第十一章、十二章、十三章(東大七博士・戸水寛人のずさんな戦争奨励論)
立花隆『天皇と東大』。第十一章「日露開戦を煽った七博士」、第十二章「戸水寛人教授の『日露戦争継続論』」、第十三章「戸水事件と美濃部達吉」からのまとめ。
日露戦争開戦時、戸水寛人東大教授を筆頭に世論を煽りまくった七博士らによる「日露開戦奨励論」の是非について。
伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と苦言を呈したが、最大の問題は、彼らの戦争奨励論が大学教授という立場にありながら、現実的な数字をまったく無視した非常にずさんで扇情的なものだったという点。
戸水教授は、日清戦争のときに2千万円の金がかかって、今5千万円もの金があるのだから、「そんなにたくさん金があるのに貧乏で戦争が出来ぬと云ふことはない戦争もかなり長引くに相違ないけれどもソレだけあったらば沢山だらうと思ふ。(略)今日本には金が無いから戦争をすれば困難を生ずるなどゝ云ふ論をするのは株屋と結託して居る奴等でありませう、そんな奴はどこ迄もいぢめてやらなければと思ふです」と戦争を奨励したが、実際には約20億円もの戦費がかかった。日本の当時のGNPの2.5倍、国家予算の60年分に相当する額で、そのうち約13億円は外債に頼った。
戸水博士らは、講和条約交渉期間中も世論を煽って戦争継続を主張し続けたため、政府から休職処分などの措置を受けるが、しかしこれが大学の自治に対する国家による不当な介入だとして、最終的に戸水への処分が撤回されるなど、大学側の完全勝利に終わったという一連の騒動。
● 「戸水事件」の発生
「日露戦争」(1904年~1905年)開戦直前の明治36年(1903年)6月10日、東京帝国大学教授の戸水寛人以下、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午ら7名は、当時の内閣総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎らに対し、連名で建白書を提出。
その内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾し「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」と訴え、ロシアの満州からの完全撤退を唱えて、政府に対露武力強硬路線の選択を迫るというものだった。
七博士の建白書はそのすぐ翌日の6月11日には東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞に全文が掲載されたが、その反響は大きく、
「市井乱を好むの徒、皆諸氏説に雷同して、その言動を喜ぶもののごとし」(6月21日付「東京日日新聞」)
だったという。
戸水博士らの強硬な主張は、日露戦争終結に向けた「ポーツマス条約」(05年8月10日~、同9月5日調印)開催期間中にまで及んだため、彼らの行動に手を焼いた政府により、戸水が明治38年(1905年)8月に、文部大臣・久保田譲から文官分限令の適用で休職処分とされたのを皮切りとして、続けて東京帝国大学総長・山川健次郎の更迭、さらにそれに憤った東京帝国大学全教授、助教授190余名の辞職を含みとする抗議書提出、そして最終的にはそれを受けての文部大臣の辞職に至るという「戸水事件」へと発展していった。
● 「日露戦争」へと至る過程
「日清戦争」(明治27~28、1894~95)の勝利によって、日本は清国から遼東半島(旅順、大連)を獲得したものの、ロシア・フランス・ドイツからの三国干渉を受け、それを返還させられる。
ところがその直後、列強は日本に外交干渉して清国へ奪った領土の返還をさせながら、彼らは日本軍に敗れた清国の弱体化をみてとると、彼ら自身が帝国主義国の本性を剥き出しに、ハゲタカのように清国に襲いかかって、利権の分割をはじめた。
列強は日本による清国進出を退けたあと、一斉に、租借地、開港場、鉄道敷設権、鉱山採掘権などの獲得といった形を通して、中国各地で清国から利権をもぎ取り、自己の勢力圏を拡大させていった。
