閑話
部屋の主は落ち着きなく、コツコツと指で机を叩く。いつも柔和な微笑みを携えている顔に今は深い眉間の皺を刻んでいる。
時間だけが過ぎていき、机に積み重ねられた書類は一向に動く気配がないが、ここにそれを咎める者はいない。
目を閉じると数刻前の光景が嫌でも脳裏を過る。血に濡れた、可愛がっていた犬の姿。
つい先ほどまでは勇敢に侵入者に噛みついていたとは思えないほど、弱々しく横たわったショコラ。
犬の言葉がわかるわけではないけれど、その瞳に悲愴感はなく、どちらかというと満足そうにくぅんとひと鳴きすると、ゆっくりとショコラは目を閉じた。
レーヴェの部下が拘束した刺客を連れて去って行ってもなお、ヴィクトールは犬の名を呼び続けるが、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。このまま、横たわったその身体から体温が消えてしまう気がして、ヴィクトールは悲痛な気持ちでショコラの体を抱きしめた。
厚い毛皮の奥にぬくもりが残っていることを確かめるようにゆっくりと体を撫でると、手のひらのふかふかとした感触が徐々に失われていくことに気づく。
違和感に身を離すと、焦げ茶色の毛が溶けて消えたようになくなり、すらりとした白い手足が現れた。大きく尖った三角の耳も、長い鼻先も形を変えて、どこからどう見ても人間の姿になった。
衝撃に固まりかけるも後ろから自身を呼ぶレーヴェの声に我に返り、慌てて覆い隠すように脱いだ上着でその身を包んだ自分を褒めたくなった。
伸びた手足は仕方ないにしても、お陰でレーヴェに彼女の体を晒さずに済んだのだから。
静まり返った執務室に、コンコンと扉を叩く音が響く。このタイミングであれば側近の誰かだろうと当たりをつけて、ヴィクトールは入室の許可を出す。
案の定、近衛のなかで一番信頼している男が沈痛な表情で入室してきた。問わなくとも、その表情から事態は進展していないことが伺える。
「状況はどうだ」
「依頼主のことは何も知らない、の一点張りです。些細な事でも聞き出そうとはしているのですが、いまいち要領を得ませんでした」
「まあ、そうだろうね。それなりの身分であれば本人が直接依頼などするはずがない」
王太子執務室のある場所は、私室ほどではないにしても決して無防備な位置ではない。そこに間者を引き入れた者となると、それなりの身分であることは間違いないだろう。ある程度の金と時間をかけたのであれば、容易に依頼主に辿り着けないように何人かを経ての依頼でもおかしくはない。
ヴィクトールは、深く溜息をついた。
「証拠はなくとも、見当はついているんだけれどね……」
「ですが……そのお方を罪に問うのであれば、それなりの材料が必要です」
ヴィクトールとレーヴェの頭に思い浮かんだのは、王妹が嫁いだグレーデン公爵家の嫡男、アーデルベルトだった。
表向きは公爵家の者として王家に忠誠を誓っているが、瞳の奥の野心は隠れていなかった。継承権第二位にある彼は、ヴィクトールさえいなくなれば次期国王となっていたと考えてもおかしくない。その下にも継承権を持つ者がいないわけではないが、いずれも現在の地位に満足していたり、既に老齢であったりと直系王族を害してまで上に立とうという者はいないのだ。
ヴィクトールにとって、アーデルベルトは血の近い従兄だ。教育が始まる前の幼い頃は、博識で所作も洗練されていた彼を純粋に兄のように慕っていた。教育が進められるにつれ、自分よりも優秀だと比べられたことで劣等感は抱いたが、憎んでいたわけではない。
「せめて、正面から話してくれたのなら私だって……」
「なりません。当人達がどんなに望んだところで、次期国王は殿下です。間者の話では暗殺までは明確に言われていなかったようですが、害意があったのは明確です」
「わかっているよ。それに、私だけでなく巻き込まれた人のためにもここで情をかけるつもりはない」
自分を守って大怪我を負った大きな焦げ茶色の犬を思い浮かべる。
女性の姿になった彼女を秘密裡に医務室へと運び、現在治療を施しているが未だに良い報告はない。王に報告した際、大まかに彼女の身に起こった顛末を聞いたが、タイミング的に無関係なこととは思えなかった。
ルイーザだけではない。ある時期から、身分の高い令嬢や教養に優れた令嬢──言わば後ろ盾になりそうな婚約者候補の辞退が立て続いた。令嬢の婚期を考えると、一シーズンでも無駄にはできないのだから中々進展しない状況に業を煮やしたのだろうと思っていたが、今考えると不自然にも感じる。
「どちらにしても、今回のことでアーデルベルトは焦っているはずだ。いくら足がつかないようにしても、間者が捕まった以上露呈する可能性は僅かながら残るのだから」
もし、自分が努力を怠らず完璧な王太子として立っていたのであれば。
アーデルベルトは変な野心など抱かなかったのではないだろうか。
もう少し、婚約者決めにきちんと向き合っていれば辞退が続く不自然さにも、もっと早く気づけたのではないだろうか。そうすれば、誰かが訳のわからない陰謀に巻き込まれるのも最小限に抑えられたのではないか、と後悔が押し寄せる。
閉じた瞼の裏には、しっぽを振りながら甘いキャラメルのような色の瞳で、ヴィクトールにおやつをねだる可愛い犬の姿が思い浮かんだ。
目を伏せたまま、親指で眉間の皺を伸ばすようにしながら、ヴィクトールは今後すべきことを考えた。




