第九話 不動明 幽という男
俺、烏羽陣の朝は平凡な男子高校生よりちょっぴりとだけ早い。
スマホのけたたましいサイレン音が鳴り響く明朝六時、俺は寝ぼけ眼を擦りながらキッチンへと向かう。
俺が起きてまず初めに手を付ける事柄は『朝食作り』だ。
一人暮らしなら他人に気を使わなくても良い分朝食を抜いたり、晩御飯の余りを食べたりする人間が多いだろう。一人暮らしを始めて気が付いた事なのだが、どうにも俺は朝、しっかりと食べないと一日がだるくてしょうがないのだ。
「あぁー、卵余ってんな......」
調理する際は髪をくくるのが癖になっている。後ろで一つにくくりながら冷蔵庫をあさり何を作るか思案する。
「卵焼きだけじゃ味気ないしな......魚でも焼くか」
時間に余裕があるというのは、随分と心を穏やかにさせる。眠たくないわけではないが、かといってだらだらと布団の中で蹲るのも躊躇われる。
冷蔵庫から取り出した塩漬けの鮭を温めたフライパンに乗せ、火を通す。
滲み出る油がぱちぱちと音を立て、香ばしい匂いが顔をくすぐる。
炊飯器から米をよそい、一人で使うにはやや大きなダイニングテーブルに必要なものを並べる。
俺の部屋は1DKで、高校生が暮らすには十分すぎる広さだ。玄関から入って正面がトイレ、その奥にバス。右手側が洗面台。左側にダイニングとキッチンがあり、その先に六帖ほどの部屋が一つ。
正直親には頭が上がらない。まさかここまでしっかりとした部屋を借りられるとは、言いだした俺が一番驚いている。
そのことを何度も親に言ったのだが「彼女でも連れてこいよ!」「陣君は髪を切ってもう少し顔を出した方が良いのに......」としか言わなかった。うん俺の髪は関係ないよね母さん。
「さて、いただきます」
俺以外存在しない部屋で一人、手を合わせる。
咀嚼音と時計の針の音だけが耳を揺する。
俺は別に料理が上手いわけではない。ただ、作ることが肌に合っているのだろう。皿洗いも、下ごしらえも、盛り付けも楽しいからやっている。
時間をかけて朝食を完食すると、使用した皿を流しに持っていき水に当てる。その間にぼさぼさになった髪の毛を整えに洗面所へ赴く。
水とドライヤーで寝癖を直し、先ほどの皿を洗う。時計に目をやると時刻は八時を過ぎた辺り。十五分もあれば学校までたどり着けるので時間はまだある。
「この前買った漫画はもう読み切ったし......何をしよう......ん?」
ポケットにしまっていたスマホが軽く振動する。
画面を見るとメッセージが届いていた。
『おはよう陣! 今日......良かったら一緒に登校しない?』という文字が視界に入る。そして文字よりも多い意味不明な動物の絵文字が頭と最後を飾っていた。
「おお、あいつがこの時間に起きるなんて珍しいな......『俺も学校へ向かうから途中で合流しよう』っと」
返信すると同時に既読が付いた。そして俺が返信してから僅か一秒にも満たない時間で謎の動物が『OK』と看板を掲げたスタンプが送られてくる。
この動物、本当になんなんだ。形状は象に近いけど目が四つあるし、口は無数に存在し体中を覆っている。何よりも薄紫色の皮膚がよりホラー感を強めている。本当になんなんだ。そしてこいつのセンスは一体どうしたんだ。何を代償にしてその美的感覚を得たのだろうか。
こいつは俺の数少ない友人だ。だから心の中にだけ留めるが、こいつは頭がおかしい。
友人の美的センスを疑いながら、俺は自室を後にした。
――――
誰もが浮足立つ春。心が揺さぶられ、心地よい酩酊を万人が感じるだろう。俺もそうだった。
個人個人の在り方を優しく肯定する万全な感覚は、少し薄れてきたように思える四月の終わり。
浮き気味だった足が少しずつ地に根を張り、自分がクラスでどのような立ち位置なのかを向き合う時期だ。
桜の花は少し減り、新緑が芽吹く。
一年の頃から通っている通学路を歩いている。吉祥寺方面から歩いてくる生徒とほぼ同じ道順なので、群れを成して川を下る稚魚の様に俺もそれについて歩く。すると、その川の流れを塞き止めるような岩を彷彿とさせる、何かが数メートル先に見えた。
何かはその場からぴくりとも動こうとせずに歩道の端に深く根を張っている。
流れる稚魚の群れは触れぬように、関わることのない様に綺麗に距離を保ちながら避けていく。
俺にはその『何か』に心当たりがあった。
「よぉ幽君。早起きとは珍しいな」
声をかけるとこちらに顔を向けゆっくりと近づいてくる。
長く伸びた艶やかな黒髪を二つに分け、前方で房の様に束ねるその独特な髪型を見間違えることは無い。数少ない友人の『不動明 幽』だ。
グリースか何かを髪につけているのか、陽光をキラキラと黒髪が反射している。
身長は百九十程で、ただでさえ目立つのが更に悪目立ちしている気さえする。
「よォ......この前買ったゲームが面白くてよ......ついつい徹夜でやってたんだわ」
一昔前のヤンキー漫画の主役よろしく、肩で風を切りながら俺の横へと並ぶ。ちなみに彼がかったゲームというのはギャルゲーだ。俺が久田のせいで買えなかったあのゲーム。
このなりで、あのメールを打っているという現実を俺は未だに夢だと思っている。酷い悪夢だ。
俺は身長百七十五センチ。平均よりもやや高いぐらいだろう。だが幽と並べばその体格差が如実に分かる。彼はこう見えて卓球部なのだが、何故かこんな筋肉質な体格に育ってしまっている。
「ってゆーか、陣も朝早いの珍しくねぇか? いつも遅刻ギリギリだろ?」
不思議そうに俺の顔を覗く。
「ん。たまたま早起きしただけだよ。それよりも『吟ちゃん』ルート、どうせやったんだろ? 感想聞かせろよ!」
吟ちゃんというのは先ほども出ていたゲームの登場人物で、ヒロインの一人である。
俺は事前情報しか知らないのだが、ルックスはドンピシャに好みだった。
「陣は絶対吟ちゃん派だと思ってたぜ。まぁ残念ながら俺が“堕として”しまったんだがな?」
二ヤついや笑みで、俺の前に立ちふさがる。そばを通っていた後輩達がビクリと身体を震わせている。すまない後輩君。こいつは頭がおかしいんだ。
「お前とはここまでの付き合いの様だな」
「負け犬が吠えたぜ......彼女の美点はだな、恵まれ過ぎた環境による自信の無さに由来して――」
青い春と、灰色の人生。幽と灰色の道を踏みしめながら、学校を目指す。