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立花隆『天皇と東大』  作者: 練り消し
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第九章、第十章(神道の儒教化と皇国史観の形成)

 立花隆『天皇と東大』、第九章「東大国史科の『児島高徳抹殺論』」および第十章「天皇『神格化』への道」からのまとめ。

 日本初の史学者となる重野安繹しげのやすつぐと久米邦武の事績と、その後の日本の「名教」(儒教の教え)に基いた尊王思想・皇国史観の形成について。

● 日本初の史学者・重野安繹しげのやすつぐと久米邦武


 明治維新後、日本の正史を編纂することを目的として、太政官正院に「修史局」が設立される。修史局はやがて「修史館」となり、その編修官として、旧佐賀藩士の久米邦武が任命される。

 久米は明治4年(1871)から行われた岩倉具視ら維新の指導者たちを連れた欧州大視察旅行に外務省の記録係と随員し、その後、『米欧回覧実記』という一般向けの報告書を執筆し、その手腕が高く評価されていた人物だった。


 当時、日本の国家としての正史は「六国史」(奈良・平安時代に編纂された『日本書記』から『日本三代実録』にいたる六つの官選の歴史書)以後絶えており、そこから現在までの新たな歴史のまとを編纂することが、久米に与えられた役目だった。

 「六国史」以外では、江戸時代に水戸藩によって編纂された「大日本史」が政府公認の歴史書としてあったが、それも南北朝時代の終わりまでしか書かれていなかった。


 久米邦武は、修史局以来、既にこの仕事を中心的に推進していた旧薩摩藩士の重野安繹やすつぐらと一緒に、まずはもっぱら、日本全国を回って史料の収集につとめた。

 しかし、そのようにして集めた大量の史料を編纂して正史を編むにはさらに膨大な年月が必要だということがあきらかとなって、政府はこれを政府直轄の事業として継続していくことを断念。

 だが、正史編纂はやめても、史料編纂は意義があると考え、明治21年に、集めた史料をそのまま帝国大学文科大学へと移管し、これが現在まで続く「東京大学史料編纂所」のはじまりとなった。

また、重野・久米らは文科大学の教授に選任され、彼らを中心に翌年、国史科が創設されるに至った。




● 間違いだらけが判明した頼山陽の『日本外史』と水戸藩の『大日本史』


 重野安繹は、中国史の考証学と西洋史の実証主義の強く受け、史料批判と考証に長じていて、久米邦武も史料批判を重んじる実証主義者だった。

 彼ら以前の日本史というと、水戸藩の『大日本史』と頼山陽の『日本外史』が基礎文献として代表的な書だったが、しかしこれらは、いいかげんな史料を誤って引用した間違いだらけの書物(『日本外史』は全般的に、『大日本史』は特に中世について)だということがわかった。


 例えば『日本外史』における「織田信長が武田勝頼親子の首実験をしたとき」のエピソードは、明らかに『武徳大成記』という史料を孫引きして書かれていたが、この『武徳大成記』とは徳川家御用儒者の林家の林信篤が編纂したもので、徳川家の祖先がいかに徳が高い人物であったかをほめたたえることを目的として、徳川家康と対照させるためにしばしば信長を無道残忍の人として描くなど、史実とちがうことが平気で書かれていることでよく知られた書物だった。


 また『大日本史』のほうは、特に中世の記述において誤りが多かったが、それは『太平記』を引用元にしていたからだった。

 久米邦武に言わせれば、

「太平記は下賎の人の書綴りたる話し本にて、今にていはば、軍談講釈師が正史実録と唱えて、続き話しを演ると同性質のものなり。殊に政事または朝廷公方向きの事は、いわゆる下人ゲスの天下扱いと謂うべき浅はかなる考えを述立たるもの」(「太平記は史学に益なし」)

だという。

 『大日本史』は『太平記』だけでなく多くの物語文学を史料としてしまっているが、「物語の書は想像の説多く、虚誕きょたん半に過ぐ」ものだという認識が必要だという。

 『平家物語』なども、

「平家物語の説くところは、ただこれ京人の想像談にて、児女に聴かしむるにすぎず。(略)その書を講じて事実を討究すれば、十の七八は虚構に属す」ものでしかないとういう。

