第四話 薫灼、ハレーション
俺は返答に詰まってしまった。
理由を喋るのは簡単だ。「あの場で氷川と話しているところを見られたら良からぬ噂を吹聴されるのが分かり切っていたから」と言えばいい。
ああ見えて誰にも優しい氷川の事だ。きっと「気にしない」とでも返すだろう。それでもいいのかもしれない。けれど、俺のせいで彼女がつまらない評価を下されるのは、どうにも俺がつまらない。
どうにかして、彼女を納得させる言い訳を考えなくちゃならない。
だからこそ、俺は返答に詰まっていた。
「あの時......本当に心配したんだから。授業が終わって皆帰っていく中、あんたが倉庫に入っていくのを見たの」
姿勢は変えず、けれどもさっきよりは幾分か声音が強くなっている。
「少しの間、外から様子を伺っていたら何か大きな音がしたから......倒れたんじゃないかって心配になって入った……なのに……あんたは無視してさっさと出て行った」
何事にも程々に取り組んで、程々の成果を手に入れ満足する。多くの人間はそれでいい。栄光や一番を手にする人間はほんの一握りで、それは俺みたいな人間じゃない。きっと氷川や辻といった人間だ。
だが、この瞬間だけは違う。
全身を脳細胞に書き換える勢いで体全体で考える。
クソッ! こんな事なら昨日深夜にやっていた喪氏先生の脳トレ番組をしっかりと見ておくべきだった!
後悔しつつも並列で返答を模索する。
――潜思の末に出した俺の返答、求めた完璧な言い訳。
「あれはだな……猛烈に強い腹痛が突然襲ってきてな……つい氷川を無視してしまった。それ程の腹痛だった。......すまない」
ありがとう喪氏先生。あなたの番組は見ていないけれど、きっと俺の力になりました。
心の中の、顔もよく覚えていない喪氏先生に感謝の念を送る。喪氏先生はふと、寂しそうな、嬉しそうな顔を浮かべ輪郭を徐々に溶かし、俺の奥深くへと消えていった。
ありがとう、喪氏先生。誰なんだ......喪氏先生。
「……ッふふ……あはは!」
突然氷川が笑い声を上げた。
「絶対そんなの嘘じゃん」
ふせていた上半身を起こし顔をあげ、立ち竦むこちらを見る氷川。
俺の倍はあろうかという黒く長い睫毛の根元にある綺麗な瞳は、微かに湿り気を帯びていた。
肩肘をつき、顔だけこちらに向けるその仕草に思わず息をのむ。
まだ乾ききっていない髪は、白熱灯の光を我儘に引き寄せる。周りの物全てが彼女を演出する為の小道具に思えるほどに。
俺の全力で考えた言い訳が、刹那で見切られた。
「......ウソジャナイ」
俺としたことが、緊張からか片言で返事をしてしまった。俺の馬鹿......。
「嘘、嘘。嘘嘘嘘......嘘」
氷川は見定める様にじっと俺を見つめながら『嘘』と連呼する。
彼女の目に見つめられていると、背筋に尖った氷を当てられた感覚に陥ることが分かった。
この震えはきっと、雨に曝されて風邪をひいたせいではない。
「嘘......。けど、なんでそんなに頑ななのか、ちょっと気になるカモ」
ふと、冷酷を帯びた目が赤紫に似た蠱惑色に移り変わる。
瞳に宿る、言い表すことのできないこの引力を……そう、俺は『魔性』と名付けた。
「それ以上も以下もない......俺がお腹ピーピーだったことの何がおかしいんだよ」
「だってそれまで普通に授業してたじゃん」
「俺を見るなよ」
「見てないよ」
「じゃあ嘘じゃん」
「うん、嘘」
薄氷の様に淡く色付く唇が綺麗に半円を作り、微睡むように長い睫毛がやや伏せる。それが彼女の笑った顔だと気づくのに、少し時間が掛かった。
「お返し」
――氷川霧華を席で眺めていただけだったから、気が付かなかった。
彼女はやはり、日常会話で見られるような言葉で片付けるわけにはいかなかった。どころか、完璧も端麗も絶世もどこか不足しているようにすら思える。どの言葉も彼女を形容するには物足りない様に感じた。
天資の魔性を持つ女――魔女だ。魔女はこんな風に笑うんだな……。
「嘘つきに私の事は教えない」
「裏を返すと、本当の事を言えば教えてくれるのか」
「あ、嘘って認めた」
「......ウソジャナイ」
複雑に絡まった糸が徐々に解けるように、氷川との隔たりが少しだけ解けた気がした。未だほつれは多々あるようだが。
はたと気が付くと、カウンターの上に、コーヒーカップが二つ置かれていた。
白いカップの中には入れ物と相反する、黒く重量を感じる液体がなみなみと注がれていた。黒の湖面には小さな油で出来た円がいくつも浮かんでいる。
ここの店はネルドリップでコーヒーを淹れる為、ペーパーフィルターよりも油分が多く残る。その分コーヒー本来の甘味、個性といったものがハッキリするそうだ。
「身体が冷えているかと思ってね。ケニアのコーヒーを淹れてみたんだけど、良かったら飲んでくれないかい?」
鼻腔をくすぐる香ばしい香りの中に、ドライフルーツの様な僅かな甘さを見つける。
「すいませんマスター......」
マスターは気さくに手を振る。よく見ると氷川の所には砂糖とミルクが付いていた。
俺は普段何もいれずに飲んでいる。が、華の女子高生、その中でも秀でて華やかな氷川にそのままブラックで飲めというのも酷な話だろう。
そういった気配りがきちんとできる人だからこそ、この店には多くの常連客が付くのだ。
「いただきます」
「......いただきます」
俺も氷川の隣席に腰をおろし、同じタイミングでコーヒーカップに口をつける。
独特なとろみを伴った液体が口に広がり、香味と苦みを含んだまま胃に流れる。相変わらず美味いな......というか味にブレがない。
「......にが......ぁ......すみません、折角淹れてくださったのに......」
やはり彼女にとっては少々苦いらしい。考えるよりも先に口を衝いて出ていた。
それをみてマスターが目じりの皺を深めながら、穏やかな声で言う。
「苦かったら好きなだけ砂糖をいれたらいい。濃かったら好きなだけ牛乳を入れたらいい。美味しく飲んでもらえればそれで良いんだ。何があったか無理に話さなくていいよ。ただ、そうだね......今日はもうお客さんもそう多くは来ないだろう」
降りしきる雨を切り取る窓から外を眺めるマスターは、ゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
「陣君、今日はもう上がりでいいよ」
「え俺何もしていんですけど」
俺の主張は悲しいかな無視された。
「というわけで、陣君の話し相手になってあげてくれないかな? ふたりとも、この雨の中で帰すわけにもいかないしね。どうだろう?」
「え俺ここから家近いんですけど」
マスターに向けて悲痛な面持ちを向けるが全力で無視された。
「......少しの間お邪魔します」
俺との会話に見せていた薄い隔たりはなりを潜め、羞恥で顔を浅く染める氷川が小さくうなずく。
どこかおいて行かれたような心境の俺は、気のせいか、普段から口にして慣れている筈のコーヒーにほろ苦さを感じた。
「美味い......苦い」