第八話 茜色の理由
校門をくぐり、都道に沿って歩く。
暫く進むとバイト先の近くにある公園が視界に入る。そういえば、氷川とまともに話したのは昨日が初めてだったな......。あまりにも彼女が普通に接してくるから勘違いしていた。
当たり前だが、この公園に彼女はいない。氷川の居ない公園を突き進み、雑居ビルの階段を上って店の扉に手をかける。
「おはようござい――」
扉を開き、挨拶をしようと口を開いて、閉じた。
決して、俺は常日頃から「おはようござい」という挨拶をしているわけではない。では、なぜか――。
入り口から入るとすぐにカウンター席が目に飛び込む。いくつかのペンダントライトがほのかな橙を交えながら一人の人物を照らしていた。
「......やっときた。遅かったじゃん」
先ほど別れた氷川その人だ。
「マスター、ストーカーがいます。今すぐに警察に通報しましょう! さぁ! 今すぐにハリー!」
「お客様に何を言っているんだい陣君。早く着替えてきなさい」
至極まっとうな言葉を返され、俺は口をまごつかせながらスタッフルームに移動した。
昨日とは違い、自身の制服に身を包んでフロアに出る。
「へぇ、バイトの時は髪結ぶんだ?」
「悪いかよ」
「ううん、似合ってると思う」
俺は髪が長い。単純に髪を切りに行く頻度が少ないからだ。数少ない娯楽に宛がう金をこれ以上減らしたくないから――という単純な理由。
毛先は肩にべったりとつくほどで、黒々とした髪が重さと鬱陶しさを倍増させていると我ながら感じている。流石にそのまま仕事をするのは気が引けたので、バイトをしている間は髪を結んでいた。
サロンを腰に巻きながら氷川に顔を向ける。
「だからさっき俺がバイトあるか聞いてきたのか」
「うん......だってここ、静かで落ち着いてるし。遅くまでやってる」
「吉祥寺とか西荻とか、駅前ならいくらでも遅くまでやってる店があるだろ」
確かにこの辺りは住宅街で、腰を落ち着ける店は少ない。しかも夜十時までやってるのはここぐらいなものだろう。
だが、もう少し歩けば吉祥寺だ。あそこは凄い。何がすごいって五分も歩けばカフェが数え切れないほど見つけられるということだ。この前、買い出しに少し出向いたが、そこいらでプラスチックの容器にホイップクリームを詰め込んだ飲み物を手にしている人間が群れを成していた。
「......なんか、ああいうの苦手で......」
「へぇ、意外だな。寧ろそういったものが好きな部類の人間かと思っていたが?」
氷川の様なグループは常にタピオカを持ち歩き、スマホで自撮りをしてSNSに上げているイメージがある。
「私の事、何も知らないんだ?」
「知って欲しいのか? 嫌だね。自分で手いっぱいだ。そもそも、ただのクラスメイトの趣味趣向を逐一知りたがる方がおかしいだろう?」
両手を上にあげ、最もらしい様に言葉をくれてやる。
一度、あっけに取られたように間抜けな顔を曝した氷川は、すぐさま口元に半月を作る。
「なんか......烏羽は皆と違ってるね。そういう所」
今度は俺が間抜け顔を曝してしまう。
「なんだよ、それは。皆違って皆良いって小学生の頃に習ったろ。というか俺のどこが違うんだ。寧ろ凡庸な男子高校生を地でいってるぞ」
「あ、や、そういうんじゃなくて......」
俺の凄みに焦りを見せる。
「私の周りには、私を求める人しかいなくって......。けど、それに応える事しか私は知らない」
尻すぼみに勢いを落とす様を、俺はカウンター越しに見続ける。
これはただの氷川の独白でしかない。他人の独白に俺は何の手足も出せない。
「無駄にカッコつけてるみたいで恥ずかしいんだけどね......なんか、クセというか。勿論期待されるのは嬉しい事なんだけど......。私からしたら......ちょっと、怖い。その点、烏羽は......さ」
「ん」
「自分をおおっぴらにしてるようで、芯の所は頑なというか......他人に見せない、みたいな。そういう所あるじゃん? それは......ちょっと羨ましいなって......どうしても他人に見せたくない部分もあるのに、いつかはそれが暴かれそうで」
彼女は期待される。
俺が潜り抜けるハードルを容易く飛び越し、様々な方向から向けられる感情を識別し対処する。やっかみも嫉妬も尊敬もあるだろう。
家に帰れば家族が。学校に行けば友達が。
「......少しだけ、学校が嫌になった......家に帰るのも。好きなのに、怖く感じる。こんなこと、友達に言えないから......少しだけ吐かせて」
所々つっかえながらも、彼女は心中を吐露した。恐らくこの言葉は彼女の親友も久田も両親も知らない俺だけのものだろう。
――分かるよ、氷川。俺には分からない事だけど、分かるんだ。
同じような境遇の奴を、ずっと傍で見続けていたから。
けど俺は、何も手助けできない。ごめん。
もう決めた事だ。無闇に他人を救済しない......それは俺の役割ではない。
氷川の瞳が淡く揺れる。魔性は、人を無闇に引き付ける。
本来の役割から逸脱した行動をしてでも、傍に引き付けてしまう。
――あぁ、魔女だ。ずるいじゃないか......あんまりじゃないか。そんな目を見せるなよ。ここで揺らいだら、あの時心に決めたものが軽くなってしまうじゃないか。
気付くと、唇の内側を強く噛んでいた。鉄の味は実に不愉快だ。
「どう、したの......?」
氷川が弱い声をあげる。やめろ、そんな声を出すな。あぁ、くそ――魔女め!
「そんなに息が詰まるのなら......ここへ放課後来ればいい。学校では関わらん。けど、ここでなら、まぁ......話し相手ぐらいにはなってやる。親でもない、親友でもない【店員である俺】で良ければな」
彼女が求めていたのは、友と呼べるものでも親でもなく、かといって他人でもない関係。
「世間では隠し事は悪で、曝け出すことが善だと声高に叫ぶ輩が多い......が、俺はお前の在り方を、魔女を否定しない――」
店内で流れていたジャズミュージックが、途切れる。
接触が悪いのか、スピーカーが壊れているのか、同じ部分を延々とボーカルが歌い上げている。
氷川は終わることのない曲を耳に入れながら、深く胸を鎮め顔を伏せる。
窓から差す春の夕暮れが、店内の影を奥へと誘う。
「......アリガト」
声が聞こえた時には顔は真っ直ぐとこちらを見ていた。その茜色は、陽によるものなのか、はたまた別の何かなのか。
氷川の顔をあまり見ない様に、差し入る陽に顔を向けながら俺は口を開いた。
「......どういたしまして」
人は変わる。いずれ氷川も変わるだろう。
その変化が客と店員、氷川と俺の距離をも変えるのはそう遠くない未来だ。
遠く離れるのか、はたまた――。
そんなもの、凡庸な俺に知る由もないが。
「......ところで、魔女って?」
「やめろ掘り返すな」
「『――俺はお前の在り方を、魔女を否定しない』......陣君、カッコいいね!」
「一夏さん、早く仕事してください!」
「いやぁ、若いっていいね」
「マスターも!?」
俺の顔が赤いのは、多分、夕陽のせいだ。そうに違いない。