番犬よりも犬らしく
番犬生活も早一週間。ルイーザは恐ろしいことにこの生活に慣れつつあった。
初日以降、二回ほどノアに呼ばれ研究塔に入っているが、調査の進捗は芳しくない。なんせこの国の技術ではないのだ。今はまだ資料などの取り寄せが間に合わず、手探りの状況が続いているようだった。
父は毎日欠かさず、帰宅前に顔を出してくれる。
ノアに伝言を頼み、「体は壊さないように無理をしないで」と伝えたお陰か、初日に見られた隈は既にない。それでもやはり心労のためか心なしか痩せてきたようだ。
また、昨日は母が城の犬舎に訪れた。ルイーザが表向き療養生活に入った後の社交界の様子が気になるとノアに伝えたところ、父が母を連れてきてくれたのだ。
まだ一週間足らずでは大きな進展はないらしいが、今までルイーザの取り巻きとして後ろについていた伯爵令嬢が、新たに殿下の婚約者候補として台頭してきたらしい。
彼女とは友情で結ばれていたわけではなく、家の派閥──利害関係によって隣にいたので、ルイーザがいなくなったことで彼女が前に出るのは予想の範囲内だった。
ルイーザはかつてライバルだった令嬢たちをひとりひとり思い浮かべる。何代か前に王族が降嫁した良い血筋の娘、整った顔立ちに女性的な体つきの見目麗しい娘、男性を立てるのが上手く数多の子息を虜にしながらも貞淑な振る舞いで社交上手な娘。自身も努力をしてきたけれど、王太子の隣に立つにふさわしい令嬢は何人かいた。
今はまだ何も決定打となるようなことは起こっていないらしいが、きっとそう遠くないうちにその中の一人が選ばれるのだろう。この状況で、何もできない……今は人間ですらないことが非常にもどかしく、悔しくなる。
一通りここ数日の社交界の流れを聞けてありがたかったけれど、よくよく考えると伯爵夫人が度々城の犬舎に訪れるのは不自然だ。──伯爵でも自然ではないのだけれど。
万が一母に犬舎で逢引きをしているなどといった悪い噂が立ってはいけないので、頻繁には来なくても大丈夫だと伝えてもらった。母に会えないのは寂しいけれど、ただでさえ両親に心労をかけている今、さらに自分のせいで母の評判まで下げるわけにはいかないのだ。
それ以外は、この一週間、特に代わり映えのない日々を送っている。
朝晩生肉を食らい、昼間は裏門付近をうろつき、夜は犬用ベッドで眠る。相変わらず他の犬たちは愛想がないけれど。
また、犬舎で他の犬の鳴き声を聞いたけれど、何を言っているのかわからなかった。どうやら犬になったからといって犬と話せるわけではないようだ。
(色々考えても、元に戻るために私にできることなんて何もないわね。……気を取り直して、午後の警備をしよう)
裏庭の一部分は、犬たちの休憩スペースのようになっている。
人間のように休憩時間が定められているわけではないけれど、木陰があり、ガゼボや水飲み場、犬用トイレが設置されており、暑い時間帯なんかは一~二匹ここで涼んでいたりする。
自主的に昼休憩をしていたルイーザは、立ち上がると体をほぐすようにブルブルと全身を震わせた。犬らしい仕草が板についてきたことは、考えないことにする。
今日も、良い天気だ。犬生活というのは極端に娯楽が少ない。先輩たちは構ってくれないし、ノア以外の人間に話は通じない。黙ってじっとしていると気が滅入るので、警備と称して歩き回るのも、案外良い暇つぶしになる。
休憩スペースを出ようとしたところ、芝生の上を吹き抜ける風に乗っていつもと違う人間の匂いがする。
通る人全員の匂いを覚えているわけではないけれど、今漂ってきたのは使用人たちとは種類が違う。良い生地の衣服を洗う時の高級なシャボンの香りに、柑橘系を思わせるパルファムの香りが乗っている。
明らかに、高貴な人物──それも、よく知る人物だ。
さくさくと芝生を踏む音が近づいてくる。音のする方を向くと、予想通りの人が歩いて立っていた。
(何故こんなところに王太子殿下が?)
