彼女が見る夢は
「あーっはっはっはっはっは」
(ちょっと、笑いすぎではなくて!?)
「いや、だって君、あっはっは……だめ、お腹痛い」
ヴィクトールの素顔を知った翌日、魔術師が詰める研究塔に呼ばれたルイーザはお腹を抱えて大笑いする若き魔術師ノアを睨む。
*****
あの日、プレゼントと言われたボールをその場に置いておくこともできず、ルイーザは犬舎へ持ち帰った。地面に落ちたものを咥えるという令嬢らしからぬ……どころか人間らしからぬ行動はもう気にしない。手が使えないのだから仕方ないと割り切っているのだ。
犬舎の隅を見ると、今まで他の犬たちも一切興味を示していなかったので気が付かなかったけれど様々な犬用玩具が入れられた箱があった。清潔感はあるがどこか武骨な印象の犬舎に置かれるにはあまり自然ではない、質の良い素材の玩具たちは多分、高貴な某犬好き男からのプレゼントだろう。
自分でボールをその箱に入れてもよかったのだけれど、精神的に疲れていたルイーザはベッドにボールを適当に置いてそのまま眠りについた。
そして朝起きると、当然そこにあるボール。
よく見ると、とても噛み心地がよさそうだ。何の素材でできているのか、不思議な弾力があり、それでいて牙が通らないほど頑丈なボール。
試しにガジガジと噛んでみると、それがまた心地良い。強く噛むとぐにぐに反発する感触がなんとも言えないのだ。
いつの間にか一心不乱にボールを噛んでいたところ、父が犬舎に訪れた。
「おはようルイーザ。ノア殿が呼んでいたから、研究塔へ行こう」
父はチョコレート色の犬をひと撫でしてから、犬の首輪にリードを付けて犬舎を出ていった。
出ていく一人と一匹の姿を、ルイーザはベッドの上から茫然と見送った。
そう、犬違いである。
*****
ノアに、「それ、ルイーザ嬢じゃなくて犬ですよ」と言われた父は慌てて犬舎に戻り、平謝りしながら今度は本物のルイーザにリードをつけた。
研究塔を出る時も、父はひたすら謝っていた。なにせ犬と娘を間違えたのである。
「まさか……! 伯爵も……自分の娘が夢中でボールを噛んでいるとは……! 思わなあっはっはっは」
(笑いすぎよ!! 体に意識が引っ張られるってあなたが言っていたんじゃない!!)
全く、目の前の魔術師は失礼極まりない。ルイーザ論からすると、躾の行き届いた番犬と、『ただの犬』に意識が引っ張られているルイーザではルイーザの方が犬らしい行動を取ってしまうのも仕方がない。
昨日レーヴェと呼ばれる騎士だって言っていた。ここの犬たちは余計な反応をしないように躾けられていると。決して、ルイーザに犬の素質があるわけではない。多分。
同色の犬が、たまたま大人しくおっとりとした性格だったのもまたいけなかった。気の強い犬であればリードをつけられたところで従わず、このような事故は起こらなかっただろう。
「いや、本当笑ってごめん、ふふ。とにかく、早めに戻せるように頑張るよ。このままだとルイーザ嬢が無事に戻ったあとも、居た堪れない思い出が増えてしまうからね、ふふふ」
(まだ笑い止まってないんですけど!?)
ノアを睨むと、ごめんごめんと両手を振られた。話が通じる存在はありがたいけれど、ここまで笑われるのは心外だ。
ぷいと拗ねて見せるが、ノアは気にした風でもなく話を始めた。
「陛下と伯爵には伝えてあるんだけど、やっぱり異国の呪毒で間違いはないよ。多分、大陸西のギーベル国付近の海に面した島国のものだ。今、解呪薬の作成に必要な材料を調べているけれど、多分この国にはないものがほとんどだと思う」
(入手が難しいってこと?)
「輸入物だから高価だし、時間はかかるけれど不可能なわけじゃない。ただ、完全に特定するには今一つ確信に欠けるから、もう少し調査はしたいな。万が一違った場合は解呪薬が毒になりかねないからね。症状と薬の種類からして、長く経過すると君の意識がその体に呑まれて完全に犬になってしまうのは間違いないと思う。他の症例は書物でしか確認できなかったから、リミットは正直読めないけれど。もちろん、調査の方はなるべく急ぐよ」
(……私が犬の本能につられるがままになっていたら、リミットが早まるのかしら?)
