元王太子、現王宮の愛玩犬!?
ふかふかのソファの上で目が開く。微睡の中徐々に意識を覚醒させた。
この国の王太子ヴィクトールはうつ伏せに寝ていた体を起こそうとしたところで、自分の体に起こっている異変に気が付く。きょろきょろと周りを見るが、間違いなくここは自分の執務室のソファの上である。
先ほどまで頭を乗せていたらしいクッションは、その名残で僅かに凹んでいる。
恐る恐る視線を手元まで下ろすと、目の前にあるのは、黒い毛に覆われた前足。そう、手ではなく前足だった。
「アオーーーン!!?」
(犬の足ーー!?)
ヴィクトールの声にならない叫び──遠吠えともいう──をあげている最中に、ガチャリとドアノブが回り執務室へ人が入ってきた。
黒い騎士服に身を包みきびきびとした動作で歩く男は、ヴィクトール付きの騎士レーヴェだった。何か書類を取りに来たのだろうか、ヴィクトールに目をくれることなく執務机へ向かっている。
「わん! わん!」
(レーヴェ! 大変だ!)
ソファから降りて現状を伝えようとするが、もちろんそれは人間の声にはならなかった。自分の目の前で何か訴えるように吠える犬に対して、レーヴェは困ったように眉尻を下げる。
「どうしたんだ、一体?」
「わふわふ! わん!」
(起きたら犬になっていたんだ! 助けてくれ!)
ヴィクトールは立ち上がり、レーヴェに前足をかけた。大柄な騎士とはいえ、ヴィクトールも今は大型犬。立ち上がれば胸元あたりに前足が届く。必死に訴えるが、無情にもレーヴェには通じなかった。
「悪いな。俺は遊んでる暇はないんだ。ほら、外に出て暇そうな誰かに遊んでもらえ」
唖然としているヴィクトールの頭をぽんぽんと軽く撫でると、手早く執務室からヴィクトールを追い出した。
「アオーン!!」
(戻ったら減給だからな!!)
バタンと閉められた扉に向かって吠えるも、その扉からは何の反応もなかった。
(全く! いつもは執務室からちょっと出ようとすると嫌な顔をするくせに!)
ここ最近は真面目に執務に取り組んでいたので随分減ったとはいえ、長めの……非常に長めの休憩時間を取ろうとした時には必ず苦言を呈する騎士の姿を思い浮かべて、ヴィクトールは憤慨しながら城内を歩く。
もちろん、長めの休憩時間を諫めるのは幼馴染兼側近としては間違った行動ではないのだけれどその点に突っ込む者はここにはいなかった。
執務室の前で肩を落としていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「あれ? 執務室追い出されたんですか?」
「わん!」
(ファルク!)
頼れる側近の一人であった。
毒気のない振る舞いと堂々とした態度は意外と大臣からの受けもよく、周りとの調整役として重宝している側近だ。稀に生意気すぎて腹が立つが、不興を買わない線を理解している節がある。
飄々とした振る舞いのせいでわかりづらいが、実は相手の機微を読むことに長けている彼ならばヴィクトールのこともわかってくれるかもしれない。
「わふん!」
(助けてくれ!)
「すみません、僕これからお仕事なんです」
(ファルクでもだめか……)
「ふふ、それにしても、相変わらず毛並みはいいのに能天気そうな犬だなあ」
「がう!」
(なんだとお前!)
「こらこら。じゃれずにお散歩してきてください」
耳を寝かせて抗議するも、まったく意に介さないファルクはもしゃもしゃとヴィクトールの頭を撫でてから執務室に入っていった。
最も信頼している側近二人への信頼が揺らぐのを感じながら当てもなく彷徨い歩いていると、ここ最近でよく顔を合わせるようになった男が目に入った。書類を手に持ち立ち話をしているのは、ヴィクトールの婚約者であるルイーザの父ローリング伯爵だ。
「わふ! わんわん!」
(伯爵! 助けてくれ!)
突然走り出した大型犬の姿に、道を歩く人はぎょっとした表情をしたけれど、そんなものは気にしていられなかった。
文官らしき男と話しているところに割り込む形になってしまったが、今はそれどころではない。ヴィクトールはローリング伯爵に突進する形で助けを求めた。彼と話していた文官もヴィクトールの突進に驚き、サッと身を引いた。
愛娘が一時期犬にされていた彼ならば、ヴィクトールのことがわかるかもしれない。更に言えば、今こうなっている事情を知っているかもしれない。レーヴェにした時と同様、伯爵に前足をかけて必死に訴えてみた。
文官は目を丸くして伯爵に声をかける。
「王宮の愛玩犬と呼ばれるだけあって、人懐っこい犬ですね」
(あ、愛玩犬だと! 私が!?)