イギリスは、上海、南京から長江沿岸一帯を勢力化におさめ、フランスは、インドシナから雲南省、広西省などに勢力をのばし、ドイツは膠州湾かんら山東省にそれぞれ勢力をのばしていったが、なかでもロシアはなんと、三国干渉で日本に返還させた旅順と大連の地を清国から租借して奪い取った上、シベリア鉄道に連結する形で東清鉄道、南満州鉄道を作り、満州全体を自己の勢力圏へと取り込んでいったしまった。
だけでなく、ロシアは当時、日本が自国の勢力圏とみなしていた朝鮮にまで勢力を伸ばそうとして、日本の利害とまっこうからぶつかるようになった。
※ 朝鮮をめぐる日本と清とロシアの関係史
朝鮮王朝では1860年代のころ、大院君が外戚政権(大院君の息子・高宗国王の后である閔妃とその一族)や「両班」と呼ばれる文武官僚の地位を世襲した門閥貴族の勢力を抑えて権力を握り、儒教の大義名分論に基づいた、強硬な排外、攘夷策を行っていた。
しかし、その強引な政治に反対する勢力も強く、高宗が成人した1873年、高宗の后である閔妃とその一族によって大院君は引退に追い込まれる。
もともと李朝では、王族同士による生き残りをかけた派閥争いが激しく、大院君にしても閔妃一族にしても、彼らが対外勢力と手を結んだり開化政策を行うのは、自らの力を強め、敵を排除するために行われるものだった。近代化もそこまでで、そのため他者との差別化によって王族の権威を強める儒教思想(特に朱子学)を根幹した「小中華」主義は厳格に守ろうとしていく。
明治維新後、近代化して開国した日本政府は、同じように隣国の朝鮮王朝(李氏)にも開国を求めたが、閔妃政権は大院君のころと変らず鎖国政策を守って、日本からの要求を拒絶した。
すると日本では明治6年(1873年)ごろから「征韓論」が巻き起こり、さらにその後の明治8年(1875年)になると、日本は軍艦・雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪するという「江華島事件」を引き起こす。
事件後、日本側は朝鮮側の砲撃の責任を問い、交渉のための開国を迫り、翌明治9年(1876年)1876年に「日朝修好条規」(江華島条約)という不平等条約を結ばせると、強引に武力で朝鮮を開国させた。
開国後、朝鮮国内では日本にならって近代化を進めようとする金玉均・朴泳孝ら「独立党」と呼ばれる官僚派グループと、守旧派として清と結ぶ閔妃一族ら「事大党」との対立が深まる。
しかし開国後、閔妃らは敵対する大院君のグループに対抗すべく、積極的な開化政策に乗り出しはじめ、日本から軍事顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手するようになる。ところが、その一方で旧式軍隊のほうは放置され、賃金の未払いなどが発生したため、開化政策に不満を抱いた朝鮮の旧式軍隊が守旧派・大院君の勢力と合わさって明治15年(1882年)、閔妃暗殺を目論み反乱を起した。(「壬午事変」)
反乱軍は閔氏政府の要人を襲って殺害しただけでなく、日本人軍事教官を殺害し、日本公使館の焼き打ちなども行った。
事変後、大院君が復帰して反乱を収束させ、再び鎖国時代へ逆行する政策を行おうとするが、清王朝と日本政府それぞれの軍事介入を受けて失脚。
朝鮮国内では兵員の数で圧倒する清朝側が事変処理をリードし、大院君を拉致して天津に軟禁すると共に、保護していた閔妃を戻して再び権力の座につけた。
日本は閔妃側からの謝罪を受けて、この軍乱の後始末として明治15年(1882年)年8月に「済物浦条約」を締結し、朝鮮側から事変についての謝罪と責任者の処罰に加え、賠償金の拠出、それと公使館を守るための駐兵権の承認や事変再発の防止についての確認がなされ、さらに日本は新たな開港場を獲得するなどして権益を拡大させた。
一方、清国も同年10月に「清韓商民水陸貿易章程」を取り交わし、李朝を事実上の属国として、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化させていった。清朝では列強からの侵略を受け、朝鮮を直接支配力のおよぶ属領として取り込む必要性を強く感じるようになっていた。
「壬午事変」以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、閔氏政権を傀儡化したが、清朝に従い再び事大主義へ逆行していこうとする閔氏政権に反発した開化派「独立党」の金玉均・朴泳孝らが、日本公使の竹添進一郎と結んでクーデターを計画し、そして清が「清仏戦争」をしている隙を狙って明治17年(1884年)12月、日本軍の協力を得て王宮を占領し、高宗を擁立して閔氏一族の要人を殺害して一時的に実権を握ることに成功する。(「甲申事変」)
