ある騎士と王太子の婚約者
王太子付きの騎士レーヴェは現在、王太子の婚約者であるルイーザ・ローリング伯爵令嬢が部屋から出てくるのを待っている。
婚約者になってからというもの、彼女は王家のしきたりを学ぶ授業を受けたり、王妃陛下のお茶の相手に呼ばれたりと度々登城している。
そろそろ歴史の授業が終わるはずだから、迎えに行ってくれと言う王太子からの命を受けたのだ。
ガチャリとドアノブが回る音がしたと思ったら、重厚な扉を開けて待っていた女性が出てきた。彼女こそ、待ち人ルイーザである。
ルイーザはレーヴェの存在に気付くと、片手に歴史書を抱えたまま空いた方の手でスカートを摘み礼をした。
「あら。レーヴェ様。ごきげんよう」
「ルイーザ様。お疲れ様でございました。王太子殿下がお呼びですので、お時間いただいてもよろしいでしょうか」
レーヴェが胸に手を当て尋ねると、ルイーザは目を細めて微笑みながら承諾をした。
三〇に届く齢のレーヴェからすると一〇も年下の少女であるはずなのだけれど、常に落ち着き払った態度は年齢以上の貫禄を感じた。
多少の物事では動じず、機知に富んだ会話を行う様は王妃陛下や王宮の古狸である貴族たちから一目置かれるのも頷ける。
博識で気が強い王妃を母に持つヴィクトールは、彼女のような女性を苦手としていたはずなのだけれど、紆余曲折あって……それはもう、人知を超えるあれこれがあってルイーザを選んだ。
優しく穏やかな女性と愛を育みたい、と常日頃言っていたヴィクトールだけれど、もしあの甘えた精神のまま穏やかな女性と結ばれたら、有事の際には共倒れとなったことだろう。
幼い頃からヴィクトールを知るレーヴェから見ても、ルイーザくらいしっかりした女性に尻を叩かれながら玉座に付いた方が、円満に行くだろうと思う。
というように、レーヴェはルイーザのことを主の伴侶としてこれ以上ない女性だと思ってはいるのだが、個人的には彼女と馴染めずにいた。
主の結婚後も騎士を続けるつもりであるため、長い付き合いになるだろう。ある程度は打ち解けたほうが色々とやりやすいことはわかっている。わかっているのだけれど……。
「レーヴェ様は、中々私と打ち解けて下さいませんね」
「い、いえ。騎士たるもの、貴人と気安く言葉を交わす立場ではございませんので」
もちろん、言い訳である。
レーヴェは思わず引きつりそうになる口元を引き結ぶことで誤魔化した。レーヴェの言葉を聞いたルイーザは、片手を頬に当て悲しそうな表情でほう、と息を吐いた。
元々人見知りする性質でもないし、女性を前にしてドギマギとするほど初心でもない。三〇近いのだ。それなりの人生経験はある。
しかし、どうにもルイーザが相手となると駄目なのだ。
隣にいるルイーザを横目でちらりと盗み見る。
背筋をピンと伸ばし、美しい姿勢で悠々と歩く姿。華奢な身体に艶やかなこげ茶色の髪。どこからどう見ても、育ちの良い令嬢だ。……令嬢なのだが。
どうしても、尻尾を振りながらヴィクトールにおやつを強請る犬の姿が重なってしまうのだった。
******
ルイーザは、王太子の執務室へと行く道すがら、エスコートをする騎士を見る。
普段王太子の傍へと控え、護衛をしている彼とは何度も顔を合わせたことがある。人間に戻ってからも……犬だった頃も。
この騎士レーヴェは、去年あったことの顛末を知る人間の一人だ。王太子の傍にいる者で事情を知るのは、ルイーザが噛みついた刺客を取り押さえた騎士レーヴェと、事後処理に駆り出された王太子補佐官のファルクのみである。
ファルクは飄々とした男で、人付き合いも上手いらしくかなり早い段階で打ち解けることができた。しかし、この騎士はルイーザからひたすらに距離を置こうとする。
犬だった頃に見かけた印象だと、決して人見知りするタイプではない。使用人とは普通に話すし、犬だったルイーザにも構うことがあった。本来は割と社交的なタイプなのだろう。
しかし、ルイーザとは打ち解けようとしない。その理由も察しがついているが、いつまでもこの距離感ではやりづらい。
「レーヴェ様も私も、家格は同じ伯爵家。年齢はレーヴェ様の方が年上ですし、もう少し砕けていただいて構いませんよ?」
「私は騎士です。ルイーザ様はいずれ私の主となるお方ですから……」
「ファルク様は気にしませんでしたよ」
「……あれは、特殊な男ですから」
ふいとレーヴェが目を逸らす。
そう、この男は中々ルイーザと目を合わせようとすらしないのだ。
「私は気にしていませんよ。レーヴェ様は、あの犬が私だとは知らなかったのですから」
ひくりとレーヴェの頬が揺れる。騎士のくせに、動揺を隠すのが下手なようだ。
「ええ、別に全く気にしていません。間抜け面と言われたことも、おやつを食べすぎて太ったと言われたことも。……あれは冬毛ですけどね!」
「気にしているじゃないか! ……っと、すみません」
思わず叫んだ後に、口元を抑えて慌てて顔を逸らす。
やはり生真面目な騎士は、犬に対する言動や行動を後ろめたく思っているようだ。律儀な男である。
ヴィクトールはルイーザの犬時代を素敵な思い出のように恍惚とした表情で語るし、側近のファルクは「素晴らしいほどの犬っぷりでした」と完全に馬鹿にしているしで、主従揃って居た堪れない気持ちを味わわせてくれた。レーヴェのこの反応は中々新鮮である。
なんだか楽しくなったルイーザはにんまりと笑みを作る。
「ええ、レーヴェ様が親切な方だと私は知っています。
そういえばよく、私のお腹周りも気遣って頂きましたね」
「うっ……その節は大変失礼いたしました。」
(た、たのしい!)
