが分かった。
「その前に……」
彼女は取りつくろうように、唇を動かした。
「その前に、ご飯を食べて頂戴」
「……ああ」
悠兄が立ちあがって、僕を促して部屋をでる。
――小夜子、おかしくないか。
彼の危惧を、はじめて理解した。たしかに彼女の反応は不自然なのだ。だって、見たはずだ。デスクの上の紺色の箱を。青く鈍い光沢を放つ、小さな箱。誰が見ても、それが何を意味するかは分かりきっている。