人間に戻れた理由
ルイーザを刺した短剣には、少量の痺れ毒が塗られていたらしく目を覚ましてからも暫くベッドの住人だった。
あれからはや半月。研究棟から届けられる魔術師が調合した薬の効果が高いのか、まだ脇腹の傷は完全には塞がったわけではないものの、日常的な動作には不自由しなくなった。
父は、まだしばらくは自室で養生した方が良いと難色を示していたが、早めにノアに話を聞きたかったルイーザは付き添いをつけて登城していた。
ノアとの約束の時間まで、まだ余裕がある。
研究塔に行く前に、裏門からほど近い所にある犬舎に来ていた。犬舎前を掃除している飼育員を見かけた時は、思わず駆け寄ろうとしてしまったが、腹部の痛みと共に自分が既に人間であることを思い出して留まった。
なんとなく、犬たちの休憩所にルイーザは足を向ける。いつもは犬として活用していた場所に、人間として立ち寄るなんて不思議な気持ちだ。もちろん、犬になる前はここに近づいたことすらない。
芝生を踏む感触も、広い裏庭に植えられた木も、当然当時のまま。違うことといえば、少し季節が進み木々の葉が落ちてきたことだろうか。
休憩所にたどり着くと、意外……ではない先客がいた。
「ルイーザ嬢」
「ヴィクトール王太子殿下、ご機嫌麗しゅう」
ヴィクトールの姿を認めたルイーザは、淑女の礼をとる。目覚めてから初めての外出のため、令嬢として礼をとるのは非常に久しぶりであったのだけれど、幼い頃から学んできた作法は身に染み付いていた。
「ここにいるということは、これから魔術師のもとへ?」
「はい。少し時間があるので、久しぶりに立ち寄ってみました」
ヴィクトールに撫でられていた犬が、すくっと立ち上がるとルイーザに近寄ってきた。
同室の犬ではなく、黒くてひときわ立派な体格の番犬たちのリーダー的存在の雄犬だったけれど、もちろん犬時代に面識がある。ルイーザは覚えているけれど、犬の方は自分のことを覚えているのだろうか。
なんとなく屈んで手を差し出すと、犬はペロリとルイーザの手を舐めた。
愛想の良い対応に嬉しくなったルイーザは、ふかふかと冬毛に覆われた黒い毛をゆっくり撫でる。かつて犬だった自分が人間の手のひらでこの毛並みを撫でるのはなんだか不思議な気分だった。
「凄いな。ここの犬が飼育員以外に自分から近寄るのを初めて見た。……ああ、ショコラ以外で」
「……殿下、ショコラのことはどうかお忘れください」
ヴィクトールに悪気はないのだろうけれど、番犬としていまいちだったルイーザは少々気まずい気持ちで目を逸らす。立派な番犬を目指していたわけではなかったけれど、今思い返すと他の犬よりも呑気すぎる振る舞いだった。
暫く雄犬を撫でていると、どこかに隠れていたらしいマリーもルイーザのもとへ近づいてきた。ヴィクトールが訪れる時は必ず消える彼女にしては珍しい。相変わらず、艶やかな毛並みと、金色に輝く瞳の美人犬だ。
「マリー。貴女にはたくさんお世話になったわね」
彼女は同室の姉貴分だったこともあって、マリーとは確かな絆を感じていた。近寄ってきてくれたことが嬉しくなったルイーザがマリーを両手で撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めてすりすりとルイーザの手に頬を寄せてきた。
「その子はいつも触ると嫌そうな顔をするのに……!」
ヴィクトールは驚き……と少々悔しそうな表情で呟いた。
ヴィクトールがさりげなくマリーを撫でようとすると、さっと避けてルイーザを盾にするように後ろに回り込む。あからさまな態度に、ルイーザは笑うに笑えなかった。犬にとっては身分なんて関係ないのだ。
マリーに逃げられ行き場のなくなった手をさりげなく引っ込めたヴィクトールは、咳払いをしてからルイーザに向き直った。
「ルイーザ嬢、手紙でも言ったが、君は王家の事情に巻き込まれてしまった被害者だ。これ以上、君を危険に晒すわけにはいかない」
先ほどとは打って変わって、真剣な状況でヴィクトールは言い募る。
