第三話 花時雨は魔女による 三
好奇心の化身に襲われ、華奢な身体をさらに小さく狭める。おいおいこのまま消え去るんじゃないの? と不安になるレベルでどんどんと背を丸め、塞ぎ込む氷川。薄墨色の塊みたいになっている。
氷川が凝縮される前に何とか引きはがす。
「おい好奇心の化け物」
「あぁん!!」
それで我に返ったのか、俺と氷川を交互に見つめ赤面する。
「ご、ごめんなさぁい......陣君があの子以外に、こんな美人な女の子を連れてくるなんて思いもよらなくて......つい」
今度は一夏さんが氷川を真似するように縮こまる。
彼女は三杉一夏。
このオリヴィエでマスターに次ぐ古株で、確か今年で二十六になるはずだ。
黄金に輝くような亜麻色のふわふわとしたセミロングの髪、男なら必ず一度は視線を向けてしまうようなプロポーションを持つ。彼女と会話したいが為にここへ通う客も少なくはない。
勿論変な虫が彼女につかない様に『オリヴィエ男陣』は常に目を光らせて居るのだが......そういえば、身近にそんな奴がいたな......。渇いた笑みをついつい浮かべてしまう。
氷川と対極にいるような所謂ゆるふわ。
一度髪を触らせてもらったことがあるが確かに、疑う隙が微塵もないふわふわだった。その時にかすかに甘い香りも漂って来たのは、彼女がケーキ作りを担当しているからだろう。
彼女は常に笑顔で、誰に対しても優しい。その優しさに甘んじてしまう自分を止めなくてはいけないと思いつつも、ついつい軽口をたたいてしまう。
早くに改善すべきだろう。もしくは彼女がゆるふわを改めてガチゴリになるしかない。いやガチゴリってなんだよ。ガチのゴリラってもうただのゴリラじゃん。
ゴリラに無限の可能性を見出しかけたところを、一夏さんに連れ戻される。
「陣君? 顔が強張ってるけど、どうしたの?」
「一夏さん、ゴリラにだけはならないでくださいね?」
「なろうと思ってなれるものじゃないと思うけどぉ......?」
いかん、頭がゴリラに引っ張られ過ぎた。
タイミングを見計らったように、マスターがカウンター越しに声をかけてきた。
「陣君、災難だったね」
この店の創始者であり、最年長のマスター。
名前は宗杜秋。
歳は詳しくは知らないが、白と灰色が混じり合う頭部を見るに六十そこいらだろう。だが背筋はミリも曲がることはなく、猫背気味の俺よりよっぽど健康的だ。
肌艶もそこいらの老人とは違い実年齢よりもずっと若く見える。
目尻の皺だけが年相応ものといえるだろ。だが、その深く刻まれる皺に俺は、大人の格というものを見出していた。
ここへ入った当初、暫く店長と呼んでいたが「マスターと呼んでくれないか」と言われ、渋々それ以来マスターと呼んでいる。別に嫌なわけではないのだが、何となく気恥ずかしさがあった。
「いや、本当。災難でしたよ」
マスターに返す俺は、ゆっくりと視界に氷川を入れる。
(これからもっと災難は続きそうだけど)
誰にも聞かれないように心の中でゴチる。
一通り言葉を交わすと、俺は目下の問題と対峙する。
体育倉庫で無視をして以来、氷川と面と向き合い顔を合わしていなかった。たまたまというわけではない。俺が意図的に避けていた。
もっとも俺と氷川の繋がりというものは同じクラスという大きな括りだけしかないが......。
――今更なんて声をかける。
雨に濡れた氷川を無言のまま引っ張りここへ連れてきた。
俺は前を向いて視線をそらしていたし、氷川は氷川で、突然現れて手を引く俺に目を見開き驚愕を示したが、口を衝く事はなかった。
そうして現在に至るわけだが。
ちなみに一夏さんは自制しているのか、顔面を両手で覆って見て見ぬ振りをしている。
「いやもう遅いよ、それをやるなら俺がここへ来てからにしてくださいよ。しかもちょっと指広げてるし。何歳だよあんた」
視界から一夏さんを消す。
マスターは流石だけあって、返却された皿などを洗っている。
気のせいかもしれないが、細く狭まった瞼の隙間から眼光がちらりとこちらに向かって光を放った気がしなくもないが、本当にきっと、気のせいだろう。
瞬き程の時間、店の中を静謐が覗く。
雨が窓を強く叩く音だけが鼓膜を揺する。一定のリズムで刻まれる音に身を委ねて、そのまま全てが丸く収まるのではないかと能天気な思考に陥りそうになる。むしろ陥りたい! が、ここまで連れてきた『責任』がそれを許しはしなかった。
観念して口を開く。緊張のせいか、喉が上手く震えずに奇怪な音を漏らしながら。
「――ヴァ……ぁ……ごほん」
人生で初めてごほんと咳払いをした気がする。うわ......めっちゃ恥ずかしい。
「氷川、その、悪かったな……突然ここへ連れて来て」
氷川からの返事はない。
今だカウンターで小さくなって蹲っている。顔を見られない為か、はたまた他の理由によってなのか、俺には分らない。
「あのまま放っては置けなかった......お前は放っておいて欲しかったのかもしれんが、俺には見過ごせなかった」
独白は尚も続く。
「何であそこで蹲っていたんだ。言い方は悪いかもしれんが、危うく見えた。何というか……死にそうだった」
ギィ……っと、ゆっくりと扉を開く音が聞こえた。
どうやら他のお客さんが入ってきたようだ。
マスターと一夏さんは直ぐに接客へと移り、俺と氷川だけがカウンターに取り残される。
俺たちが来た時は時間帯と天候もあり、客は誰一人として居なかった。だからこそマスター達が構ってくれていたのだが、とうとう二人きりになってしまった。
しかも氷川には会話のキャッチボールをするつもりがないようで、さっきから俺は打ちっ放しゴルフよろしく、一人虚しく口を動かしていた。
「……んで……」
漸く氷川が声を発した。覇気が篭っていない柔い声だったが、やっと会話が出来ることに俺は一抹の安堵を抱く。
「なんで……あの時無視したのに……今度はあんたから首を突っ込むのよ......」
未だ伏せた状態なのでくぐもった声だ。普段教室で耳にする凛とした声はカケラも見受けられない。
――例えるなら……そう。子供がぐずるような、か弱い声。