元王宮の番犬、現……
あれからすぐ、グレーデン家の嫡男が不治の病に罹り田舎で静養したとの知らせが入った。最も王家に近い血筋のひとつである公爵家での出来事に、王家主催のものをはじめとする多くの夜会が自粛されることとなった。
公爵家当主も、〟嫡男の病気による失意のあまり〟爵位の返還を願い出たが、国王の反対により、今なお同じ地位にいる。しかし、夫妻の憔悴した様子からして、数年のうちに爵位は次男に継がれるのではないかとルイーザは考えている。
また、今回のことによって王太子の婚約者候補の件も翌年に持ち越されることとなった。
季節は巡り、再び社交シーズンがやってくる。ルイーザは領地から王都に戻る馬車の中で溜息をついていた。その手には、王家の紋章が入った手紙が握られている。
シーズンに合わせて隣国からやってくる歌劇団の観賞の誘いが綴られていた。領地を出る直前に届いた手紙を、馬車の中で読んでいたのだ。
あれからルイーザのもとへは定期的に、ヴィクトールからは手紙や花などが贈られてきていた。
「時間が経てばそのうち飽きると思ったのだけれど……」
「もう、受けてしまえばいいじゃない。貴女だって、殿下のことは憎からず思っているのでしょう?」
母の呑気な声に図星を突かれたルイーザは口をへの字に曲げた。
ルイーザだって、ヴィクトールが嫌いなわけではない。王太子としては情けないけれど、良いところも知っているし最近では以前よりも真面目に執務に取り組んでいると聞いている。
……良い人だと思っているからこそ、責任感などではなく本人が添い遂げたい女性と幸せになってほしいと思っているのだ。
かつてのルイーザであれば、自分の目標が一番で、誰かの幸せなんて考えなかっただろう。「幸せになりたいなら自分で相応の努力をして掴めばいい」と考え、第三者の幸せなんて他人が祈るものでもないと思っていたのだ。
しかし、犬になって父や母の愛に触れ、魔術師からの助けや同室の犬の思いやりに触れたことで、他人(一部犬)に助けられていたことを知ったのだ。
自分のことばかりを考えるのは、犬生活を経て卒業した。
ルイーザは、王家の揉め事によって腹部に傷を負った。とっくに傷口は癒え、今はまったく痛まないけれど引き攣れたような跡は消えることはないだろう。ヴィクトールの手紙にも、傷の様子を心配する言葉が何度か綴られていたのだ。
確かに肌に傷があれば、嫁ぎ先の選択肢は狭まるだろう。しかし、内臓の損傷はなかったのだし贅沢を言わなければいくらでもあるはずだ。
それに、揉め事の元は王位を巡るものだったとしても、こうなった原因は、ルイーザの行動によるものでもある。
そもそもヴィクトールが傷を負わせたわけではないのだ。責任を果たすような求婚を受け入れたとしても、その先に幸せがあるとは限らないと、ルイーザは考えている。
「難しく考えなくても、嫌いじゃないならいいじゃない。ねえ、ルイちゃん」
母はそう言って隣の座席に座るこげ茶色の犬を撫でた。
「ルイ」と呼ばれた犬は、もちろんルイーザが再び犬になったわけでも、分身したわけでもない。
昨年の事件の時に、犬一匹が何の前触れもなく消えたら犬時代のルイーザを知る飼育員や使用人が首を傾げるため、番犬見習いのルイ──ヴィクトールはショコラと呼んでいたが、本来付けられた名前はルイである──は、表向きは怪我を負って番犬業ができなくなったのでローリング伯爵家に引き取られたということになっている。
怪我や年齢から引退した犬が、農家や牧場、または田舎に領地を持つ貴族に引き取られることはよくあることだそうだ。特に、ルイーザのために犬舎に通い続けた父は飼育員の中で犬好きの伯爵ということになってしまっていたので、不自然には見られなかった。
表向き引き取ったことにするだけで別に本当に犬を飼う必要はなかったのだけれど、両親が折角だからと同じ犬種で似た毛色の子犬を領地で探し出してきた。本当は邸の番犬にするつもりが、ぬくぬくと室内で過ごし、両親や使用人たちにたっぷりと可愛がられたせいで番犬どころか人見知りもしない甘えん坊の室内犬に育ってしまったけれど。
二人と一匹を乗せた馬車は間もなく王都へと到達する。今回の社交シーズンはどうなることかとルイーザは溜息をついた。
*****
久しぶりの、王都の屋敷の門をくぐる。
城勤めをしている父は連休があれば領地に戻るものの、基本的には王都で過ごしていた。
まずは挨拶のために父のもとへ向かおうとしたら、家令から来客があるからと応接間へ行くよう促される。
先触れはなかったはずだけれど、一足先に王都へ着いた友人でも来ているのだろうかと応接間の扉を叩くと、聞こえるはずのない人物の声で応答があった。
