惨めなその姿
あと二か月で元に戻れなければ、犬になってしまうかもしれない。
先日ノアに言われた言葉が、ルイーザの胸を蝕んでいた。
「あまり長くその姿でいると、精神が完全に犬になる」とは最初から言われていたけれど、前例と共に具体的な期間を提示されてしまうと一気に現実味が増してしまう。
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(ノアのように、動物と話せる魔術師は珍しいの?)
『この国ではまあ、珍しいと思うよ。研究塔にも僕のほかには一人しか知らない。ほかの国ではどうかわからないけれどね。それに僕も、動物と対話できるわけではないよ。動物と人間では根本的に思考が異なるから、なんとなく言っていることがわかる程度だ』
(……それなら、完全に猫になってしまった人の傍には誰も言葉が通じる人がいなかったのかもしれないわね)
『そうだろうね。僕も、動物になった人間と会うのは初めてだったから、こんなにはっきりと意思疎通ができることは君で初めて知ったけどね』
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先日ノアと交わした会話を思い出す。
ノアが珍しい、というのであれば、意思疎通ができる人物が近くにいればどれだけ人間でいられる期限が延びるのか──それ以前に、本当に期限が延びるのかということすら確証を得るのは難しい。こればかりは、運を天に任せるほかできることはない。
この状態になった時は、まだ暑い季節だった。しかし、今は時折冷たい風が吹くようになり、青々としていた木々も、季節の移り始めを見せている。
長くてあと二か月。人間に戻れたとしても、冬に差し掛かるころだろうか。
さくさくと、夏の頃より水分の減った芝生を踏む複数の足音がする。
秋風に乗ってきた匂いで、誰が近づいているのかルイーザにはすぐにわかった。今日も、王太子であるヴィクトールが、婚約者候補が犬を受け入れるかどうかのテストのために来たのだろう。ヴィクトールの気配と一緒に、女性ものの香水の匂いも微かに風に乗っていた。
ルイーザは、気に入らない令嬢であれば引き合わされた時にちょっと意地悪でもしてやろうかと考えていたけれど、そんなことをする以前に令嬢たちは皆大型犬を受け入れなかった。
家にこもることが多い貴族女性に、触れたこともないような大きな犬を撫でろと言われても無理な話である。彼女たちにとってペットといえば、小鳥や兎、せいぜい大きくても女性の手で抱えられるサイズの小型犬か血統の良い猫くらいだろう。ルイーザだって、こんなことにならずに大型犬に引き合わされていたら怯え逃げていたかもしれない。
番犬用の休憩スペースについたヴィクトールが連れていた女性は、婚約者候補たちの中で最もルイーザが忌避したい女性だった。
(……メリナ・ノイマン伯爵令嬢)
他者を蹴落としてでも目的に向かういっそ清々しいほどの狡猾さは、次期王妃の座を勝ち取るに相応しい気性かもしれない。
しかし、煮え湯を飲まされたことはどうにも忘れられない。自分の何が気に入らないのかわからないけれど、社交の場ではやたらと目の敵にされてきたのだ。
先ほどまで休憩所にいたマリーは、足音が聞こえた時点でどこかへ去っていった。今ここにいるのは、リーダー格の大きな黒毛の雄犬と、ルイーザだけだった。
令嬢たちと会わせる際は、なるべく穏やかな犬を選んでいるらしいヴィクトールは、二匹を見てルイーザのもとへ歩いてきた。もう一匹の雄犬は性格は穏やかなのだが外見が少々威圧的だと判断したのだろう。
令嬢と共にいる時の彼は一人で犬を構いに来る時と違い、やはり夜会で見るような王子然とした笑顔だ。
「やあショコラ。今日は友人を紹介させてくれ。メリナ嬢だよ」
ヴィクトールの言葉はいつもと似たような言葉だけれど、令嬢の様子はいつもと違う。ルイーザや他の犬を見ると、悲鳴を上げたり怯えて逃げたりする人ばかりだったのだけれど、メリナは平然と微笑んでいた。
ルイーザは、以前父がメリナ嬢は養子だと言っていたのを思い出す。いくつの頃に引き取られたのかは知らないが、庶民の出であれば今までの深窓の令嬢とは違い、大きな動物と触れ合う機会もあったのかもしれない。
「まあ、可愛らしいですわ。大きな体に豊かな毛並み、とっても素敵」
屈託ない笑顔でメリナが言う。「そうだろう」とヴィクトールは満足そうな表情で頷いた。
しかし、ルイーザが真っ先に感じたのは、強烈な違和感だった。
犬になってから、人間とは比べ物にならないほど相手の感情に鋭くなった。
例えば、犬が苦手な使用人が裏庭を通る時。平然と歩いているように見えて、緊張や不安、恐怖が伝わってくるのだ。
だから、犬たちもそういった使用人が通る時はなるべく彼らから離れる。相手を思いやって……というわけではなく、負の感情が伝染し犬側も穏やかではいられないからだ。緊張している相手にはこちらも構えてしまうし、嫌悪してくる相手にはいつ攻撃されるかわからないと警戒を強めてしまう。
その動物的な感覚でいくと、メリナの瞳に浮かぶ感情は、決して好意的なものではない。
侮蔑、嘲り、僅かな憐憫。楽し気に上がった口角とは裏腹に、冷たい感情を称えた瞳にぞくりと寒気が走る。ルイーザは、座った体勢のまま動けなくなった。
(……何? そんなに犬が嫌いなの?)
