ある側近の苦労
「本日の午後、王妃陛下からお茶の誘いが入りました」
「えぇ……それ、断れないかなあ」
主であるヴィクトールが、羽ペンをくるくると回しながら情けない表情をするのを見て、レーヴェはこっそりと溜息をつく。
王妃の話の内容は、多分婚約者のことだろう。今シーズンに入ってからというもの、まだ婚約者は決まらないのか、と定期的に急かされているのだ。
「無理でしょうな」
「何も進展はない、と母上に言うのが怖い……」
ヴィクトールはこれから起こるであろう母との問答を想像して、項垂れるように頭を抱えた。決して、両親と不仲なわけでも嫌いなわけでもない。それなりに愛情を注がれているという自覚はあるし、国政に携わる国の代表としての姿は尊敬だってしている。
しかし、苦手であるものは仕方がない。ヴィクトールの母は非常に気が強く、公の場では国王である父を立てているものの、家庭内では父も母に逆らえないほどだ。
そういうこともあって、ヴィクトールは気が強い女性が少々苦手だった。
さらには時々母に甘えようとしてあしらわれるという臣下に到底見せられない父の姿を目にして以来、ああなるまいと強く誓ったほどだ。それでも二人が愛し合っているのはわかるのだけれど。
「早くお決めになれば良い話でしょうに」
レーヴェは溜息をつく。
温厚で可もなく不可もない王太子として通っている彼の主は、見ての通り少々情けないところがある。
自分がまだ少年騎士だった頃に当時八歳の王太子殿下に仕え始めて、十五年になる。これだけ長く傍にいれば、良いところも多く知る分欠点も含めて受け入れてしまえるのだけれど、国の未来がかかった今回ばかりは甘いことも言っていられない。
「そうは言ってもね、中々決め手に欠けるんだ。選り好みをしているわけではないんだけれど……」
端整な顔立ちに憂いを乗せて呟くヴィクトールを、レーヴェは目を眇めて見つめる。
『優しくて穏やかで、犬が好き』
一見普通の条件に見えるが、誇り高い貴族令嬢として育った婚約者候補たちに『優しくて穏やか』とつける時点でかなり絞られてしまう。
そのうえ、『犬好き』が更に難しくしている。
彼の言っている犬とは、一般的に愛玩動物とされる小型犬ではなく、牧羊や軍事、狩猟などの目的で飼育される大型犬のことだ。深窓のご令嬢が、大型犬を愛でられるとは思えない。現に、既に何人かの令嬢を犬舎に連れていっては逃げられているのだ。
「今は色々と動きもありそうですから、王妃陛下も殿下が誰を選ぶのか気になっているのでしょう」
「……アーデルベルトの件か。生まれる家が逆だったら良かったのにな」
──生まれる家が逆だったら。
幼い頃は幾度か心ない貴族の間で囁かれていたその言葉が本人から出てきたことに、思わず息を呑む。
ヴィクトールは、二つ上の従兄であるアーデルベルトと幼少の頃から比べられて育ってきた。当時のアーデルベルト様はもっとおできになりました、と家庭教師によく言われていたのを聞いたことがある。
彼らからしてみれば、ヴィクトールの闘争心に火をつけたかったのかもしれないが、ヴィクトールにとっては逆効果だった。繰り返しアーデルベルトと比べられることで、徐々に自信をなくし、学ぶことへの意欲も失っていったのだ。そして益々、アーデルベルトとヴィクトールを比べる者が増えてゆく。
レーヴェや他の側近たちから見て、ヴィクトールは決して劣っているわけではない。むしろ、意欲がないまま『可もなく不可もない』評価を得ることができているのは、ヴィクトールの実力を表しているのではないだろうか。
それに、幼い頃だって劣等生だったわけではない。もし、幼い頃に心折れずに本気で学んでいれば、優秀な王太子となっていた……と、傍に仕える者たちは思っている。
「誰が何を言おうと、王位継承権第一位は貴方です」
「でも、アーデルベルトの縁談が纏まれば貴族たちの印象も変わってくる」
最近宮廷を騒がせている、隣国の王女の件が頭を過る。
各家の当主となる年代は保守的な貴族が多いため、隣国の王女が王妃になることに眉を顰める者も多いとは思うが、次世代の者たち──次期当主となりうる若手の認識は少々変わってくる。
むしろ、今ですら新しい風を求める声も少なからずある位だ。
かといって、苛烈な性格の王妃を母に持つお陰で気の強そうな女性を避ける傾向にあるこの王太子が、対抗して気位の高いどこかの王女と縁を結ぶとは考え難い。淑女として育てられた貴族令嬢のことすら、少々怖がっている節があるのだ──元々、そこまで王位に執着していないのもあるけれど。
「ああ、すべて投げ出して犬たちに会いに行きたい……」
ヴィクトールは、書類が並べられた執務机に突っ伏して弱音を吐く。