 

 立花隆氏は、日本の歴史学の最大の欠点は、このように歴史と物語がわかちがたくからみ合っているところにあると指摘する。




● 儒教(朱子学)の勧善懲悪、大義名分論で書かれた『大日本史』


 『大日本史』は、作り話の多い『太平記』を一級史料として扱い、南北朝時代の歴史をもっぱらこれに頼って書いてしまったため、誤りの多い書となってしまった。

 では水戸藩の『大日本史』では、なぜそれほど『太平記』からの引用が好まれたのか?それは、重野安繹によれば、『大日本史』が南朝正統論に立ち、その立場に立つ史料をもっぱら頼りにしようとしたからだという。

 水戸藩のこうした姿勢は、その淵源をたどれば、孔子の『春秋』に行きつくという。

『春秋』はもともと中国春秋時代の魯の国(現在の山東省付近)の紀元前722年から481年にいたる242年間の正史だったが、儒教の政事と歴史における道徳学の教科書のようなもの(経)になった。


 そもそもなぜ孔子が『春秋』を書いたかというと、世に道徳が廃れ、邪説暴行が幅をきかせている現状を歎いてのことだった。

 「世衰え道微にして、邪説暴行またおこる。臣にしてその君を弑する者これあり。子にしてその父を弑する者これあり。孔子懼れて春秋を作る」(諸橋轍次『中国古典明言辞典』)

と孟子は書いていて、孔子自身も、

「わたしは世の乱心賊子に筆誅を加えようとして『春秋』を書いた」(諸橋轍次『中国古典明言辞典』)

と語っている。


 『春秋』とはつまり「勧善懲悪」奨励の書で、歴史的事実をそのまま記述したものではなく、「春秋の筆法をもってすれば」という表現があるが、それは、自己の価値観に基く主張を貫くため、事実関係が少しくらいね曲がっていようと、強引なこじつけ論理を展開していくというもの。


 江戸時代の思想を支配した「朱子学」(儒教)の歴史観は、この『春秋』の歴史観の延長上にあり、朱子学の強調する大義名分を乱す者は、『春秋』がいう乱臣賊子とみなされ、勧善懲悪の対象となった。

 『大日本史』、『太平記』をはじめとする日本の往時の史書はすべて、勧善懲悪のイデオロギーによって貫かれており、そのイデオロギーの背景が通っていれば、少々の史的事実関係のねじ曲げなど、平気で通っていたのだった。


 「徳川氏時代は朱子学を主尚せし故に、その比著述の歴史は、大日本史を始め、皆綱目を遺意と信じ、乱心賊子威しに偏執し、勧懲を歴史の主要となしたれば、謬見甚だ多し」(諸橋轍次『中国古典明言辞典』)


 しかし久米邦武は、事実から離れ、人がその好き嫌い、愛憎によって善悪の判断が左右されることの危険性を実証主義者として訴えた。


「世に善悪というは、たいてい自己の好き嫌いを標準にしたること多し、好き嫌いは愛憎の本なり。愛憎の熱が脳につけば、善も悪に見え、黒も白に見ゆるものなり、歴史の事実は複雑を極めたるにその善悪の容易に判断さるるならば学問に骨は折らぬなり」(諸橋轍次『中国古典明言辞典』)




● 『太平記』『大日本史』によって確立された日本の尊皇イデオロギー


 重野安繹は、『太平記』や『大日本史』を通じて、明治維新の原動力となった「尊皇思想」の根幹が形づくられていったと指摘する。


「日本史の南北朝を書するや、皇統の正閏を弁ずるを主とす。世人因って南朝の正統たるを知り、楠新諸氏(楠木正成、新田義貞のこと)の身家を擲って勤王せしを賞揚し、是よりして尊王の論起こり、終に今日の王政復古に至りしは、偏に日本史の大功にして、その引書なる太平記も与りて力ありと謂うべし」(重野安繹「史の話」)


