選択肢
何の気負いもなく、マユハは手を差し出す。
まるで買い物帰りに手をつなごうとしているみたいに。
「ただ一緒にいてくれればいい。それだけで充分幸せなの、わたし」
小さな掌をただ凝視した。
壊れそうに繊細で、わたしに愛を与えてくれたマユハの手。
わたしは動けなかった。
手を取ることも、払いのけることもできない。
どちらも選べない。
やがてマユハはきゅっと拳をにぎった。
「ごめん、急すぎるよね。でも、ロゼはすぐに逃げた方がいい。あいつはロゼを道具にしてる。これ以上――」
「それを決めるのは、わたしよっ!! わたしはちゃんと納得した上で博士に協力している!!」
「納得できたの? あんなに大勢殺すことを、納得した?」
してない。できるものか。
だけど、仕方がないじゃない。
他の誰もできないんだよ。嫌だけど、やるしかなかった。
だから、仕方がない。
そう思うしかないじゃない。
「ダメだよ。それをしていたら、わたしと同じになる。ずっと――死んでしまいたかった、わたしと」
かすかな笑みをたたえたまま、マユハは語り出す。
「わたしは、早く死んでどろどろに腐ってしまいたかった。そしたら、もう誰もわたしに触りたがらないから」
マユハは虚無に沈んでいた。
この娘には、もうこんな顔はさせたくない。
わたしはそう誓ったはずなのに。
「みんな、嫌いだった。わたしとわたしの周りにるもの。わたしがこれまでにしたこと、されてきたこと。何もかも、消えてしまえばいいって。中でも一番、嫌いだったのは自分自身」
抑揚のない口調に嫌悪が満ちている。
片田舎の農家はマユハにとって故郷ではない。
地獄だったのだ。
マユハの傷は癒えていない。少し触れただけで、たらたらと血が流れ出す。
わたしはそれを知っているはずなのに。
だから彼女の傍を離れないと、幸せにすると誓ったはずなのに。
「ずっと死にたかった。自分が大嫌いだった。でも、今は大丈夫だよ。わかる?」
瞳を潤ませて、マユハは言った。
「だって、わたしはロゼに会えた! わたしの過去は、あなたに愛される未来へつながっていた。だからもう、みんな許せる。ぜんぶ受け入れられる」
迫る夕闇を押し返すような笑顔。
小さな身体から、幸福があふれこぼれていた。
マユハはいま、幸せなのだ。わたしに愛されて幸せだと感じているのだ。
凄惨な過去さえ、受け入れてしまえるほどに。
「だから、して欲しくない。ロゼが、自分を嫌いになるようなこと、これ以上して欲しくない。大好きなあなた。愛するあなた。あなたには自分を好きなままでいて欲しいの」
膝が震え、わたしは崩れ落ちそうになる。
ああ、だけどわたしはもう――
「――っ!?」
突然、背後の斜面が爆発した。
繰り返し着弾し、丘に陣取っていたマガツ達が吹き飛ばされる。
砲撃――複数の大砲によるつるべ撃ちだ。
いつの間にか、麓に大隊規模の地上軍が展開している。混成戦闘団の残余か?
いや、それにしては位置がおかしい。
地上軍はクルグスとは逆の、ベルゲンに続く街道からやって来ている。
まばゆい発砲炎であたりが照らされた。
さかんに撃っているのは機走砲車のようだ。数輌が並び、マガツに直接射撃をくわえている。
大型機走車から兵士達が飛び降り、しゃにむに丘を駆け上がってきた。
マガツ達も動き出し、地上軍を迎撃。
たちまち血みどろの近接戦闘が始まった。
マガツの数に対しては戦力が足りない。普通なら兵士達の方が不利だ。
だが、マガツのほとんどは呪いで瀕死に陥っている。
ろくに戦えず、駆逐されていく。
「あっ、ちょっとまだ……っ!?」マユハの驚く声。
振り向くと、一体のマガツがマユハを咥え、持ち上げていた。
丘の反対斜面へ逃走するつもりらしい。
布包みを落としかけ、マユハは慌てて胸にかき抱く。
「マユハっ!? 待ちなさい、マユハっ!!」
「ごめん、この子が逃げようって……あとでぜったい迎えに行くからっ!!」
抵抗のしようもなく、マユハは運ばれていく。
追いかけようとしたわたしの前に別のマガツが立ち塞がった。
「どけ、邪魔をするなっ!!」
怒鳴ったところで相手が聞き分けるはずもなかった。
こいつも死にかけのようだが、素手では排除のしようがない。
わたしは地団駄を踏むしかなかった。
「ちくしょう……っ! まだ話が済んでないのよっ!? マユハーっ!!」
「決めておいて、ロゼ! わたしと行くか、それとも――」
言いながらマユハの姿は丘の向こうへ消えてしまった。
それとも? それとも、何なのだ。せめてはっきり言うべきじゃないか。
切れるほど強く、唇を噛み締める。
いや、違う。誤魔化すな、わかっているはずだ。
あの子のことなら、わたしだって大抵は予想がつく。
わかってはいるのだ、言われずとも。
マユハと行くか、それとも――マユハを殺すか。彼女はそれを選べと言っているのだ。
とんだ宿題だ。ひどい選択肢だった。
何もかも突然で、あまりに一方的過ぎるではないか。
「わたしに――どうしろって言うのよ……? 決めろって、どう選べばいいのよ、そんなものっ!?」
一人取り残され、わたしは立ち尽くすしかなかった。
やがてマガツの抵抗を排除した兵士達は丘の頂上まで到達。
彼らに保護され、わたしはベルゲンへ帰還した。