ルイーザはぞっとした。毛に覆われた顔ではわからないけれど、もし今人間の姿だったら顔面蒼白になっているだろう。
昨日のボール遊びといい、今朝の行動といい、犬らしい行動を取ってしまっている自覚は十分にある。
「行動自体は、体に引っ張られているだけだから問題ないんだけど……。多分、思考だね。どうか、人間らしい思考は辞めないでほしい。例えば、意識が引っ張られた後に我に返った後に、自分が犬になりかけているからと納得しては駄目だよ。居た堪れないかもしれないけれど、自分の行動を振り返って恥じるようにしてほしい。多分、人間の気持ちを忘れないように気を付ければ、少しは延ばせるはずだから」
ノアの言葉に、ルイーザは頷く。
確かに、恥じる感情は人間にしかないものだ。もしかして、先ほどの無礼極まりない大笑いはルイーザの羞恥心を煽るためのものだったのだろうか。
すべては人間の心を忘れないために。
ルイーザはこっそりとノアに感謝した。
「いや、それにしても、ふふ。他の犬が反応しないのに一人だけボール取りに行くとか……」
すぐさまその感謝を撤回した。
*****
思考することを辞めないでほしい――
そうノアから言われてから、ルイーザはとにかく考え事をすることにした。休憩中や、寝る前などは一つ一つ、幼少期からの事を思い出したり、父や母から受けた愛情に想いを馳せることにした。
特に事態に進展はないようだけれど、ルイーザの意識もまだ人間のままだ。
こんな面倒なことになってしまった娘を、両親は見捨てずに心配してくれている。毎日顔を見に来る父からは、母も会いたがっていると伝えられた。親不孝で申し訳ない気持ちと、両親の想いが嬉しいという感謝の気持ちを胸に抱く。
訳の分からない呪いなんかに負けてはいられない。
犬になってから半月。ルイーザが療養と称して社交界から姿を消してから、半月。
人間に戻ったら、まずは何をしようか。戻る頃には既に王太子殿下の婚約者は決まってしまっているだろうか。
ルイーザは、幼いころから王太子妃になりたくて、様々な方面で努力をしてきた。家柄は王太子妃としてぎりぎりの許容範囲内。もっと相応しい出自の令嬢はたくさんいた。
そんな彼女たちに負けないように、様々なことを学んできたのだ。容姿は、決して悪いわけではないと思うけれど、少々きつめに見える顔立ちで、髪も焦げ茶色と華やかさに欠ける。だからこそ少しでも美しく見えるように侍女と協力しながら、磨きぬいたのだ。
教養だって、国内外の歴史や言語、政治に関することなど淑女に求められる以上のことを学んできたし、作法やダンスも人並み以上にやってきた。誰に強制されたわけでもなく、自分で選んだ道だから、辛かったとは思わないけれど。
かつての夜会で、ルイーザを含む多くの令嬢と接する王太子の姿を思い出す。
どんなに姦しい令嬢たちも決して邪険には扱わず、かといって無駄に気を持たせるようなこともせずいつだって紳士的だった。婚約者候補となる令嬢たち一人ひとりときちんと言葉を交わして見極めようとする姿は当時のルイーザにも好ましく映っていたのだけれど。
それでもほんの少しだけ。
社交の場で見える表面だけではなく、陰の努力も見ようとしてくれていたならば、もう少し過去の自分が報われたのかもしれないと思わずにはいられない。
自分以外にも努力をした令嬢がいないとは言わないし、もしかしたらそれ以上に努力を重ねて婚約者候補になった令嬢もいたのかもしれないけれど。
何にしろここまできたらもう王妃になるのは諦めるしかないのだろう。
たとえ王妃になれなかったとしても、異国文化を知ることは諦めたくないけれど、知るだけなら王妃でなくとも多分できる。
単身赴任でなく妻も共に連れていってくれる外交官のもとに嫁ごうか。いっそのこと、自分が女性外交官になろうか。確か数年前、貿易商の娘が初の女性外交官になったと聞いた。伯爵令嬢が職に就くなんてと両親は止めるだろうけれど。
(いっそ流浪の旅商人なんてどうかしら。異国訪問をしても綺麗なところだけを見せられる王妃よりも、色々なものが見られるかもしれないわ。……女性外交官を目指す以上に反対されるわね、きっと)
ルイーザは自嘲しながら、目を閉じて眠気に身を委ねた。