喜びと興奮
「あ、いえ、大丈夫です! わたしが転んで植え込みに突っ込んでしまっただけで……」
マユハを背中に隠し、取り繕う。
チプスにも色々協力してもらった手前、この娘に問題を起こされると困る。
我ながら下手な言い訳だったが、看護士は納得してくれたようだ。
「まあ、大丈夫ですか? 暗いですから、気をつけてくださいね。冷えますし、そろそろ中に戻った方がいいと思いますよ」
「え、ええ。ありがとう」
引きつった笑顔を浮かべ、ひらひら手を振ると窓は閉じた。
わたしは声をひそめ、即座にマユハを問い詰めた。
「――なにしてるの、こんなところでっ!?」
「ごはん。食べてきた」
「え? ああ、どの店……って、そんな話はいいのよ!!」
「帰り道、匂いがしたから」
「は?」
「ロゼの匂い。だから、また来た」
「そんな、動物じゃないんだから。フレイヤならできそうだけど……」
「フレイヤ? 誰のこと?」
マユハはきょとんとした。
まあ、民間人は知らないわよね。
「空で道案内してくれるお姉さんよ。仕事場まで、わたし達を連れて行ってくれるの」と簡単に説明し、「マユハはなにをしていたの。まさか木に登って、塀を越えようとしたわけ?」
「うん。落ちたけど」
「それは……わ、わたしに会う為に?」
「うん。会いたかった」
マユハの言葉を咀嚼する。
会いたかった。わたしに会いたかった。
明日になればまた会えるのに、我慢できなかった。
さみしかったのだ。
病院に戻っても会える可能性はほぼないとわかっていたはずだ。
それでもやって来て、無茶をして、この偶然に恵まれた。
これはそういう顛末なのだ。
正直、嬉しい。身体の芯が喜びで震えた。
「会いたかったわ。わたしも」
マユハはきゅっと手を握ってきた。
彼女もとても嬉しそうだ。
「も、もうしちゃ駄目よ。危ないし、叱られるから」
「む? わかった。代わりに、条件がある」
なんで裏取引っぽくなってるのよ。
微妙に上からだし。
「続きして。ちゅーの続き」
するり、とマユハは両腕をわたしの首にまわす。
闇に浮き立つ真っ白な肌がなまめかしい。
これは一体、どういうこと? いや、どうもこうもないではないか。
わたしは……彼女に恋人として求められているのだ。マユハはわたしが好きなんだ。
理解した時には、もう柔らかな唇を奪っていた。
わたし達はしっかりと抱き合った。
マユハの手はわたしの腰にまわされている。
わたしの胸をなかば潰すように、彼女は胸元を押しつけてきている。
小柄でほっそりした身体。
繊細な肌、ふんわりとした髪。
すべてが心地よかった。
もらえれば、もらえるほどに欲しくなる。
深く、強く、幾度も。
繰り返し、わたし達は恋人同士のキスをした。
「今日は大丈夫」マユハがつぶやく。
「――え? なにが?」
「げろっぽかった。最初のちゅー」
「う……ご、ごめん」
マユハはついと病院の一角を指差した。
「部屋を取った。二人の為に」だから何故、イケメンっぽく振る舞う。
「いやいや、あそこはわたしの病室じゃない!」
「ちゅーの続き、知りたい。女の子同士の続き。どうやるの?」
この台詞からの上目使いは――計画的な所作では?
マユハは必殺の布陣でわたしを陥落させようとしているのだ。
「教えて、ロゼ。お願い」
「そ、そんなの……わたしだって、経験ないし……」
マユハは「えっ」と小さく息を飲む。
「――じゃあ、冒険だ。はじめての冒険。わたしとロゼの」
喜びと興奮のかすかな抑揚を帯びた言葉。
まずい、ぐらっと来た。
好きな娘からこんな誘われ方をして平然とかわすのは無理だ。
わたしはなけなしの理性を総動員した。
「だ、駄目だってば! わたしだって、そりゃ……でも、ここは病院なのよ! もしばれたら……」
「うんと叱られるね。わたし達、一緒に」
「そ、そうでしょ? だから……」
「わたしはいいよ。一緒ならいい。叱られても」マユハはにこっとして「ロゼは?」とささやいた。
言うまでもないが、わたしはそれ以上の抵抗を放棄した。
裏庭に面した小部屋の窓からマユハを侵入させ、看護師の目を避けて三階の病室へ。
あろうことか、マユハはまずお風呂に入ると言い出し、さらにリスクが上乗せされた。
準備を整え、わたし達はおずおずと新天地へ乗り出し――心ゆくまでそれを満喫した。
頭をかすめていた怖れはどこかへ消し飛んでいた。
結局、わたしも冒険を続けたかったのだ。マユハと一緒に、手を取り合って。
わたし達には限界がなかった。どんどん先へ進むことができた。
秘められた宝物を探り当てることに夢中になった。
未知の領域を踏み越えて、どこまでも、どこまでも。
やがて疲労と睡魔が情欲を上回り、わたし達は共に眠りに落ちた。