これでも一応王太子である。ルイーザが犬だった時は番犬として王宮で過ごしていたというのに、自分は愛玩犬とは。
「はは……いつもはこんなに飛びついてはこないのですが……。今日は機嫌がいいのか……それとも、私からルイーザの匂いでもするのかい?」
──ルイーザ! そうだルイーザならわかってくれるはずだ!
ヴィクトールはぱっと婚約者の姿を思い浮かべる。
暫くの間、犬として過ごしていた彼女のことだ。自分が彼女の目の前で犬らしからぬ行動を取れば、元人間である可能性に気付いてくれるだろう。
いや、もしかしたら愛の力的なものでひと目見ただけでもヴィクトールだとわかるかもしれない。
「わふ! わんわん!?」
(ルイーザは登城していないのか!?)
「ルイーザなら研究塔にいるはずだ」
(何故か通じた!)
ダメ元で聞いてみたのみ答えてくれた伯爵の勘の良さに内心慄く。得た情報は、ルイーザが城にいるという朗報でもあり、少し苦いものでもあった。
研究塔、と言われてすぐに思い浮かぶある男のことだ。天才魔術師と呼ばれる男は、ルイーザの犬時代唯一言葉が通じる人間だったらしく、未だに二人はどこか気安いのだ。
ルイーザが彼に感謝をしている気持ちはわかるし、言葉がわかる人間がいたから彼女も人間としての自我を保ったままでいられたという理屈もわかる。
その点はヴィクトールとしても感謝をしないわけではないし、別に二人がやましい関係にあると疑っているわけではないけれど、なんとなく面白くない。
元ポンコツ王太子は現在も狭量だった。
*****
(ルイーザは私が犬になったことを相談しているのだろうか?)
魔術師が詰める研究塔への道のりを歩きながら、ヴィクトールは考える。
人間よりは小型とはいえ、大型犬の体では徒歩でもそこそこ早い。本当は駆けて向かいたかったが、道行く人々を驚かせてはいけないとなるべく急ぎながらも歩いていた。
そもそも、何故『王宮の愛玩犬』などという通り名がついているのだろうか。愛玩犬扱いは解せないが問題はそこではなく、犬の存在が人々の間に浸透していることだ。
自分が今犬になっているのだから『王太子ヴィクトール』は不在のはずであるが、レーヴェにも伯爵にも特に変わった様子はなく、王太子であることにも気が付かない上で、犬であるヴィクトールを当たり前のように受け入れていた。
過去ルイーザに盛られた薬と同じものを盛られたのだとしたら、解呪薬が必要なはずだ。
去年のルイーザは、結局仕入れたものを使用する前に元の姿に戻ったのだが、今自分がこの姿ということは調薬に必要な材料が魔術師の手元にはないのだろう。去年仕入れたものは既に他のことに使っているか、長期保存に向かないものか。
異国にしかないその材料は入手するのには時間がかかるものだと聞いた。いつ発注したのだろうか。そして、いつ届く予定なのだろうか。……いつから、自分はこの姿なのか。
(まさか記憶が……抜け落ちてる?)
犬になっている期間が長ければ長いほど、体にひっぱられ人間としての自我を失い、完全な犬になっていたとルイーザは言っていなかっただろうか。
もし、自分が犬になって長く、既に完全な犬になりかけていたのなら。
今はたまたま一時的に人間の自我が戻っているだけだったとしたら。現状が把握できていないことと辻褄が合う。
その事実に気が付いたところで、ぞくりと背筋が冷える。もう、駆けださずにはいられなかった。
(自我があるうちにルイーザに会わなければ! 言葉は通じなくとも、あの魔術師がいるところならば通訳もしてもらえるはず!)
そして、あのほっそりとした白い手で撫でてほしい。あわよくば、抱きしめてほしい。自分が散々ルイーザの毛並みを楽しんだように、彼女に可愛がってほしい。
今ならば滑らかな頬を舐めても許されるだろうか。許されるはず。犬だし。
駆けているうちにヴィクトールは少し邪な気持ちになっていた。
そうこうしているうちに、屋外へ出る。城と裏門をつなぐ道のある裏庭から少しそれた所に、研究塔がある。
急いでそちらへ向かおうとすると、ヴィクトールの目に一匹の犬が目に入った。金の毛を持つ大きな雄犬である。裏庭のパトロール中なのか、ゆったりとした動作で歩いていた。
(レオじゃないか!)