「確かに、アーデルベルト様の行動は王位継承を狙ってのものかと思います。しかし、私がああなった理由は、私の予想が正しければ私自身への私怨も含まれていると考えています。ですから、まったくの無関係というわけではございません」
ルイーザが犬になった事を知っていたメリナ・ノイマン伯爵令嬢。
彼女からは、デビューした頃から顔を合わせるたびに穏やかでない視線を感じていた。同じ家格で同い年の娘で互いに王太子の婚約者候補ということで、多少意識される程度ならばわからなくはない。
しかし、それ以上の強い何かがあったことは間違いない。元々、ルイーザのことを良く思わない令嬢も少なくはなかったので、当時はそこまで気にしてなかったのだが、今思うと気に入らない──どころか憎しみにも近い感情を抱く何かがあったのだろう。
このルイーザの予想が当たっていた場合、メリナは間違いなく罪を背負うことになる。当然、王太子妃候補からは外れるはずだ。
メリナに対する罪悪感は欠片も持っていないけれど、最近までヴィクトールの中で彼女が最有力候補だったことは知っている。ヴィクトールの気持ちを思うと、複雑な心境だった。
「仮に私の予想が当たっていたら……殿下には辛い結果になるかと思います」
「何故? 私は許されざることをした者にはしかるべき対処をすべきだと思っているよ」
「ですが、ヴィクトール王太子殿下は彼女を好ましく思っていらっしゃったでしょう?」
「ああ……優し気な令嬢だとは思っていたが、犬舎に連れていった後に候補から外している」
「唯一犬に触れる令嬢だったというのに……ですか?」
ヴィクトールが犬舎に連れてきた令嬢が皆大型犬に怯えていた中で、メリナだけは恐怖心を見せなかった。逞しい大型犬であったルイーザのことも、平気で撫でたのだ。てっきり、有力候補のままだと思っていた。
「メリナ嬢がショコラを撫でた瞬間、毛を逆立てて怯えただろう? それを見て、すぐに外したよ。人に撫でられるのが好きな君があんなに怯えるのは普通じゃないと思ったから」
ルイーザは、些細な変化に気付いてもらって嬉しいような、有力候補の令嬢より犬を優先したことに呆れるような、複雑な気持ちになった。
「これから研究塔だろう? 私も同行しても良いだろうか。一応は当事者だから、直接話を聞きたい」
「私は構いませんが……休憩時間はもう終わるのではありませんか?」
「事情が事情だから問題ないさ」
ちらりとヴィクトールの近くに立つ騎士レーヴェに視線を送る。彼の眉間には深い皺が刻まれているが、渋々といった様子で頷いた。
言ったところでヴィクトールが曲げないことを、常に傍にいる騎士はわかっているのだろう。
*****
「やあ、よく来たね……と、王太子殿下。ようこそいらっしゃいました」
ルイーザが研究室の扉を開けると、ノアはヴィクトールの同行が意外だったのか驚きを顔に浮かべながら慌てて立ち上がって挨拶をした。
魔道具や薬品に囲まれたこの研究室に訪れるのも、随分と久しぶりな気がする。犬であったころは数日おきに入っていたというのに不思議な感覚だ。
ルイーザとヴィクトールをソファに座らせたノアは、手ずから客人に出す用の紅茶を淹れている。
研究棟にも使用人は出入りしていて、頼めば来客時に紅茶を入れてくれる。ただし、魔術師の中には必要以上に研究室に人が出入りするのを忌避してすべて自分で済ませてしまう者もいる。ノアはそのタイプのようで、顔を出すたびに手ずから紅茶を入れるのだ。
「ルイーザ嬢、もう大丈夫なのかい? 僕から伯爵邸に行ってもよかったのに」
「ええ、あれ以上じっとしていたら体が固まってしまいそうだから」
紅茶をテーブルに置いたノアが対面の椅子に腰をかけた後に口を開いた。
「ノア、色々とありがとう」
「いいや、僕は結局何もできなかったよ。薬も間に合わなかったし」
「ノアがいてくれなかったら正気を保てなかったわ」
もう一度ルイーザが頭を下げると、魔術師は少し照れたように笑った。
「それで、人間に戻った理由だっけ? 僕が直接診察したわけではないから予測になるけれどいいかな?」