 『太平記』は、朱子学の勧善懲悪、大義名分のイデオロギーのものさしで「皇統の正閏」を弁じ、「南朝の正統たる」を教え、「身家を擲って勤王する」ことの大事さを賞揚し、「尊王思想」を世に普及させるために書かれたもので、水戸藩の『大日本史』もまた、書かれたのは同じ目的のためだった。


 久米邦武によれば『太平記』は、

「虚構捏造もしくは無用の冗談」がはなはだ多く、歴史の傍証の一つくらいには使えても、これをもって歴史の主史料とすることなどとてもできないという。

 しかし、『太平記』の著者は決して低レベルの作家ではなく、「其の学問該博にして、文筆雄健」の人物によって書かれたものだという。

 そしてその著作は、「大義名分」を明らかにするということにおいて、これらの類の著作の中で「第一の傑作」と称すべきものになっていると。


 『太平記』に載せられたエピソードは、江戸時代の幕府の将軍や藩を治める大名たちにとってたいへん都合のよい、家臣や領民がお上に従う「忠孝」の重要性を説くもので多く溢れていた。


 例えば、備前の武将で、天皇に対する尊崇の念が篤かった児島高徳と後醍醐天皇との有名なエピソードとか、ところがその児島高徳にしても、『太平記』以外に一切の資料が存在しないという。

 しかしその存在の実在性云々はともかく、当時の『太平記』と『大日本史』では史実と考えられていて、そして児島高徳とは尊王と忠義心の見本のような人物として扱われていた。


 忠臣・楠木正成とその子・正行との「桜井駅の別れ」なども、これは父の楠木正成が子の正行に対し、「一族のもの、一人にても生きのこらん限りは、必ず忠義の旗をあげよ」と伝え、後年、子の正行が父の遺言通りに忠義の兵を挙げたというエピソードだったが、明治時代になって、これがまさに忠義心のお手本のような話として、歴史の教科書だけでなく、宮内省から直々に地方行政長官を通して全国の小学生に配布された修身用の教科書『幼学綱要』(元田永孚著)の著の忠義の項のところにも詳しく掲載されることとなった。

 が、それくらい、小学生に忠義心の何たるかを教える最良の教材として用いられたエピソードだったが、これも年齢的に、他の史料とも合わせて吟味した場合、実証性が非常に怪しいということがわかった。




● 歴史は儒教の教えを捨てよ


 しかし、これら重野・久米らの史実否定には、非常に多くの反論反撥が寄せられることとなった。

彼らは両人の仕事を、

「余り詮索過ぎるときには、忠臣孝子をして地下に泣かしむるに至らん」

「歴史の事実を正してその誤謬を弁するは、忠臣孝子の事蹟を消滅して名教(儒教の教え)を扶け愛国心を厚くする功用を失うに至らん」

ものとして非難した。


 が、久米邦武は、

「古来より、歴史と名教とを合併する者あれども、歴史は名教を棄て研究すべし。もし歴史にしてこれを合併せむるとせば、大に歴史の本体を失す。(略)

たとい忠臣義士というも過ちなきにあらず、乱臣賊子とて善の取るべきあり。

もし名教上よりこれを判定せば、悪人は悪人、善人は善人として、その過ちや又は善なるを棄てざるべからず。(略)

故に史学は名教を放棄するを主義とし、総て公平を以てして、憶見妄想を介すべからず」

といって反論した。


 これは、日本の歴史を長らく害してきた日本の「儒教主義」(春秋の筆法、勧善懲悪主義、大義名分論)への訣別宣言といえるものだった。


 しかしその後、久米邦武の史実批判が、「神道」の分野にまで及ぶに至り、遂に文部省は久米邦武を「非職」(公務員の身分が残すが、その職はいっさい取り上げる)とし、重野安繹のほうは免職としてしまう。

