引っ越し
1243年12月 バルト王国 クルグス市
数ヶ月は比較的平穏に過ぎていった。
たまに実戦試験もあるし、夜間用装備の試験で夜勤になることもある。
それでも哨戒や要撃に駆り出されることはないから、危険は少ない。
施設内に宿舎もないから、基本的には毎日出勤する形になる。
お陰で毎日、マユハと過ごせるのは嬉しかった。
ただ、クルグスは人口15万人とかなり大きな都市で、物価が高い。
当然ながら家賃もだ。
「他の大陸から逃れてきた人達が流入しているからね、わたしもだけど。壁の中の面積は限られているから、必然的に不動産の価値も上がるんじゃない?」
「なるほど。それにしても思い切りましたねー、買ってしまうとは」
チプスは館を見上げた。うらやむような、呆れたような微妙な顔だ。
小ぶりでやや古いが、部屋も八つある頑丈な作りの館だった。
わたしとマユハは今日からここで暮らすのだ。
なんだかんだと家具も買い揃えてしまい、結構な引っ越し荷物になってしまった。
だからチプス達の手伝いはありがたかった。
「2人だと広すぎて持て余すと思うんだけどね、マユハがここがいいって。お金出したのもほとんどあの娘だし」
彼女はトノト村の財産を売り払ったお金を使ったらしい。正直、私の棒給だけではとても手が出なかっただろう。
「でも城壁外の不動産は割安なのよ。三割くらいね」
このところは特に価格差が大きくなっているそうだ。
もしマガツに襲われたら古い城壁などなんの意味もないのだが、心理的に壁の外は嫌なのだろう。
「え、そうなんですか? ふーむ……」
なにやら思案顔になる。もしや彼も家を買うつもりなのだろうか。
わたしの少し後にチプスもタンブールの大隊から引き抜かれ、実験団の所属になっていた。
わたし達は兵隊だ。いつ、どこへ異動になるかわからない。
だけど、クルグスは比較的安全な土地ではある。まだ一度も空襲もされていないし、これから先はもっと価値が上がるだろう。噂では貴族の中にも領地を離れ、クルグスへ逃れている者がいるらしい。思い切って投資する先としては悪くないはずだ。
「チプスのご両親は今もロサイルに?」
「はい、ロサイルには先祖代々の墓もあるからと……。できればリニアと一緒にクルグスへ来て欲しかったのですが」
チプスは婚約者のリニア・ジンスハイムをクルグスに呼び寄せていた。結局、ロサイルは断続的に空襲を受けており、危険だからだ。リニアも今日の手伝いに来てくれており、台所で昼食の準備をしてくれている。
「正直、わたしは料理なんて全然だめだから助かるわ。マユハはお菓子とか得意なんだけど」
軍隊暮らしのいいところは、衣食住全部が供給されることだ。代わりに調理の腕が上がる可能性は限りなくゼロになる。
他の家事にしてもわたしが得意なのは衣服をたたむのとベッドを整えること。あとはブーツを磨くことくらいだ。
「楽しみにしていてください。リニアの飯は美味いですから!」
心から嬉しそうに言う。
チプスの大食らいはリニアも一因ではなかろうか。太るぞ、将来。
玄関をくぐると、チプスが「ところで中尉。これはどちらに?」とたずねてくる。
彼は大きなクローゼットを軽々と抱えていた。普通なら数人がかりでやっと運ぶような代物だ。
わたしはサイドボードに運んでいた箱を乗せた。
「ええと、二階の寝室にお願いできる? 位置は……」
と、マユハと少年が連れ立って階段を降りてきた。
少年は愛想よく話しており、マユハも微笑みを返している。
「――マユハ! 悪いけど、クローゼットを置く場所をチプスに教えてあげて」
「わかった」
うなずくとマユハは回れ右をして二階へ引き返した。軽い足取りでチプスが後に続く。
降りてきた少年は驚きのまなざしでチプスを見送った。
「すごいですね、ミード少尉……あんな大きな家具を一人で」
「あれが彼の固有技能だからね」
呪力による身体強化。
わたしも多少はできるが、彼ほど強力かつ継続的な強化は無理だ。博士に目をつけられるだけの「人並み外れた呪力」をチプスも持ち合わせているのだ。
試作段階の兵装は不安定な部分があり、呪力の精密な制御を求められる。
性能限界の見極めをしつつ、繰り返し調整を行って誰でも使えるように装置の標準設定を作っていく。それが実験団の重要な仕事だった。
「そういえば、君は固有技能章をつけてないよね。まだ認定を受けてないの?」
わたしは少年――アル・ハヤ・ファレスに問いかけた。
普通は飛翔学校にいる間に認定検査を受ける。彼は正式にはまだ士官候補生だが、後は飛翔軍少尉の辞令を待つだけ(なのに博士に実験団へ引っ張られた)のはずだ。
「いえ、自分は徽章を取れるほどの能力がなかったんです」
悔しさの滲む口調だった。
アルの技能も己の肉体に関するもの――自己管制能力だった。
これにより自分の身体を客観的に分析、制御できるらしい。
飛翔機で機動していると操縦者の感覚が狂い、機体の姿勢を見失うことがある。
こうなると上下や左右すらも取り違えてしまう。
上昇しているつもりで降下していることもあり、非常に危険だ。
アルの能力はこの錯誤に陥ることを完璧に防げる。
飛翔兵としては実に得がたい技能だった。
ただ、固有技能章を取るには呪力の強さや術操作の巧みさも要求される。
彼はそこが規定に達しなかったのだろう。
「飛翔機に乗って呪槍を起動できる呪力があれば、問題ないわ。君は操縦、巧いしね」
「そ、そうですか? ありがとうございます、ボルド中尉!」