頻繁に犬舎に通っていたヴィクトールには、すぐにどの犬かわかった。もちろん、本当の名前はレオではないのだけれど、過去に飼育員に犬の名を聞いた際に「番犬など、殿下が気になさることではございませんので……」と濁されたため、各犬に自分で呼び名をつけることにしている。個別の呼び名がないと不便だからだ。
レーヴェは「それは番犬に構うなということでは」と言っていたが、可愛い犬を構うなと言うのはヴィクトールにとって無理な相談だったので聞かなかったことにしている。
「わふ! わふ!」
(レオ、遊ぼう! 遊ぼう!)
金毛の犬の前にたどり着いたヴィクトールは、上半身を低くお尻を高く上げながら尻尾を振った。自然と出てきてしまった、犬の遊んでポーズである。
突然遊びに誘われたレオは、首を傾げてヴィクトールを見つめるものの、遊びに乗ってくる様子はない。心なしか困っているようにも見えるが、気のせいだと思うことにして更に遊びに誘おうとしたら、突然現れた飼育員に止められた。
「こらこら。こいつは仕事中だ。邪魔したらいけないぞ」
そう言いながら、ヴィクトールの首をわしゃわしゃと掻くように撫でた。犬の扱いに長けた飼育員の手つきを堪能しているところで、現状を思い出してハッとする。
こんなことで時間を潰している暇はなかった。
(自分を見失うところだった……! 侮れんな、あの飼育員の手つき……いや、私は負けんぞ!)
寧ろ、飼育員が来てくれなかったらもっと見失っていた可能性が高かったのだけれど、犬好きとしての謎の対抗心でひどい言いがかりをつけながら、飼育員に背を向け研究塔へ向かって駆けだした。
*****
調薬や魔道具の開発、遺跡から見つかった古代魔道具の解析などが行われる研究塔にヴィクトールが入る機会はそう多くはない。不慣れな場所ではあるのだけれど、以前ルイーザに同行したことがあるためノアという魔術師が持つ研究室の場所は知っていた。
魔術師たちは各々の研究室に籠っていることが多いのか、塔についてからその部屋までは誰ともすれ違うことはなかった。
扉が見えたところで、微かに男の声が聞こえる。やはり、ノアは室内にいるようだ。
閉じられたドアの前で立ち上がりカリカリとドアノブを掻いてみたら、幸運にも装飾に爪が引っ掛かりどうにかノブを回すことができた。かちゃりと音がしてドアが緩んだところで、爪と鼻先でドアを開ける。
ノックもなしに突然ドアが開いたせいか、魔術師ノアは驚いた顔でこちらを見ていた。そして、ノアが座るソファの正面に座っている者に目が行く。
艶やかなチョコレート色の毛。ゆっくりと振り向いた、その瞳はキャラメルのような薄茶色。
……ただし、頭についているのはピンと立った三角の耳。見間違いなどありえない。婚約者の姿(犬)である。
一人と二匹の間に沈黙が落ちる。
(ルイーザがショコラになっている!?)
自分だけでなく、ルイーザまで犬になっているとはどういうことだろうか。自分とルイーザ、揃って犬になる薬を盛られたのだとしたら。
(昼間はルイーザとじゃれ合いながら過ごし、夜は身を寄せ合って眠る。なんてことだ……! もしかしたら、自分たちの子犬が産まれてしま──)
ヴィクトールはぶんぶんと首を振って幸せな妄想を打ち消す。
そんな甘いことを考えている場合ではないのだ。どうにかルイーザと魔術師と話をしなければ。
そう己を奮い立たせてから、後ろ足で思い切り床を蹴り、愛しの婚約者に飛びついた。
「ワオーン!」
(ルイーザ!)