 久米も処分を受けて自ら職を辞し、早稲田大学へと去った。


 重野と久米の二人がいなくなったあと、廃止された史料編纂掛に代わって、純粋に史料のみを扱う史料編纂掛ができたが、そこでは、

「世上の物議を招くがごとき論説考証を公にせぬこと。掛中の材料は一切他に見せぬこと」といった重要な新掛員規約が作られることとなった。

 しかしこれにより、東大の史料編纂所は、外国の大学によくあるような本格的な歴史研究を目的とするインスティテュートとしての歴史研究所ではなく、史料の蒐集・編纂・出版に特化した史料センターのごときものとなっていってしまったのだった。




● 久米邦武による実証「神道」批判


 問題は、久米邦武が『太平記』批判につづけて『史学会雑誌』(二十三号~二十五号・明治24年)に書いた「神道は祭天の古俗の風習」と題する論文をめぐって起きた。

 この論文は、神道の淵源をたどったもので、神道とは宗教ではなく、ただ天を祭り、災を追い払い、福をもたらすべくお祓いをするというだけの古来の習俗であるという主張だった。


 明治新政府では、大政奉還後の明治初年のころに、神道と仏教の分離を目的とした「神仏分離令」(慶応4年、1868年3月13日)および「大教宣布」明治3年、1870年1月3日)をきっかけとして、猛烈な廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれる破壊活動が引き起こされていた。

 

 本来の目的は、仏教排斥を意図したものではなかったが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などといった行動が全国的な運動として展開された。

 この騒動はその後、2、3年後の明治4年(1871年)頃まで続けられることとなった。


 しかし、久米邦武によれば、神道とは習俗であって宗教ではないから、仏教或は他の宗教とならび行われても少しも問題は生じないとした。事実、日本では昔から敬神と崇仏がならび行われてきた。


 日本人はみなそれぞれの流儀で毎朝身を清めて天に祈るということをする。手を洗い口をすすいで、あるいは拍手を打ち、あるいは合掌し、あるいは拝礼し、あるいは経文を唱える。立つもあり、ひざまずくもあり、上下四方を拝するもあり、日の出に向うもり、仏壇に向かうもある。形はさまざまだが、結局やっていることは、


「実は天に祷りて福を求める所にて、往古の祓禊祭天の遺俗なり」


だという。

 その起源を考えてみれば、原始時代、自然の恵みで生き抜き、ときには自然に翻弄されて苦しんできた未開民族たる祖先が、


「必ず蒼々たる天にはこの世を主宰する方のましまして、我々に禍根を降し給ふならんと信じたる観念の中より、神というものを者を想像し出して崇拝をなし、攘災招福を祷り、年々無事に需要の者を報本の祭をなすことを始たるなり」


ものであって、あらゆる宗教は、このようにして神なる概念を考え出し、それをおがむことによってはじまった。そのおがむ対象は、だいたい天だった。天にいる神だった。


「何国にても神というものを推し究むれば天なり。天神なり。日本にてカミという語は、神・上・長・頭・髪に通用す、みな上に戴くものなり。その神を推し定めて、日本にては天御中主あめのみなかぬしという。支那にては皇天・上帝といい、印度にて天堂といい、真如ともいい、欧米にてゴッドという。みな同義なれども、祭天報本の風俗は各異なるのみ」

 

 久米によれば、同じ天をおがみながら、神道が他の宗教と違うものになったのは、他の宗教は、教義体系や教団などを作り、組織化された宗教になったのに対し、神道は教主も救済もなく、教義体系もなく、ただ古来の自然崇拝的な習俗のままにとどまったという点だという。


「祭天の大典は新嘗祭なり。新嘗祭は天照大神を祭るにあらず。天を祭る古典なり」

「新嘗祭は東洋の古俗にて、支那にもあり、韓土もみな然り」

「三種の神器の鏡は大神を祀ると思うも無理ならねど、これも実は天を祭るなり」

「伊勢・三輪両神宮の起りは此の如し。昔天を祭るなり」

「此の三器(三種の神器)は、もと何用になるものや、これまで説く者なし。按ずるに、これは祭天の神座を飾る物なるべし」

「総て上古の神社は、みな此の如き原由にて、尽く祭天の堂に外ならず」

「上古の朝廷の有様は、後の伊勢神宮の如きものなりと想像すべし」

「仏教の入りたる後、仏に偏して神に疎なりと思うは僻める説なり。もしまた神道にのみ僻し、今日まで神道のみにて推し来るならば、日本の不幸は甚しからん。教典さえ備わらぬ神道の古俗に任せたらば、全国今に蒙昧の野民に止まり、台湾の生蕃と一般ならんのみ」