金玉均・朴泳孝たちは日本の福沢諭吉やその他政府要人と深く交わり、彼らは日本に倣い朝鮮を清王朝の属国から独立した皇帝による帝国とし、儒教イデオロギーによる階級制度を撤廃して四民平等の実現をめざし、また内閣を組織して内侍(女官や宦官)の制を廃し、税制改革を行うなどといった数々の近代化政策を打ち出したが、清国軍の反撃を受けて、わずか3日で実権を失う結果に終わった。金玉均・朴泳孝らは日本に亡命。
甲申事変発生後、金玉均のクーデターを知った清軍は国王の救出を廷臣から要請されたとして袁世凱、呉兆有らが1500名の兵を動かし、朝鮮側反乱軍400名と日本軍150名を撃退。高宗国王は清軍に保護され、閔氏一族が再び実権を取り戻す。
事変終結後、閔妃は反乱を起した開化派要人を処断するとともに、日本とは明治18年(1885年)1月に「漢城条約」を結んで謝罪と賠償を行う。
日本の言い分としては、日本は高宗国王からの要請で王宮の護衛にあたっていたところを一方的に清国軍に攻められたという主張を通し、日本国内でも公使や日本軍がクーデターに関与した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道された。
一方で日本は清朝とのほうも、伊藤博文と李鴻章が交渉して明治18年(1885年)4月に「天津条約」を取り交わす。
そこでは、朝鮮半島から清日両国の軍隊を撤退させることと、軍事顧問団を送ることも禁止とし、もし今後、朝鮮側からの要請で兵を朝鮮に差し向けることがあった場合でも、事前にそのことを相手に通告するようにしなければならないということが決められた。
日本としては、清の干渉を排除してなんとか朝鮮を独立国状態にさせたいというのが狙いだった。
・明治6年(1873年) - 高宗の后である閔妃とその一族によって大院君が引退に追い込まれる。
・明治8年(1875年)9月 - 「江華島事件」が発生。日本の軍艦・雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由に、日本軍が軍事的報復に出る。
・明治9年(1876年)2月 - 「日朝修好条規」(江華島条約)が締結され、朝鮮が武力で強引に開国させられる。
・明治15年(1882年)7月 - 「壬午事変」。日本軍の指導を受けて近代式軍制改革を進める閔妃政権に恨みを抱いた旧式軍隊の兵士たちが守旧派・大院君と組んで反乱を起すが、清日両軍の介入によって失敗。
・明治15年(1882年)8月 - 「済物浦条約」の締結。日本が朝鮮から謝罪と賠償金を受け、公使館駐兵権や新たな開港場を獲得するなどして権益を拡大。
・明治15年(1882年)10月 - 「清韓商民水陸貿易章程」。清朝が朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化させる。
・明治16年(1883年)8月 - 「清仏戦争」の勃発。 ベトナムは朝鮮と同様、清朝を宗主国として朝貢する藩属国だったが、そのベトナムの植民地化を目指していたフランスと清との間に起こった戦い。
・明治17年(1884年)12月 - 「甲申事変」の発生。金玉均ら開化派の独立党が日本軍と手を組み閔氏一族を排除して実権を握るが、わずか3日で清朝からの反撃を受けて失脚。
・明治18年(1885年)1月 - 「漢城条約」(日朝間)締結。
・明治18年(1885年)4月 - 「天津条約」(日清間)締結。
・明治18年(1885年)6月 - 「天津条約」 (清仏間)締結。清仏戦争終結後に結ばれた条約。戦争で清軍はフランス軍に善戦していたが、朝鮮で「甲申事変」が発生したため、李鴻章は戦争の終結を早め、清朝のベトナムに対する宗主権を放棄してフランスによるベトナムの保護国化を承認した。清ではベトナムを諦めても朝鮮のほうは確実に支配下にとどめておきたかった。
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まだぜんぜん途中です。手無ししながら書き足していきます。