更にうろたえる騎士を見てルイーザのいたずら心がむくむくと湧いたところで、後ろからぎゅっと腰を包まれる。
「レーヴェ、私の婚約者と随分仲良くなったみたいだね」
「ヴィー様!?」
ルイーザの腰に手を回したヴィクトールは、にこりと微笑んでレーヴェを見た。口元は弧を描いているが、その目は明らかに笑っていない。
「殿下、まだ執務中では……?」
「ルイーザと子犬を見にいこうと思って、休憩を前倒しにして出てきたんだ」
先月、王宮の番犬時代にお世話になったマリーが子犬を生んだのだ。
出産直後の母犬は気が立っているので本来は飼育員以外を近づけないのだけれど、以前ルイーザが見に行った時に、マリーは子犬を咥えてルイーザのもとへ連れてきてくれた。同じ犬舎で過ごした絆のおかげだろうか。
近くにいた飼育員は不思議そうに首をかしげていたけれど、それは曖昧に笑って誤魔化した。
元々ヴィクトールのしつこい撫で撫で攻撃を苦手としていたマリーだけれど、ルイーザが一緒の時は渋々ではあるけれどお零れとして彼が子犬を触ることも許してくれる。
マリーが産んだ子犬は、番犬になる子や牧羊犬として引き取られる子がいるのだけれど、一匹はヴィクトールとルイーザで飼おうということになっている。
親離れする時期的に、結婚するより少し前にヴィクトールが引き取るため、過分に甘やかされて育たないか心配ではあるけれど、基本のしつけは王宮の犬舎でしてくれるらしい。
「……時々、ヴィー様が私と一緒にいる理由に、犬が絡んでいるのではないかと不安になりますね」
「まさか! 一緒に犬を可愛がってくれる女性と結婚したいと思っていたから、その条件に君がぴったりだったということは嬉しく思うけど、その理由は後からついてきたものだよ」
ヴィクトールは首を振って否定をするが、どうにも疑わしい。この男の犬好きは嫌というほど知っているのだ。疑いの目でヴィクトールを見ると、機嫌を取るようにルイーザの頬に唇を寄せた。
その二人のやりとりを見守っていた騎士がごほんとわざとらしい咳払いをする。
「誰が通るかわからない廊下で突然二人の世界に入るのはやめていただけますか?」
「あら……失礼しました」
レーヴェの存在を軽く忘れていたルイーザは、慌ててヴィクトールの胸を押して距離を取る。その様子を見てヴィクトールは、少々むっとしながらレーヴェに向き直った。
「……良いところで邪魔をするとは。まさか、ルイーザにただならぬ思いを抱いているんじゃないだろうな?」
それは、ない。
ルイーザとレーヴェの心が奇しくも一致する。
レーヴェは主の婚約者に邪な思いを抱くような男ではないし、どちらかというと令嬢の姿と犬の姿が重なって困っている部類だ。ルイーザもそれを分かっている。しかしヴィクトールは追及の手を緩めない。
「思えば、以前からお前がショコラを撫でる手はいやらしかったね」
「いやらしい手で犬を撫でていたらそれはもう病気ですよ!」
悲愴感溢れる声でレーヴェが叫ぶ。ヴィクトールのトンデモ理論に流石のルイーザの頬も引きつった。
ヴィクトールが自分に求婚した理由は直接聞いたし、納得もしたけれど……まさか犬だった頃の自分に対する思い、では……、流石にない。はずだ。と、思いたい。
不幸にも、用事があって執務室に向かうファルクにこのやりとりを目撃され、哀れな騎士は『犬にただならぬ思いを抱く男』として暫くからかわれることになった。