「世には一生神代巻のみを講じて、言甲斐なくも、国体の神道に創りたればとて、いつ迄もその襁褓むつきの裏にありて祭政一致の国に棲息せんと希望する者もあり。この活動世界に、千余百年間長進せざる物は、新陳代謝の機能に催されて、秋の木葉と共に揺落さるべし」


 要するに、神道は、きわめてプリミティブな発展段階にあった原始宗教であり、一つの宗教として自立する以前の宗教的雰囲気を伴う習俗にとどまっていたと。そこに高度に発達した仏教が入ってきたが、神道にはそれに宗教として対抗するだけの内容もなく、そうする意志もなかった。かくして神道は、宗教以前の段階でとどまり、それ以上宗教として発展することをやめてしまったから、かえって、その後も他の宗教と融和・共存しつつ長い生命を保つことになったというのがこの論文の基本的な論旨だった。


 しかし、この論文は、皇室と皇室の祖先を侮辱する不敬不忠の論文だということで、激しい非難を浴び、久米は同僚の重野と共に、東京大学史料編纂所を追われる結果となった。




● 現在の北朝鮮以上に異様な国家だった日本。


 ただ、明治の日本ではこの久米邦武による神道批判のあたりから、国家が学問を支配することがはじまり、日本の歴史学はねじ曲げられ、神話が歴史をおさえこみ、国民は子供のときから神話的国家観を頭に叩きこまれるようになっていった。


 明治時代後半から昭和時代前期(1945年以前)までの日本は、現在の北朝鮮以上の異様な国家だった。

 金正日でさえほとんど神格化されているとはいえ、まだ「将軍さま」「首領さま」であって、神様ではない。誰も彼も神様とは呼ばないし、礼拝もしない。

 しかしかつての日本では、天皇は現人神とされ、神として礼拝されていた。国民は、子供のときから、天皇は神の末裔であると教えこまれ、ことあるごとに儀礼的礼拝が強制されてほとんどの国民はそう信じこんでいたため、大東亜戦争でも、多くの兵士が天皇陛下万歳を叫びながら天皇のために惜しげもなく命を捧げた。

 それはイスラム教徒が、ジハード(聖戦)で、アッラーのために戦って死ねば天国に行けると信じて、平気で命を捨てるのと同じようなものだった。


 昭和15年の『小学国史上巻尋常科用』には、


「神勅 豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく宜爾皇孫就きて治せ。さきくませ。寶祚の降えまさんこと、當に天壤と窮りなかるべし」


と、『日本書記』にある天壌無窮の神勅の一文が頭のページに載せられているが、大日本帝国憲法の第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」の根拠もこれだった。

 日本の明治の天皇制のすべては、この神話の上に築かれたものだった。




● 江戸時代、神話は歴史ではなかった


 日本の『古事記』『日本書記』は一応歴史書ということになっていて、年数がいろいろ出てくるが、神代に関しては、これが全くデタラメだった。

 それは歴史をやる者の常識で、江戸時代からそういうことはわかっていた。たとえば「地神五代」といって、天照大神から神武天皇の父である葺不合尊の神さまの年齢については、なんと地神五代で「数十万歳の寿」命にもなっている。

 江戸中期の山片蟠桃は「小児といえども豈にこの年数を信ぜんや」と言い切っている。他に、新井白石は『古史通』の中で「神は人なり」といい切り林羅山も、神武天皇は古代の豪族の一人にすぎないといっていた。


