総崩れ
博士はシート越しにこちらを振り返り、呆れたように答えた。
「なにを言っておるのだ、貴様は。私がしたことではないぞ? むろん、可能性は充分に予見していたが」
「な――」
「そして警告したとも、王や貴族院の連中に直接な。あらゆる犠牲を払ってでも渡洋爆撃を行い、アイリッシュ島の巣を破壊すべし――だが連中は指一本、動かさなかった」
「何故です!?」
「証拠がどうの、戦力がどうの、金がどうのと……いつもの話だ」
わたしは横で青ざめているマユハの手を握った。
きっとわたし自身もひどい顔色をしているのだろう。
「小さいとは言え、巣の中には十数万の卵があるだろう。それらが全部孵ったらどうなると思うね?」
西部海岸の橋頭堡と呼応して、ロサイルの巣からマガツが侵攻を開始する。海岸付近に展開している地上部隊は挟み撃ちになってしまう。
「包囲され、空からの援護もろくになければ、長くは持たん。巨人族であっても同じことだ。海沿いの戦線は崩壊し、全軍が潰走するだろう。何人死ぬか、見当もつかんよ」
職業的な無関心さを維持していた機走車の運転手も、ぎょっとしたようだ。落ち着かない様子でちらちらと助手席の博士を盗み見ている。
「後は総崩れだ。王都陥落まで二ヶ月も保てばいい方だろうな。私なら一ヶ月以内に賭けるがね!」
斟酌せず、得々と語り続ける博士。我慢しきれず、わたしは噛み付いた。
「何故、そんな……平然としているんですか!? 言葉の上だけの話じゃない。このままだと、我々は本当に地上から一掃されてしまうのに!!」
ベルファスト博士はじろりとわたしをにらみ、
「本当に貴様は頭が悪いな。あれだけ言ったのに忘れてしまったのかね?」
と、仕切り直すように鼻を鳴らした。
「ふん、まあいい。それもこれも想定内だ。おろか者にはそれにふさわしい扱いがある」
口の端をゆがめた笑み。
呆れるほど傲慢で、忌々しい独善を隠そうともしていない。
「いいか、今回のマガツの大攻勢で私は確信した。我々――いや、私は勝利を目前にしていると」
博士はどこか前方にうっとりした視線を向けている。わたしのことなど、まったく眼中にないようだ。
「奴らはいい情報を得ているのだ。とてもいい情報をたっぷりな。だからこそ、焦っている。なりふり構わなくなっている。わかるかね? 負けそうだからだ!」
いまや、ベルファスト博士は声を上げて笑っていた。嬉しくて嬉しくて、仕方がないという風に。
「そうとも――勝つのは私だ!! 知らず、連中は私の手助けをしてしまった。勝利のお膳立てをしてしまった。やはりマガツは私より愚かだ。先が見えているようで見えていない。だから私が勝つ。当然の成り行きだな!!」
本来、表情とは他人に己の感情を伝える為にあるはずだ。
ベルファスト博士の笑顔は違う。これは、別ものだ。
端から理解を拒否するかのような、凄まじく隔絶したなにかだった。
だからわからない。
博士が何を言っているのか、わからない。
しかしわからないからこそ、見えてきたこともある。
ベルファスト博士は恐ろしく孤独な男だ。きっと誰ともつながりを持っていない。汎人やほかの人種はもちろん、精霊種の誰とも、何ともだ。
たぶん自分自身以外に価値あるものは何も――何一つ、見出せなかったのだ。数世紀に及ぶ生涯の中で、ただの一度も。
確かに天才なのだろう。
だが、それ故に彼は彼を取り囲む世界そのものからほとんど断絶している。誰も彼に寄り添えない。誰かを求める心さえ持っていない。
わたしは凍えるような気持ちで博士の言葉を聞くことしかできなかった。
そして突然、不安にもなった。
ベルファスト博士は世界の誰も必要としない男だ。自分以外、どうでもいいと考えている男だ。わたしとマユハの未来を彼に託してよいのだろうか。
本当によいのか?
博士は計画している内容をほぼなにも教えてくれない。ただ、なにをしろと命じるだけ。今回もそうだろう。もちろん最終目的はマガツの滅亡だ。
そこは変わらないはずだが、だからと言って――
「――とはいえ、まだことは済んでおらん。勝利を得るにはあと数手必要だ」
「数手だけですか? 本当に? とてもそうは思えませんが」
こらえ切れず、異議を吐き出してしまう。
わたしの声は鋭く尖っていた。敵意がこめられていると言ってもいいほどに。
「本当だとも。いいかね、約束の時が来たのだよ」
ベルファスト博士はいっそ優しいとも形容できる口調で応じた。
「貴様の出番だ。候補者は他にもいるが、やはり貴様が適任だ、ロゼ・ボルド」
これは待ち望んでいた展開のはずではないか。検査は行われなかったが、結局わたしが選ばれた。
わたしがマガツを滅ぼす。戦争を終わらせるのだ。
その手立ては博士が整えてくれた。
ありがたい話のはずだ。感謝すべきことのはずだ。
「楽しそうですね、博士」
「楽しいとも! 当然じゃないか。戦争が終わる。勝利するのだ。貴様は楽しくないのかね?」
「わたしは――」
言葉が詰まる。どうしてもわたしは博士に同調できなかった。どこかで決定的な食い違いが生じている気がした。
「ああ、いや、いい。そんなことはどうでもいい」
突然興味が失せたのか、博士はかぶりを振った。
「私は貴様を指名したぞ、約束通りにな。貴様はどうだ? やるかね? 私に使われるかね?」
不意にマユハがわたしの手を強く握った。こわばった表情に彼女の願いと怖れがありありと映し出されていた。わたしは軽く握り返し、さらに空いていた方の手を重ねる。
――大丈夫、心配しないで。
わたしは帰ってくる、絶対に。君のもとへ帰り、ずっと君と一緒にいる。
これはその為に必要なことなのだ。
「やります。わたしにやれることならば、なんなりと」
「よろしい。ならば、やれ。やり遂げてみせろ! 首尾よくいけば貴様は英雄になれるぞ。人類史に残る、大英雄にな!」