「ルイーザ嬢、久しぶりだね」
「王太子殿下!? お久しぶりでございます。……どうしてこちらに?」
ヴィクトールの最新の手紙は、領地を出る直前に受け取った。返信を書いてもルイーザの方が早く到着してしまうため、王都へ戻る予定はまだ彼には伝えていないはずだった。
「伯爵から、今日着く予定だと聞いたから来ちゃった」
来ちゃった、と気軽に言うが、平日の昼間から城を出ていい人物ではない。今は社交シーズン直前ということもあって、彼は中々に忙しいはずだった。
最近は真面目に執務をしているとは聞いているが、相変わらず自由なところがあるようだ。青い顔で胃を押さえる彼の生真面目な護衛の姿が脳裏に浮かぶ。
なんと言っていいのか思案していると、するりとルイーザの足元をこげ茶色の毛が通る。
「わあ! 飼い始めたと言っていた子だね? 可愛いなあ、色はショコラそっくりだね」
表情を緩ませるヴィクトールに、愛犬ルイは尻尾を振って近づいた。誰に似たのか彼女は遊んでくれそうな人や美味しいものをくれる人を見分けるのが上手いのだ。一瞬でヴィクトールを甘やかしてくれる人に認定してしまったらしい。
「こら、ルイ! す、すみません……まだ若いので落ち着きがなくて……」
ルイはやっと成犬の大きさになったとはいえ、まだ一歳を過ぎたばかりの若い犬だ。一通りの躾は終えたものの、落ち着きはないし甘えん坊である。ルイーザの知る王家の番犬たちに比べると、同じ犬種のはずなのに雲泥の差だ。ヴィクトールがイメージする犬の基準が番犬であるのならば、間違いなくかなりやんちゃな子に分類されてしまう。
慌てて首輪を掴んで愛犬を引き寄せようとするが、ヴィクトールが問題ないと制してルイを撫でまわす。人見知りしないルイは喜んでソファに座るヴィクトールの膝に前足をかける。
「大丈夫大丈夫。ショコラもこんな感じだったし」
解せない。が、記憶を辿る限り否定もできない。ルイーザは微妙な表情になってしまう。
あの時は特に意識していなかったけれど、傍から見ると自分はこんなに犬だったのだろうか。……いや、流石にもう少し落ち着いていたはずだ。
「先ほど、正式に求婚の許可を伯爵に貰ったところだ。伯爵はルイーザ嬢の意志に任せると言っていたよ」
ルイを撫でながら、ヴィクトールは微笑んで本題に入った。
ついにきたか、とルイーザは内心覚悟を決める。彼が冗談で言っているわけではないのは流石にわかっている。きちんと、答えなければいけない。
「身に余るほどの光栄な申し出ではありますが、殿下には、責任感で婚約を決めるのではなく、本当に添い遂げたい方を選んでいただきたく思います」
ヴィクトールは、あれからもずっとルイーザの傷のことを気にかけていた。完全に傷がふさがった後も、痛むことはないかと聞いてきていた。
しかし、あの怪我は決してヴィクトールのせいではないのだ。誰が悪いかといったら間違いなく刺客を送り込んだアーデルベルトの方だろう。
それでも、ルイーザの言葉にヴィクトールは納得しない様子で眉を潜めた。
「前々から思っていたけれど、ルイーザ嬢は私が責任だけで求婚していると思ってる?」
「違うのですか?」
「身を挺して自分を庇うほど思ってくれる女性に、惹かれないわけがないじゃないか」
「それは……」
ルイーザは言い淀む。
流石にはっきりと言うことは憚られるが、あの時のルイーザの行動は、犬が懐いた人を守るものだった、と思う。令嬢に戻った今、同じような行動……身を挺して悪漢の前に立ち塞がれるかというと難しい。恐怖の方が先に出てしまうような気がする。
「言いたいことは大体察しが付く。その時のルイーザ嬢の行動は犬としてのものだったとしても、君に救われたことには変わりないよ」
「……それも、すべて偶然。間に合ったのもタイミングが良かっただけです」
「それだけじゃない。私は、私以外にはなれない。──あの時……メリナ嬢と話した後の君の言葉のお陰で私は変わろうと思えた。私はアーデルベルトのようにはなれないし、なる必要もないのだと。私は、私ができる中で最高の王になりたい。その為に、これからも君に支えてもらいたいんだ」
プロポーズにしては、微妙に情けない言葉に少々脱力した。
それでも、ルイーザは彼をどこか憎めない。なんだか、彼らしくて微笑ましいとすら感じてしまった。認めていいのか悩むところだけれど、少し情けないところを可愛らしくも思うのだ。
「……私は、かつて殿下が望んだような穏やかで優しい令嬢ではありませんよ」
「私だって、あれから自分を見つめ直した。当時穏やかで優しい女性を望んだのは、優秀で自立した女性への劣等感があったからだ。優秀な妃を持って、アーデルベルトと同じようにまた比べられるのではないかと。今は、君がいい。気が強くて努力家な君の隣に立って恥ずかしくない王になれるように私も努力したい」