紺色に金の刺繍をあしらったジュストコールを身に着けているところから、お忍びで裏門からどこかへ向かう途中ということではないのだろう。政務の休憩時間といったところだろうか。
何よりもルイーザが驚いたのはその表情。
社交界におけるヴィクトール王太子殿下のイメージと言えば、どの令嬢にも優しいが、どの令嬢にも関心がない。自分が特別蔑ろにされていたわけではないので、その無関心さも嫌ではなかったのだけれど。逆に、浅はかな恋に溺れるようなことはなく公平な目線で将来の王妃にふさわしいと思った伴侶を選んでくれるだろうと好感すら持っていた。
彼を囲む多くの令嬢たちには作り笑顔や困ったような笑顔を向けることはあっても、今のように綻ぶような笑みなど見たことがない。
さらりと流れる黒髪や王家の血を表す金の瞳、すっとした端整な顔立ちを持ちながら、浮いた話など一切──国王夫妻が心配になるほど――ない。
真面目ではあるが特筆すべきところもない、人間性・才能共に可もなく不可もない教科書に出てくるような王太子殿下だ。
夜会ではいつも作り笑いを浮かべている顔は、現在見たこともないほど綻んでいた。
「久しぶりだね。しばらく来られなくてごめんね。元気にしていたかい? ああ、今日もその毛艶は最高だね」
とろける笑顔で、休憩スペース入口にいた金茶の毛を持つ犬の首元を撫でまわしていた。よく躾けられている犬は行儀よく座っているものの、撫でられながら無反応だ。
(え、ヴィクトール王太子殿下って犬が好きなの?)
「うんうん、レオは相変わらず逞しい体つきをしているね。このふかふかの毛に覆われた無駄のないしなやかな筋肉。可愛いのにかっこいいなんて素晴らしい」
普段社交場で見る作り笑顔ではなく、心からの笑顔で犬を褒める様子に一瞬見惚れてしまった。
(趣味やお好きな物などは謎に包まれていたけれど……こんなにも犬がお好きだったのね……。いえ、それにしても犬、無反応すぎでしょ! 普通撫でられたらもっと喜ぶものじゃないの?)
飼育員に対しては尻尾を振る姿を見ているのだけれど、今撫でられている犬は尻尾の一振りしておらず、心なしか迷惑そうですらある。
「よしよし、よーしよし、お前は良い子だね」
しかしヴィクトールは一切気にすることはなく、されるがまま(若干迷惑そう)の犬を撫でまわしている。
(なんかすごく……可哀想……)
先輩犬たちにいつも結構いけずな態度を取られているルイーザは、ヴィクトールの意外な一面を見てちょっぴり同情した。
憐れむ視線で眺めていると、ヴィクトールの金の目がこちらを向く。目が合ったことに驚きルイーザの肩が揺れる。
「君は、新入りかな?」
にこにことヴィクトールが近づいてきた。王太子妃として選ばれたくて散々ヴィクトールに近づいてきたけれど、その彼にこんな笑顔を向けられたことがないルイーザは思わず後ずさりたくなる。
本来であれば喜ばしいことのはずが、元々抱いていたイメージとの乖離が大きすぎて戸惑いのほうが勝っていた。もし人間の姿だったのであれば顔は引きつっていただろう。
「可愛いなあ、女の子かな? チョコレート色で綺麗な毛だね。よーしよしよし、よーしよしよし」
別に犬好きの人が悪いとは思わないし、幻滅したわけでもない。ただ、無反応の犬たちに愛想よく話しかける男はちょっと不気味である。先ほどまで撫でまわされていた先輩犬に倣い、ルイーザも無反応を決めることにした。
先ほどまで撫でられていた犬や、休憩スペースにいる他の犬たちから同情の視線を向けられている気がする。気のせいだと思いたいけれど。
「すごくふわふわだね、よーしよしよし。ああ……公務の疲れが吹き飛ぶよ」
王太子殿下の手が、首回りや耳の後ろ、背中などをがしがしと強めに這いまわる。その絶妙な力加減に、ルイーザは思わずくらりときた。
(だ、だめ……無反応でいようと思ったのに……)
あまりの手つきに抑えきれず、尻尾がゆらゆらと揺れ始める。
「よーしよよしよし、いい子だね」
(もう、もうやめてぇええ!!)
「!! ここも撫でていいのかい!? よしよしよしよし」
(……!! やってしまったわ……!!)
