成就
驚愕の叫びを上げ、墜ちていくフレイ。
落着した先はさきほど上空から見えた河の上だった。
水飛沫が上がり、波紋が広がる。
もうさほどの高度はないから、死ぬようなことはないはずだ。
フレイが泳げるかどうかは別として。
「ひっど……」
「邪魔だった」
「ええ……まあ、そうね。ふっ、ふふ……っ」
「えへへへへ」
わたし達はしっかり抱き合い、笑って、キスをした。
ぴったりと寄り添って、滑るように飛ぶ。
大気はひんやりと心地よく、川面はまばゆく輝いている。
世界にはわたし達しかいない。
わたしにはマユハがいて。
マユハにはわたしがいた。
わたし達が携えているものは、互いへの愛だけだった。
「――ねえ。君はどうだった?」
言葉足らずの問いに、マユハは迷わず答えてくれる。
「楽しかった。幸せだったよ」
「ありがとう。わたしもよ」
「うん」
にっこり笑うマユハ。大好きな笑顔だ。わたしが愛した笑顔だ。
最後に君が笑っている顔が見れて、本当によかった。
幾度か羽ばたきを加え、わたし達は河から草地へ抜けた。
呪術成就のフィードバックがきたのは、その時だった。
覚悟していたような苦痛はなかった。
感染モードで呪殺した数は数百万では利かないはずだ。
原初領域から押し寄せるフィードバックは、術的な大津波とでもいうべき規模だった。
避けようもない濁流に飲まれ、魂が摩滅していく。
砂糖菓子のように解けていく。
すぐになにもなくなる。わたしの身体は空っぽの器になる。
そうなったらただ生きているだけだ。いや、まだ死んでいないだけの肉塊だ。
食事も取れず、やがて呼吸も止まるだろう。
わたしは知っていた。こうなることを――ここが終着になることを。
「……ロゼ? ねぇ、ロゼ……ロゼっ!?」
□
意識を取り戻せたのは、ほとんど奇跡だった。
目の焦点がなかなか合わない。
「ロゼっ!!」
頬に滴がぽたぽたと落ちてきた。
わたしは草の上に横たわり、かたわらにはマユハがいるらしい。
気を失っている間に着地したのだろう。
「マ、ユ……」
だめだ。もう、話すことも難しい。
フィードバックはまだ続いている。こうしている間にもわたしは消えていく。
伝えるべきこと。やるべきことだけを話そう。
それは――なんだっけ?
ばか、しっかりしろ! せっかくここまでたどり着いたのだ。
完遂しなくては。
そしてわたしは、最後の連鎖をかちりとはめた。
マユハは咳き込んだ。
掌で拭った口元に血の跡があった。よく見れば肌のあちこちに浮腫が出ている。
マガツ細胞の浸食が進みすぎたのだ。
「マ、ユ……マユ、ハっ!」
「ロゼ……? なに……?」
マユハはわたしの口元に耳を寄せた。
痛々しい浮腫を優しく撫で、彼女を引き寄せる。
「わたしの、なかへ……来て」
「え……っ?」
「わたしは、消えるの……た、魂が、摩滅、して――何もかも、なくなる……」
「な、なんで――呪いの、せい?」
かすかにうなづくと、マユハは言葉を失ったようだ。
もう彼女がどんな表情をしているのか、わからなかった。
視界がぼやけていく。
「君も身体、保たない。だから――だから、来て。わ、わたしの中へ」
手足がしびれて、感覚がなくなってきた。
急がないと間に合わなくなる。
「わたしの、身体、使えば、君は生きて、いける。一緒にいら、れる、よ」
「そん、な。そんなこと……」
大丈夫、できるよ。
君なら因果をそのように連ねることができる。
わたしはそれを知っているの。
「一緒に、い、よう……ずっと、ずっと、一緒に……」
さあ、受け取って。
わたしは全部、君のものだよ。
わたしの口に冷たく、柔らかな唇が重ねられた。たっぷりと舌を絡め合った。
送り込まれた甘い唾液を飲み下す。
喉が焼け、身体がかっと熱くなった。
まるで強い酒を飲んだみたいだ。じんわりと沁みていく。
抜け殻になってしまった細胞に、マユハの意思が浸透していく。
彼女が感じたこと、記憶しているもの、そのすべてが。
わたしは落涙していた。
わたしはこんなに愛されていた。こんなにマユハを愛していたのか――
「あ、ああ……っ! あああっ、マユ、ハ……っ」
「ロゼ、あなた……あ……ああう……っ」
わたし達はぴったりと身体を合わせ、固く抱き合った。
消えてしまうことが、少しも怖くない。魂が消えても、わたしは君と共にある。
穏やかな心地よさは、わたしの最後の願いが成就したことを示唆していた。マユハはわたしの中で息づいているのだ。
いまになってやっと理解できた。
もうぜんぶ、持っている。すみずみまで満たされている。
これで充分だった。
もう望むものなんてない。
薄れゆく自分の意識と引き換えに、マユハの存在がしっかりと確立していく。
もうなにも見えない。聞こえない。
すべてが消え失せ、己の輪郭すらつかめない。
でも、わたしは微笑んでいるはずだ。疑いの余地なく、笑っているはずだ。
わたし達は一緒に死んで、一緒に生きていく。
半分失って、半分得たのだ。
だから、わたしは幸せだった。心から。




