第六話 烏羽の誤答
漸くクラスメイト達が登場します。
生徒の少なくなっていた廊下を猛然と駆け(先生に怒られるから本当はやや速足程度)チャイムが鳴り終わる直前に教室に滑り込む。
教室は未だ喧騒に包まれており、誰一人として授業を始める準備はしていない。教師が姿を見せない間、彼らにとってはまだ休み時間なのだ。
勿論そのことを非難するつもりもない。俺だって暇な時間が増えるのはありがたい。
昨日買った漫画の新刊を捲ろうと表紙に手をやる。光沢質の黒い表紙は何度見ても、惚れてしまう装丁だ。まだ本編が始まっていないのに、物語の続きを想定してにやけが止まらない。
万感の思いで表紙に指をかけたタイミングで、教室前方の扉がゆっくりと開かれる。
「――ぇと、皆おはようございます!」
「「「「甘南先生ッッ! おはようございますッッ!!」」」」
男子のうち、何人かがやくざの舎弟みたいな挨拶をかました。俺知らなかったなーこのクラスにやくざの下っ端がいるなんて。ほらみろ、子分ABCDのアホ丸出しのあいさつに先生が驚いて固まっている。
驚きのあまり、今なお教卓へ向かうことを恐れている、生まれたての子鹿の様な担任――五位堂 甘奈。
長く柔らかな黒い髪をフィッシュボーンにまとめ上げ、右肩から前へ向けて垂らしている。その魚の尾はふくよかな胸部に持ち上げられ、曲線を描く。二十代半ばらしいが、俺らとそこまで年齢差があるとは思えない童顔と、その年齢差が格差を生んでいるのか、と女子が血涙を流す胸元のキリマンジャロが特徴的だ。
どこか怯えながら教卓に立つ先生。別に取って食われやしないぞ、と心の中でエールを送る。
「甘南先生おはー」
抜けたような声で気安く、同級生にでも語り掛けるような挨拶を飛ばしたのは久田 未央。
見た目は紛うことなくギャル。何度もブリーチをした長い髪は金......というよりもやや白に近く、毛先はパサパサで授業で使う毛筆の方がまだまとまりがあるんじゃない? とでも思う程だ。そんなこと口に出したりはしないが。
スカートはクラスの誰よりも短く、リボン、シャツ、カーディガンその全てがダルンダルンだ。ブルドッグかお前は。
だが彼女はこのクラスにおいてカーストの上位に位置する。
上位のお手本、とでもいうのか。彼女は友好関係をカーストで決めつけている節がある。自分より立場が上の人間――辻や氷川と四六時中共に過ごしているし、面倒ごとは下位の人間に押し付ける。
俺も一度掃除を押し付けられたことがあった。決して許されることではない。なぜならその日、発売を待ちに待っていた新作ゲームを購入する予定があった。が、しかし、押し付けられて嫌とも言えず泣く泣く掃除する羽目になった。勿論、ゲームは売り切れていた。許すまじブルドッグ久田。
そんな久田は俺の怨嗟入り混じる視線を気にも留めず、先生へのあいさつもそこそこに、後ろの奴と話している。
「久田さん、おはよう」
健気にも一拍遅れて返事をする。先生、そいつもう後ろの奴と昨日のテレビ番組の話をしてます。
「未央、先生が挨拶してるんだからちゃんと前を向けよ」
この場において、久田に意見が出来る人間というものは限られている。その限られた人間が最適解を衝いた。
――辻 御幸。
黄金を宿す獅子のような逆立った髪の毛。優し気で、かつ理知的に見えるシャープで涼やかな目元と泣き黒子、絶妙な黄金比を伴った顔のパーツ群。聞き入る鼓膜が惚れこむような、良く響く声。
氷川と並んでクラスのカーストトップ、いやこの学校でも一番だろう。
万能という言葉が形を持って生まて、神様が「どうせなら全部付けたそう」と気まぐれを起こし誕生した人間。
学業はあの氷川を抜いて一番。どの部にも所属していないが、それは部からの助っ人要請に応えるため。エースと呼ばれたメンバーを悠々と追い抜かし、華々しく戦果をもぎ取る。その手に握るのは勝利以外にはない。
一年の頃の球技大会ではサッカーが行われたが、自陣のゴール付近から敵を全て抜かし、一人で得点を決め続け、結局そのまま優勝してしまったのは皆の記憶に残っている事だろう。