「……私はそんなにできた人間ではありません。相手の立場に立って考えることも、あの事件を経てやっと知ったくらいですし、教養面も、まだまだ未熟な部分は多いと思います。あまり学業に熱心なのも、本当はこの国の女性としては褒められた事ではありませんし」
「今も芋が好きだし?」
「ええ、何故か未だにふかしたお芋が──何故知っているんですか!?」
「伯爵夫人が言っていた」
ルイーザが思わず上げた叫び声にヴィクトールは笑いながら答えた。ルイーザの知らぬ間に、父だけでなく母ともやりとりをしていたようだ。
人間に戻って随分と経つ。ノアはしばらくすれば人間の体に精神が馴染んで犬の習慣は抜けると言っていた。今のルイーザは生肉を食べたいとは思わないし、もうボールを追いかけたくもならない。
当然柔らかい土を見ても掘りたい衝動は起こらないのだけれど、ふかしたお芋の魅力からはどうしても逃れられなかった。
芋を使った菓子ならともかく、シンプルにふかしただけのものは百歩譲っても庶民のおやつである。令嬢が好むものでは決してない。
羞恥に頬が熱くなるのを感じながらも、どうにか令嬢として取り繕うように謝罪をする。
「突然大声をあげて……失礼しました」
「私的な場では、立場なんて気にしなくてもいいから素で話してほしい。ショコラだったころはもっとたくさんお話してくれただろう?」
お話というが、ヴィクトールにとってはわふわふとしか聞こえなかったはずだ。そもそもあれは通じないと思っていたからでそのまま口にするのは非常にまずい。不敬まっしぐらである。躊躇する気持ちが、ヴィクトールにも通じたのだろう。
「不敬は気にしなくていいよ。母だって、プライベートでは父に対して結構ずばずばと言っている。ああでも、呼ぶ時はポンコツ王太子ではなく、ヴィクトールと呼んでほしいけど。……いや、それより愛称がいいな。ヴィーとかどう?」
人間に戻って初めて発した言葉を引き合いに出されてルイーザは顔を引きつらせる。
そんな様子をよそに、ヴィクトールは一人で話を進めていた。自分のペースで話を進めるのは、犬が相手だったからではなく人間でも同じようだ。
仕方のない人だと苦笑する。そんな彼を憎めない自分自身にも。
なんだかんだで、自由な彼に惹かれているのだ。
「私が素で話したら、なんて気が強い女だと後悔するかもしれませんよ?」
「ふふ。ルイーザは小さい頃からしっかりしていたのを知っているから大丈夫だよ」
小さい頃の自分を、なぜ彼が知っているのかと首を傾げるが一つの出来事が思い当たる。
ルイーザが気が付いたのは最近だけれど、一度幼い頃に城の図書室で会っているのだ。生意気な子供だった自分の姿を思い出して、さっと頬が赤くなる。
「……もしかして、覚えていらっしゃるのですか?」
「気が付いたのは、ルイーザの私室に入った時だけれどね。本棚に、あの差し出されたフリアンテ国の児童書があった」
幼い頃のルイーザが図書室で借りようとしていた児童書だ。輸入が少なく入手が難しいものの、一冊……何故か三巻だけは持っていた。
「気づいた時に仰ってくださればよろしかったのに。……あの時は、随分生意気な小娘だと思いましたでしょう?」
「いいや、幼いのによく勉強していると思ったよ。実際私は、児童書すらも辞書片手にやっと読めるかどうかだったしね」
「なんだか恥ずかしいところばかりお見せしてしまっている気がします」
「変に取り繕った関係よりもずっといいと思う。それに、恥ずかしいところを見せているのはお互い様だ。君の目の前で散々弱音を吐いたし……ご令嬢に素の姿を見せてしまったのは初めてだ。それとも、情けない私ではだめ?」
懇願するような表情で問われて、反射的にルイーザは首を横に振る。何故か捨て犬のように見えてしまったのだ。
「私でよければ、よろしくお願いします。……ヴィー様」
今年のシーズンで、王太子は婚約者を決めるだろう。
そう貴族たちの間で囁かれ、ある貴族は自分の娘を選んでもらおうと画策し、またある貴族はどこの家と懇意にするべきか予測した。
そんな中、社交シーズン幕開けと共に告げられた王太子の婚約発表は、社交界を大いに驚かせた。王太子と、去年辞退した筈の令嬢が仲睦まじく寄り添う姿を見た貴族たちは、一体どこで二人が親睦を深めたのかと首を傾げた。
ある貴族は、王太子に直接聞いてみたらしい。王太子は、意味深に笑ってこう答えた。
「親しくなったきっかけは、ボールとおやつかな」
ボールとおやつ。
令嬢のイメージと結びつかず、その貴族は首を傾げることしかできなかった。