――ガツン
*****
「ヴィー様?」
ちかちかと目の前に星が舞う。ヴィクトールは何故か天井を見上げていた。
視線を巡らせると、心配そうな表情をしているルイーザが屈んでヴィクトールの顔を覗き込んでいた。もちろん、その姿はショコラではなく人間である。読書の途中だったのか、その手には閉じられた異国で出版されたという小説が握られていた。
ゆっくりと身を起こすと、執務室から扉一枚隔てた休憩室であることがわかった。
どうやら、ソファで寝ていて転がり落ちたらしい。彼女がいるということは、本日の妃教育を終えて会いに来てくれていたのだろう。自分が寝ていたから、本を読みながら時間を潰していたのだろうか。
「頭をぶつけたみたいですけれど、大丈夫ですか? ……ひゃっ」
手のひらを握ったり開いたりしながら、確かに自分が人間であることを確かめると手早くルイーザを抱きかかえてソファに座る。膝の上に彼女を乗せて、ぎゅっと抱きしめて首元に顔を埋めた。
自分も彼女も、犬ではない。
ほっと安堵の溜息が漏れる。
「穏やかに眠っていらっしゃると思ったのですが……怖い夢でしたか?」
抱きかかえたルイーザの肩に顔を埋めると、柔らかい手が優しく黒髪を撫でる。
真面目なルイーザは、婚姻前の適切ではない接触を良しとはしないのだけれど、いつもと違うヴィクトールの様子を心配したのか今は受け入れてくれるようだ。
彼女は、ヴィクトールが執務に手を抜こうとすると面と向かって苦言を呈するほど気が強いが、本当はとても情が深い。
我儘に振る舞うと大抵は怒ったり困ったりするのだけれど、ヴィクトールがどうしても甘えたい時は、仕方のない人だと言いながら甘やかしてくれるのだ。
「……ああ、危うく子犬が産まれるところだった」
「意味がわかりません」
ばっさりと言われるが、相変わらず髪を梳くように撫でる手は優しい。寝惚けているとでも思われているのだろう。
しかし、思い返しても恐ろしく不可解な夢だった。
夢の内容を思い出しながら、なんとなくテーブルの上に目をやると、自分が昼寝をしてしまう前に飲んだティーカップが目に入り、あることを思い出した。
最近は婚姻前の式典準備などで忙しく、睡眠時間が減ってしまい、慢性的に疲労気味だった。それを、側近のファルクに相談したのだ。
『朝、すっきり目覚められるまじない付きの薬草茶がありますよ。ちょうど追加分をもらってきたばかりなので、もしよろしければ殿下もどうぞ』
ファルクはそう言いながら、魔術師から調合してもらったという薬草茶が入った小袋を差し出した。
確か……どんな味か気になって、それを休憩中に飲んだ。てっきり、リラックス効果のあるハーブティのようなものだと思ったのだけれど。
ある魔術師がにやりと笑う姿が目に浮かぶ。やたらとルイーザと気安く話す、あの魔術師だ。
(魔術師に変な物つかまされたんじゃないだろうな……!!)
「ファールークー!!」
執務室側の扉へ向かい、大声で側近を呼ぶ。抱きしめたままのルイーザは突然の大声にびくりと体を揺らすが、ヴィクトールは回している腕にぎゅっと力を入れて逃がさなかった。
がちゃりと音を立てて扉が開き、側近が顔を覗かせる。特に何かを後ろめたく思う様子もなく、叱られるとも思っていないようだった。
「何です? 大声なんて出して」
「お前が変な茶を寄越すから散々な思いをしたんだぞ!」
憤るヴィクトールの声を聞いたファルクは、ちらりとテーブルの上のティーカップを見て目を丸くした。
「え、安眠のためのお茶なのに昼間から飲んだんですか? 夜寝る前に飲んでくださいよ」
「試飲した後うっかり昼寝してしまっただけだ! 大体何が安眠だ! 私とルイーザが揃って犬になる夢を見て安眠どころじゃなかったぞ!」
「……それは恐ろしい夢ですね」
犬だった頃を思い出したのか、ルイーザはぶるりと体を震わせた。「犬生活で学んだことは多かったが二度と御免だ」と言っていた彼女にとっては想像するだけで恐ろしい夢だろう。
しかし、ヴィクトールの憤りが通じないのかファルクは呑気に首を傾げる。
「悪夢を見たんですか……? おかしいなあ。幸せな夢を見て、今日も頑張ろうって気分で起きられる筈なんですけどねえ」
今度はヴィクトールがびくりと揺れる番だった。
先ほどはソファで寝ていたために寝返りで転がり落ちて目が覚めたけれど、もしも普通のベッドで寝ていたとしたら。
あの夢の先は、犬になった自分とルイーザでもふもふいちゃいちゃしながら過ごしていたのではないだろうか。……幸せになる前に目がさめただけで、本来とんでもなく幸せな夢だったのでは。
そこまで思い至ったところで、腕の中で無言の婚約者から冷え冷えとした空気が漂ってきていることに気が付き、ヴィクトールは暫く顔を上げることができなかった。




