第七話 灰色
放課後、数学の教師からの有り難いお言葉をいただいて、職員室を後にする。
先生の名前は山川だった。
十代田高校は自主性を重んじる校風で、バイトも届さえ出せば認められている。勿論、バイトに明け暮れる俺はどこの部にも所属はしていない。
部活というものは、その青春時代を費やし、仲間やチームワークの大切さを得て、同調圧力、足の引っ張り合い、誰が上で誰が下といった格付けを学ぶ。そしてそこで絶対勝てない人間というものと出会い、諦めと挫折を知る。
そもそもやる気のない部員を抱えた所で互いに不利益しか生まないのは目に見えている。無駄なことはしない、無駄な人員は必要ない。実に聡明だと思う。
時刻は既に十六時半を過ぎている。ホームルームが終わったのは確か十六時丁度だったから、かれこれ三十分も先生に絞られていた。
バイトまでまだ少し時間があるな......。
バイト先まで学校から歩いて十分と掛からない。十七時半からシフトが入っているので微妙に時間が余ってしまった。
廊下を歩くと、様々な音が耳に入る。
野球部が声を出しながら走り込みをしている。坊主頭の掛け声で坊主頭が声を返す。サッカー部はマネージャーと談笑に花を咲かせ、テニス部は壁にボールをぶつけ個人練習に励む。小気味良い音が途切れることはない。
青春の斯くあるべき姿が、音となって俺を揺さぶる。
あぁー......教室に戻って新刊の続きを読むか。
このまま校庭から聞こえる音に照らされていると、内臓がねじ切れる気がしたのでそそくさとその場を立ち去る。
教室の前へたどり着くと、複数人の談笑する声が中から漏れ出ていた。
「つーかぁ、まーたその話? 聞き飽きたんだけど??」
脳の皺がボーリングの玉並みに磨き上げられたこの声は......久田か。
「だってこれやばくね!? もしこの噂が本当だったらさ......!俺、興奮していろんな人にしゃべっちゃった」
お前は......誰だよ全然わかんねぇよ。もっと声に特徴を持たせろよ。変な語尾とかつけてキャラ付けしてくれ。
「そういえばその噂でウケる事があったよな」
もう少し聞き耳を立てようと、廊下側から教室へ近づいた時、臓腑を鷲掴みされたような感覚に陥った。この声は九名か。知れず呼吸が浅くなる。
「あー! はいはいあれね!」
先ほどとは違い、嘲笑を含む声音が聞こえてくる。
教室にいるのは、久田と、九名と、あと良く分からんモブみたいな男子。
久田は聞き飽きたと言ったきり、会話に参加せずに、黙している。声しか聞こえないから本当の所は分からないが、今はモブAと九名が思い出を振り返りながら会話を続けていた。
「話を聞いた時は燃えたねー俺! まさか正義の味方が――」
「......何してんの? そんな所で」
「......はぁん!!??」
耳元で、湿りを帯びた吐息が吹きかけられた。脊髄反射で吐息の元へ顔を向ける。パキッと、なってはいけない音が内側から聞こえた。突然の首のストレッチは傷めるだけです。よい子は順序良くほぐしていこうね。
彼我の距離は紙数枚分。
氷川も突然振り向いた俺に驚いたのか、青白い顔に薄桜が混じる。
俺は暫し呼吸を忘れ、氷川霧華の顔に魅入っていた。
毛穴の一つ一つすら汚れとは無縁の様に見える。細く整った鼻が顔の中央に、峰の様に存在している。
一本の髪は淡い黒色だが、幾重にも折り重なると、そこに差し込む光と髪が暗翳を形作り、銀色を生み出す。
またも、彼女の魔性に見入ってしまった。恐るべし魔女。何敗目だこれで? 一勝もできる気がしない。
「てゆーか数学の授業、何アレ? ウケたんだけど。せっかく口パクで教えてあげたのに――」
数学の授業を思い返しながら腹を抱えて笑みをこぼす氷川。
「氷川、とりあえずここから離れるぞ」