彼は幼い頃から動物が好きだった。猫や兎などの小さい動物も好きらしいが、何より思い切り抱き付けるような大きな犬を好んでいる。愛想はないけれど無暗に人間に危害を加えない番犬たちは、彼にとって思う存分愛でられる対象になっていた。
「動物は余計なことを言わないから」と呟いた少年時代のヴィクトールの悲し気な笑みを、レーヴェは忘れられずにいる。小さい子供に、そんなことを思わせるほどのことを周りの人間たちは囁いたのかと憤ったものだ。
国王夫妻も、あまりにも無礼な貴族のことは咎めていたようだけれど、最終的にはヴィクトール自身が乗り越えるべきだと考えているようだった。
表で良い顔をして裏で残酷な言葉を平気で述べる貴族の相手に疲れた王太子にとって、飼い主と認識している飼育員以外に無駄に尻尾を振らないところも、番犬たちを気に入っている理由の一つらしい。──もっとも、今一番可愛がっているのは物につられて尻尾をぶんぶんと振る犬のようだけれど。
己が利のために表向き媚を売るのは人間だけで十分だと言っていた主に対して、歪んでいる……という感想は不敬に値するので、レーヴェは心の奥に押し込めた。
「飼育員を困らせますので、どうか程々になさってください。あとは、休憩を取られるのは必要な執務をこなしてからでないと、側近たちが困りますのでそちらについてもお含みおきください」
レーヴェの言葉を聞いたヴィクトールはむ、と子供の頃のように頬を膨らます。
成人済の男がやる仕草ではないが、幼い頃から知っている人間だけになると、つい昔に戻ることがあるらしい。
本来であれば執務を補佐する文官たちが直接進言すべきことなのだが、王太子に遠慮して言えない者が多いせいか、幼い頃から傍に仕え十五年来の付き合いになるレーヴェが彼らに泣きつかれるのだ。本来であれば主を諫めるのは騎士の仕事ではないというのに。
ヴィクトールが渋々と顔を上げて執務に取り掛かったところで、執務室に扉を叩く軽い音が響いた。扉から顔を覗かせたのは、ヴィクトールの幼馴染でもあり側に仕える文官でもあるファルクだった。手には何かを包んだ白いナプキンを持っている。
「殿下、頼まれたものを持ってきました」
「ありがとう、ファルク」
「……頼まれていたもの、とは?」
ヴィクトールの声がやたら明るくなったことに嫌な予感がしたレーヴェは、険を含んだ声で問いかけた。言葉を発してからレーヴェの存在に気付いたファルクは、やべっという顔をしたが一瞬で引っ込めて笑って誤魔化した。
「……ほら、最近令嬢を番犬たちの元へ連れていっては嫌な思いをさせているだろう? お詫びを用意しないと、と……」
若干気まずげにヴィクトールが答える。
状況から察するに「嫌な思いをさせている」とは令嬢たちに対してでは、多分ない。このどこかずれた王太子でも、まさか貴族の令嬢にナプキンで簡単に包んだだけの〝何か〟を贈るとは思えない。
今まで大きな犬と引き合わせられた令嬢が皆、思わず叫んだり怯えて忙しなく立ち去ったりという行動を取っているため、度々不快な思いをさせてしまっている犬へのお詫び、ということなのだろう。
以上のことから考えると、ナプキンに包まれたそれは調理場からもらってきた食物だと思われる。
「犬にやたらおやつを与えると、飼育員が困ります」
「私が会いに行くことと〝嫌な思い〟が紐づけられては困るし……」
どの犬に何をどれだけあげたかは必ず伝えられているため餌の量は調整されているらしいが、番犬の餌はそもそも栄養バランスを考えられているはずだ。こういったことが度重なると栄養も偏るだろう。
特に、殿下気に入りのこげ茶の犬は他の犬に比べて与えられるおやつへの食いつきがいい。他の犬は差し出されたものをただ食べる程度なのだが、こげ茶の犬は食べ終わると尻尾を振って次をねだるのだ。
そのうちあの犬だけ太りだすのではないかとレーヴェはこっそり思っている。
「まあまあレーヴェ。殿下の妃が決まるまでは仕方がないさ」
「お前もお前だ! 俺は飼育員に毎回困った顔をされて気まずい思いをしているんだぞ!」
「えー僕は別に気まずくないけど?」
肩をすくめるファルクに苦々しい気持ちがこみ上げる。
こいつはこういう奴だった。
ファルクはレーヴェと同じく殿下を諫めることができるほど親しいのだけれど、誰かに訴えられても大抵笑って流す。他の側近や飼育員たちもファルクに言っても重要性をわかってもらえず、ヴィクトール本人に伝えてもらえないことがわかっているので、結局レーヴェのみが割を食うことになっているのだ。
レーヴェは、片手で瞼を覆い呆れた様子を隠すことなく盛大に息を吐き出したのだが、休憩時間に思いを馳せる主と飄々としている同僚には伝わることがなかった。