「この子は、とても人懐っこくていい子なんだ」
自分のお気に入りを褒められて気を良くしたヴィクトールは、メリナの感情に気づかずにどこか誇らしげな笑顔でルイーザを紹介する。メリナは、頬に手を当てて感嘆の声を漏らしてから言葉を続けた。
「まぁ……わたくしが撫でても大丈夫かしら」
「きっと大丈夫だよ」
嫌だ、と思ったけれどここで噛みつく訳にはいかないので、ルイーザはそっと顔を背けるに留めた。
王宮の番犬が罪のない人──しかも貴族に危害を与えたとなると、大ごとになってしまうだろう。ルイーザが危険な犬として処分されてしまうのは勿論のこと、他の番犬たちもまとめて〝危険な生き物〟として処分されてしまう可能性すらある。
そして、ヴィクトールもここの番犬であれば他人に危害を与えないと信頼して令嬢を連れてきているのだ。何故か、その信頼を裏切るようなことはしたくないという気持ちが強かった。
少々嫌そうなルイーザを気にすることもなく、メリナはルイーザの目の前に屈んで首の横を撫でる。手つきは乱暴なものではないが、ちらりと彼女を見るとやはりその目は冷え切っていた。
(そんなに嫌いな犬を撫でるとは、見事な信念ね)
他の令嬢は逃げ出したというのに。
この様子では、婚約者はメリナに決まりだろうか。自分が選ばれなかったとしても、できればもっと好感が持てて尊敬ができる令嬢を選んでほしかったとルイーザは内心嘆息する。
何気なく再度メリナに目を向けると、彼女の唇が弧を描いたと思ったら僅かに動いた。
『み、じ、め、ね』
その唇の動きを理解した瞬間、ルイーザの体中の毛がぶわりと逆立つ。
(どういう、こと……?)
ばくばくと、痛いくらいに心臓が脈を打った。
惨めね、と確かに彼女の唇は形を作った。
もしかしたら他の言葉を意味するものかもしれないが、間違いなくただの犬に対しての態度ではない。
理解が追い付かず、固まるルイーザを見て、メリナはくすりと笑ったと思ったら立ち上がってヴィクトールに向き合った。
「この子、大人しくてすごく可愛らしいですわ。ヴィクトール殿下はいつもここの犬たちを愛でていらっしゃるのですか?」
「時々、暇ができた時にね。動物は温かくて癒されるから」
「そうですわね。私、結婚したら犬が飼いたいと思っておりましたの。こういう大人しくて賢そうな子を飼えたら、きっと生活が豊かになります」
ヴィクトールとメリナ嬢は、いくつか会話をした後に休憩所を後にした。
動くことができずに彼らの姿を見送ってから、ルイーザは自分の体が尋常でなく震えていることに気が付いた。
(メリナ嬢は知っている?)
(でも、ノイマン家はそこまで裕福ではない──遠い異国から薬を仕入れられるほどの財力はない筈よ)
(では、何故?)
──みじめね。
彼女の赤い唇の動きを何度も脳が再生する。思考がまとまらず、手足の先が冷えてきた。この体になってから、ほとんど寒さなんて感じなかったというのに。
(メリナ嬢が犯人なの? それとも、私をこの姿にした誰かを知っている?)
『そこには必ず悪意がある』
『最悪の場合、殺されるかもしれない』
以前、ノアに言われた言葉が同時に脳内を駆け巡る。
(どうしよう、どうしたらいいの? ……たすけて、お父さま、ノア、でん──)
「ショコラ!」
思考に埋もれたまま、どれだけの時間が経過したのかわからないが、ハッとした時にヴィクトールがすぐそばまで戻っていた。現実に引き戻されたルイーザは、ある事実に愕然とする。
(私、今誰を呼ぼうとした……?)
そんな事を考えるよりも早く、ヴィクトールがルイーザの前に片膝をついてゆっくりと背を撫でた。
「ショコラ、ごめんよ……。慣れぬ人に触れさせて嫌な思いをさせてしまったね」
混乱して取り乱していた気持ちが徐々に落ち着き、ひと撫でされる度に震えが収まってゆくのがわかる。
与えられる優しい手のひらの動きに、安堵したルイーザは姿勢を低くしたヴィクトールの肩に顎を乗せて息をついた。
いつもは無遠慮にぎゅうぎゅうと触れるくせに、こんな時に限って気遣うようにそっと優しく抱きしめ背を撫でるものだから、更に緊張が解れてゆく。
そんな安心してしまう心と裏腹に、人間としてのルイーザの心には戦慄が走っていた。
認めたくない、認めたくはないのだけれど。
(……もしかして私、このポンコツ殿下に相当懐いてしまっているんじゃ……?)
ルイーザの犬としての部分は、ヴィクトールにすっかり餌付けされてしまっていたらしい。