「ええ、その前に一ついいかしら。私、もう紅茶を飲めるのよ」
ヴィクトールとノアの前に紅茶が置かれ、ルイーザの目の前には犬だった頃のように木のボウルに入った水が置かれていた。
「あっ、本当だ。ごめん、ついつい」
ノアは悪びれた様子もなく、はははと笑ってもう一組のカップを取り出し紅茶を注ぐ。しかしルイーザが思わず憮然とした表情になってしまうのも仕方がないだろう。
「ええと、人間に戻った理由ね。解呪には解呪薬が必要と言ったけれど、万が一死んでしまった場合人間の遺体に戻る可能性があると言ったことは覚えている?」
「ええ……覚えているけれど、私は死んでいないわ」
犬の姿でどこかに連れ去られ、殺されてしまった場合は令嬢の姿のまま、一糸まとわぬ遺体となってしまう可能性があるとは確かに聞いていた。
それでも、ルイーザは確かに生きている。刺されて暫くは生死の境をさ迷ったとは聞いているけれど、目を覚ましてからは特に変調もなく過ごしているはずだ。
「実は原因を特定した直後、君を仮死状態にしてから蘇生する方法も一度選択肢に上がったんだ。仮死とはいえ失敗すると後遺症が残る可能性もあるし、成功が確実とはいえない危険な賭けだったから試さなかったけれどね」
ノアの言葉を聞いて、提案されなくて良かったとルイーザは心から安堵した。
切羽詰まった時であったら、たとえ危険だと言われても、僅かでも可能性があるのならばとお願いしていただろう。
「君は当初出血がひどかったみたいだし、ショック状態で心臓が一瞬止まったのではないかと思う」
「何だそれは! 大丈夫なのか!?」
ノアの言葉に、ルイーザよりも早くヴィクトールが反応して叫ぶように身を乗り出す。
衝撃的な事実ではあるのだけれどあまりの剣幕に、それこそ一瞬心臓が止まるかと思うほど驚いた。ノアも若干引き気味である。
「いや、今普通にしているから大丈夫だと思います。幸いというか短剣に塗られた麻痺毒のお陰で結果的に痛みが緩和されたことも大きいでしょう。……ルイーザ嬢、体の調子に違和感は?」
「ええ、大丈夫です」
ルイーザが頷いたのを確認して、ヴィクトールは安堵の息を漏らして前のめりになっていた姿勢を元に戻す。
「特に手足の痺れとかもないし、言語も普通だから問題はないと思います。後は……呪薬の後遺症の話なんだけど──」
「……後遺症があるの?」
後遺症については、初耳だ。例えば、何かの要因でまた犬に戻るなどということであれば今後の生活にも関わってくる。
「犬になっていた時に人間の自我が残っていたように、人間になった今も犬の頃の思考が少し残る可能性がある。もちろん、暫くすれば体の方に精神が馴染むだろうからそう心配はないかな」
「犬の頃の思考……」
「例えば、好物が変わったりとか、ボールを追いかけたくなったりとか。人間の理性が勝るとは思うけれど……僕としては、社交界に戻るのは少し遅らせることをお勧めするよ。ルイーザ嬢はほら……少し犬らしい犬だったから」
「ショコラ……」
少し犬らしい犬、とノアは何も濁せていないし、犬の名を呼んで謎の期待に満ちた目で見つめてくるヴィクトールにちょっと物申したい気持ちになった。この男、若干のペットロスならぬショコラロスに陥っている節がある。
「心配しなくても、まあ家で生活する分には支障がない範囲だろうし、来年のシーズンまでにはすっかり後遺症も収まっていると思うよ」
「そう……。と言いたいところだけれど、実は社交界で少しだけやりたいことがあるの」
「まあ、理性で抑えられないことはないだろうし、無理にとは言わないけれど……。結構忍耐との闘いにはなると思うよ」
声色から、本当に心配していることがわかる。ノア自身は下級貴族に生まれ、あまり社交界に明るくないと言っているが、少しの粗相が命取りになることくらいは知っているのだろう。
ルイーザは、心配いらないと笑顔で応えた。
「ええ、もちろん、変にぼろが出てもいけないし、必要最低限にとどめるわ。それよりも……ノアにも協力してほしいことがあるの」