 天皇を神と思っていなかったから、徳川幕府の側では、天皇を『禁中並公家諸法度』で管理し、天皇を利用できるだけ利用しようという姿勢を貫くことができた。

 そしてそういう姿勢は、明治維新をになった幕末の志士たちもおなじだった。




● 不敬罪の導入でタブー化し、「神」になってゆく天皇


 しかしその一方で、江戸時代には、神話まるごとウ呑みの天皇主義者たちも存在していた。

本居宣長、平田篤胤らに連なる国学者、神道家たちで、彼らは、キリスト教やイスラム教のファンダメンタリストと同じように、神典(記紀など)に書かれていることなら、どんなに荒唐無稽でも、字義通りに信じた。

 そのため山片蟠桃のような合理主義者からは「愚というべし」と切り捨てられているが、しかし、彼らの天皇を神様視する尊王思想は、幕末維新の原動力となる大きな潮流と勢いを生み出し、また、非常にファナティックな天皇主義者たちを多数輩出もした。


 しかし維新後、洋学派の近代主義者中心による新しい国作りの段階になると、彼らただ復古をとなえるだけの天皇主義者たちは、廃仏稀釈など、かえって混乱をまねく存在として遠ざけられるようになった。

 が、その一方で、彼らは侍従、侍補、侍講、あるいは天皇側近の高官などの形で大きな勢力を残し、やがて天皇を中心にまとまり、天皇をにぎることによって政治力をふるうようになっていった。


 一方、践祚したときはわず14歳でしかなかった天皇自身も壮年に達するに及び、自ら親政に乗り出しはじめる。


 他方で、自由民権運動が次第に反政府運動の色彩を強めてきたこともあり、それに対抗して、政府も天皇をシンボルとして押し立てることで政治的求心力を保とうとした。

 天皇主権の憲法制度や、親に対する孝より国家・天皇に対する忠を序列の上位に引き揚げた教育勅語の発布、不敬罪創設、神話教育など、天皇にかかわる政治決定が次々になされ、制度としての天皇制が形作られていった。

 久米邦武事件も、その一環として、起きたものだった。


 不敬罪が制定される以前までは、讒謗律第二条(いまの名誉毀損と同じような法律)が適用されていたが、不敬罪の登場によって、それからはちょっと口をすべらせたような冗談でも厳しく取り締まられていくようになり、「タブー」化していった。


 明治10年代に入って、国会開設や憲法制定が話題になりはじめると、当然のことながら、新しい国作りの中で君主(天皇)をどのように位置づけるかが、最大の論点になった。

 そこで官民ともに活発な天皇論(君主論、帝王論)がまき起こり、新聞などは論説で他紙と大論争するようなことが行われた。明治時代の最大の論壇は新聞の論説だった。

 不敬罪は制定前だったが、「新聞紙発行条目」(明治6年)というものがあって、「国体を謗り国律を議し及び外法を主張宣説して国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあり、また「讒謗律」の適用もあったため、100パーセント自由な言論とはいえないが、それでも相当に自由な天皇論が明治10年代初期のころは交わされていた。


 しかし明治13年(1880年)「不敬罪」の公布以降はそうした議論自体が難しくなっていく。たとえば皇室に関して悪いことを書いてはいけないといっても、『日本書記』をはじめ、その他『神皇正統記』『愚管抄』『皇朝史略』『国史略』といった一流の史書には、歴代天皇の悪いところもちゃんと書かれているのだ。

 特に『日本書記』に書かれた5世紀末の第25代武烈天皇についての記述などは酷く、「一も善を修めたまわず」と、いいことをひとつもしなかったと書かれているのだからすごい。


 だが明治時代初期の歴史教科書は、平気でこの武烈天皇の悪口も書いていた。中には天皇の残虐行為のさし絵までいれていたものまであった。

 ところが、明治14年の教科書の記述からは、もはや悪いことは一切書かれないようになり、天皇のいいところばかりが強調されるようになった。




● 儒学者の教育を受けた明治天皇の親政により、神道に儒教(朱子学)要素がハイブリッドされていく


 教科書に天皇のいいところしか掲載されないようになった背景には、実は明治天皇自身による教育内容への指導、干渉があった。


 明治天皇には元田永孚(もとだ ながざね)という熊本藩出身の儒学者が侍読として天皇の教育係を務めていたが、維新の三傑(大久保、木戸、西郷)の死後、明治11年(1878年)8月23日に、近衛兵によって起こされた「竹橋事件」の発生を機に、元田ら天皇の側近たちは明治天皇に対し、天皇が自らの手で政治を行うことを求めた。そして、明治天皇も彼らの求めに応じ、側近の助けを得ながら、天皇親政を行う決意を固める。