ヴィクトールの恍惚した表情にハッとする。ルイーザは、撫でられる手つきにやられて思わずお腹を見せていた。これでは犬以上に犬ではないか。
決まりが悪くなり、さっと体を回転させてお座りの姿勢に戻った。
「あれ……? もう終わり」
ヴィクトールがしょんぼりと肩を落としたけれど、このままお腹を撫でさせてはルイーザの淑女としての何かが終わってしまう気がした。というか、まだ辛うじて終わってはいないと思うことにする。
「うん、まあいいや。今日はね、おもちゃを持ってきたんだよ」
ひとしきり撫でて満足したヴィクトールは、ポケットからボールを取り出した。
他の犬たちは、ちらりとボールを見るが駆け寄ってくる様子はない。飼育員には遊んでと強請る犬たちは、少々王子に冷たいようだ。
「誰が一番足が速いかな? ほ~ら! とってこーい!」
周りの様子を気にしないヴィクトールは、手に持っているボールを思い切り投げる。良く晴れた空にヴィクトールの投げたボールが飛んで行く。
そう、美しい放物線を描き──。
(──ボール!!)
気が付いた時にはもう、ルイーザはボールを咥えて走っていた。
戻ってきたルイーザを見て、王子は驚いた表情をしている。ぱちりと目が合った瞬間、花が咲くように顔を綻ばせた。金の目を優し気に細める様子に、ルイーザは思わずどきりとした。
王太子がどのような容姿の持ち主であったとしてもルイーザは王太子妃を目指しただろうが、やはり年頃の娘としては美しい青年に心からの笑顔を向けられて胸が高鳴るのは仕方がないことだ。
周りの犬たちは、ボールが投げられてから今まで、もちろん無反応である。
「わあ、取ってきてくれたんだね! こんな子初めてだ! いい子だね、いい子で可愛いね!」
(……またやってしまった!!)
正気に戻った瞬間、絶望にポトリと咥えていたボールを落として項垂れるが、感激したヴィクトールはひたすらルイーザを撫でまわす。
こんな子初めてということは、今まで犬たちは無反応だったというのに彼はボールを投げたのだろうか。そう考えると、投げる時に発した「誰が一番足が速いかな?」という言葉にもルイーザは若干の狂気を感じた。
(やめて……もう撫でないで……見てないで助けなさいよあんたたち……後輩が苦しんでいるのよ……)
「ヴィクトール殿下!!」
喜ぶ王子、打ちひしがれる犬、我関せずな他の犬というカオスな空間に、第三者の声が入り込んだ。
ヴィクトールの名を呼びながら一人の騎士が走って向かってきている。お楽しみ時間の邪魔をされたヴィクトールは、眉間に皺を寄せて答えた。
「なんだいレーヴェ。今私は休憩中だよ」
「番犬たちの気を散らせるのはおやめくださいといつも言われているでしょう!」
(明らかに初めてじゃないとは思ったけれど、結構毎度のことなのね……)
「だから、見回りをしている子ではなく休憩所にいる子を愛でているだろう」
「そういう問題ではありません! だいたい、ここの犬たちは他のことに気を取られないよう躾けられているので殿下に愛想は振りまきません!」
(だからあんなに無反応なのね)
ルイーザは一人納得した。確かに、時折通りがかる使用人が頭を撫でたりするけれど、どの犬も無駄に愛想を振りまいたりはしない。
ここの犬たちが尻尾を振ったり甘えたりする相手は基本的に飼育員のみである。
「でも、この子は今ボールを取ってきてくれたよ」
(うっ……)
レーヴェと呼ばれた騎士の視線が突き刺さる。これでは番犬失格である。いや、別に番犬は目指してないのだけれど、犬に負けた感じがして悔しくて更に恥ずかしい。
「見た所まだ若い犬ですから、躾の途中なのでしょう。とにかく、こんな所で遊んでないで戻りますよ!」
「まったく、レーヴェは固いなあ。そのボールはプレゼントだよ。また遊んでね、ショコラ」
(ショコラ……?)
当たり前ではあるがここの犬たちはそれぞれ名前がつけられている。ルイーザも、王によって「ルイ」と名づけられている。この犬舎にショコラという犬はいない。
今まで王太子といえば、穏やかでいて優しい、歴代の王族の中で飛びぬけて優秀という話までは聞かないものの、何でも卒なくこなし評判も悪くない。実際に社交の場で関わってみても、揉め事を好まない事なかれ主義な性格ではあるものの、人当たりもよく貴族の子女から慕われている、おっとりとした王子という印象だった。
しかし今日の彼は屈託なく笑い一人で騒いで勝手に名前をつけて側近に叱られて、今までの印象を大きく覆して去っていった。