「は? え? なんで......ってちょっとーー」
手を取って走り出したい気持ちがあるにはあったが、この土壇場でも引き際は間違えない。咄嗟に出した手を俺の口に当て、静かにしろとジェスチャーをする。
今なお混乱状態の氷川の前に躍り出て、足音を消しつつ教室を後にする。
どうにも不格好な逃避行だ。逃げられないと分かっていても、どうすることもできない。
ヒーローならば、遅れてやってきても事件は解決するだろう。
けど俺は、そんな一握りの誰かではない。凡庸で、白とも黒ともつかない灰色だから。
――灰色に出来ることといえば、逃げる事と先送りだけだ。
「ぜぇ......ハァ......死ぬ......」
暫く廊下を走り続け、気が付けば校舎の外に飛び出していたようだ。建物の影に隠れるようにその場から重たい足を引きずり身を隠す。
「......体力なさすぎじゃない?」
五体投地で息を整えていると、頭上から氷川の声が聞こえた。
「......さす......ハァ......ひかわ......たいりょ、ぜぇ......」
「......うん、待ってるから先ずは息を整えようか」
心配されてしまった。
数度、深呼吸をして息を整え、改めて周りに誰もいない事を確認する。
「流石は氷川だな......。体力も並ではないというわけか」
「あ、そこからはじめるんだ。......てゆーか体力なさすぎ」
しまった、若干引かれている。
「その髪......邪魔じゃないの?」
「ん......あぁ、俺の事か。まぁなんというか俺みたいな人間は基本的に前髪長いよな」
「それは知らない」
「随分と冷たい奴だな。会話を広げる努力をしろよ」
「で、なんで走り出したの?」
奥底をのぞき込むような目を携えて、いきなり核心を衝いてきた。
こいつと会話するたびに俺は何か考え込んでいる気がするな。
「えー......っと。そうだ氷川ってコーヒー苦手か?」
「その話題転換は無理があると思うんだけど」
くそ! 万策尽きた!
「......また、なにか私に嘘をついてる?」
俺は未だに芝生の上で仰向きで転がっている。俺をのぞき込むように見ていた氷川の顔が梅雨空の様に曇る。
「ちがう! ......あ、いや......なんていうか」
その憂い顔をみていると咄嗟に弁明したくなる気持ちが生まれた。だからといってどう説明すれば良いのかも分からないから、言葉を濁した。
「じゃあ......説明してよ。なんで私を引っ張って逃げたの」
ゆっくりと顔が降りて来る。さながら青白い月が暗い海に沈むように、それは幻想的だった。
垂れ下がった長い墨色の髪が俺の耳をくすぐる。白陶器の様な汚れ一つないデコルテがちらりと覗く。
「そんな顔して近づくなよ。惚れるだろうが」
精一杯の強がりで顔は逸らさなかった。
「まだ惚れてないんだ?」
「自惚れ......いや、そうじゃないな。それは自惚れじゃない。けど......惚れてない」
あべこべになった目線がぶつかる。
まただ。またあの目をしている。他人の縛りを容易くねじ伏せ、引き裂くような強引な魔。
「ふーん......まぁ、いっか」
観念したように離れる氷川。俺もいそいそと体制を起こし背中を払う。
「今日バイト?」
「......そうだが」
氷川が笑顔を作る。笑顔にはいくつも種類があって、この笑顔はどうにも含みがある。嫌な予感が......。
不意に呼び起こされたのは、昨日俺を揶揄った時に見せた笑顔。
俺の返事を聞くと、特に反応を示すことなく氷川はその場を後にした。目で追うとどうやら校舎の中へと入っていったようだ。
スマホを取り出し、時間を確認すると一七時を回ったところ。
鞄を教室に置いたままだったことを思い出し、俺も続くように校舎へと入っていった。