 天皇親政を決意した明治天皇と側近の元田永孚が最初に取り組んだことは、教育の刷新だったが、それは、洋学中心をやめ儒教を復興させ、仁義忠孝の念を国民にしっかり植えつけようとするものだった。

 このころは明治初期の有司専制の時代が終わりを迎え、その一方で自由民権運動が活発化するとともに、士族の相次ぐ反乱の発生など、明治政府の支配力が弱体化しつつある中、そうすることによって天皇の権威と権力を強化し、政事不安を沈め、社会秩序のを安定を取り戻そうとするものだった。

 またそれは、孔子が春秋時代に儒教教育によって社会の秩序を取り戻そうとしたことや、江戸時代に幕府や諸藩の大名たちが、家臣や領民たちに忠孝の理念の大事さを説く儒教(朱子学)の普及に努めることで、下克上や一揆を抑え、社会の安定化を図ろうとしたこととも同じ動きのものだった。



● 『教学聖旨』と『幼学綱要』と『教育勅語』の制定(天皇によって説かれる「儒教」の教え)


 天皇は、明治12年(1879)、元田永孚に命じて「教学聖旨」という文章を起草させ、これを教育の基本方針とすることを命じた。


「教学の要、仁義忠孝を明かにして、智識才芸を極め、以て人道を尽すは、我祖訓国典の大旨、上下一般の教とする所なり。

然るに挽近専ら智識才芸のみを尚とひ、文明開化の未に馳せ、品行を破り、風俗を傷フ者少なからす。

然る所以の者は、維新の始首として陋習を破り、知識を世界に広むるの卓見を以て、一時西洋の所長を取り、日新の効を奏すと雖ども、其流弊、仁義忠孝を後にし、徒に洋風是競ふに於ては、将来の恐るる所、終に君臣父子の大義を知らさるに至らんも測る可からす。

是我邦教学の本意に非さる也」


 元田によって起草されたこの「教学聖旨」の文章は、仁義忠孝が失われたら、とんでもないことが起こるかもしれないという恐怖心で溢れたものだった。


 この「教学聖旨」には「小学条目二件」という小学校の教育内容に関する具体的な指針が出されているのだが、たとえばその中の「古今の忠臣義士、孝子節婦の画像写真を掲げ、(略)忠孝の大事を第一に脳髄に感覚せしめんことを要す」など、これについては具体的にこうしなさいと、明治天皇が詳しく直接に(侍従長を通してだが)やったといい、それが子供たちの教科書における、天皇礼賛の傾向へとつながっていったのだという。


 また、明治天皇はこの『教学聖旨』に続けて、今度は明治15年(1882)に、教育において仁義忠孝の心を植えつけるのに大切なのは、何といっても幼少期にあるということで、また元田に命じて『幼学綱要』を作らせる。

 これは、孝行、忠節、忍耐、剛勇など二十の徳目を選び、それにふさわしい章句を、四書五経などから選んでかかげ、さらにその徳目にまつわるエピソードを中国、日本の古典から選んで絵入りでその教えを説いてゆくというものだった。

 この『幼学綱要』はほとんどそのまま子供用儒学の教科書というべきもので、このあたりから、文明開化の明治が、国粋主義の明治へと大きく梶を切り換えていくようになっていった。


 そして明治23年(1890年)には、その集大成となる『教育勅語』が発布される。これは、天皇が直接国民に、父子の孝、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信という儒教における「五倫」の徳目を説いて聞かせるというもので、実はここには、日本の天皇が神様であるだけでなく、日本国民にとっての道徳の模範をも示すキリストのような存在に仕立て上げるという意図も秘められていた。


 天皇の「神格化」は、天皇自身のヘゲモニーによって行われたものだった。









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