身長も百八十を超え、モデルの撮影も何度かあったらしい。クラスの女子が辻の掲載された雑誌を教室で広げていたのを盗み見た事がある。男子がグラビア雑誌を広げると汚物を見るような目で視線を寄越すのに......。
ヒーローとは、あの男を指す言葉なのだろう。
「えぇ~? 甘南先生、ちゃんと見てたよね~?」
「えぇ? ......うん?」
「ほらぁ~御幸きびしー」
「あれ? 僕の勘違いだったか......ごめんごめん」
教室にいる他三十八名を置き去りにした会話が鼓膜を揺さぶる。
「ご、ごほん!」
あ、俺以外にも「ごほん」って本当に言っている人初めて見た。シンパシー感じる。
「そ、それじゃあホームルームをはじめるわょ?」
緊張して噛んでしまう先生。久田みたくギャル語を使っているみたいになっている。
ギャル語を使い慣れてゆく先生を妄想しながら、俺の学校生活の一日が始まる。
――――
凡庸な人間というものは、はみ出す事を恐れる。
得意な授業では、そこそこ真面目に取り組み。苦手な科目では話半分で頭の中は放課後のプランを練る。
――数学は苦手だ。
だが、端から寝入って授業を放棄するような度胸もない。真剣な顔で問題に取り組み、ノートの上ではシャーペンの先が空虚を描く。
これは決してサボりではない! そう、空中に数式を書き連ねているのだ。見えない者は馬鹿なのだ。あれ? 俺も見えない......。
先生にバレないコツは時折黒板とにらみ合い、手を止める事。表情はなるべく苦悶に満ちて。そうすれば「あぁ今ここがわかっていないのか」と温情ある先生ならきっとそう思ってくれる。
「えぇーじゃあここの問題の解を......烏羽、黒板に書いてみろ」
この先生は温情が無いらしい。
無言のまま、つかつかと教壇の方へ向かう。
俺が黒板の前に着くまでに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴ることを期待して時計をチラリとみるが、無情にもまだ始まって十分しか経っていない。
さながら絞首台に向かう囚人の様だ。
数学の教師(確か鈴木先生、いや山田だったか)は「これぐらいなら大丈夫だろう?」とでも言う様な顔だ。
諦めて先生から白いチョークを受け取った時、不意に氷川と目が合った。氷川の席は俺の席からななめ左前。つまり今、教壇からクラスを見渡す俺からは右側。
「――――」
口を動かす氷川。淡く色付く唇が更に薄く広がると、純白の歯列を奥ゆかしくのぞかせ、熟れた果実の様な口腔を見せる。舌が妙に艶めかしく這い回る。
(......ツチノコ......いや、ヒトガタ? 人型? なんで?)
刹那、俺は思考に耽る。
ーーまさかッ!? 俺の脳髄に稲妻が走る。
もしかしたら彼女は、俺や周りには公言していないだけで隠れUMAファンなのかもしれない、という予想が掻き立てられた。だとしたら俺と仲良くなれるかもしれない。モンゴリアン・デスワームで会話が弾むかもしれない。
IQ二百(俺の予想)の彼女が言っているんだ。間違いではない。ここで俺を貶めるような奴じゃないのは分かっている。
信じていいんだな氷川? お前のIQ二百という叡智に縋っていいんだな!!
俺は満足気に頷くと、伝わったことが分かったのか、氷川もどこか満足気に微笑む。
チョークを持つ手が自身で溢れる。力を入れ過ぎて先が欠けてしまいそうだ。
カッカッと深い緑色をした板に俺の手が滑る。先ほどまで空虚を描いていた時とは違い、確かに物と物が触れる感触が伝わる。
「先生、出来ました」
きっと俺の顔は一仕事を終えた、男の顔になっているだろう。
黒板には、デカデカと「ヒトガタ」と書かれている。我ながら力強く凛々しく書けたと思う。
額の汗をぬぐう。使ったチョークを先生に返し、自分の席へ帰ろうと足を向けた。
が、俺の首を数学の何某先生がひっ捕らえる。
「烏羽、どうやら寝ぼけているようだな。放課後職員室へ来なさい」
――あぁ、知ってた。だってこれ選択問題だもの。