第八章(天皇親政の復活および天皇「神格化」のはじまりと儒教教育の推進)
立花隆『天皇と東大』。第八章「『不敬事件』内村鑑三を脅した一高生」部分のまとめ。
天皇親政に乗り出した明治天皇による「儒教教育復活」政策と「天皇の神格化」について。
・維新の三傑(西郷・木戸・大久保)の死
・「竹橋事件」の衝撃
・明治天皇親政の開始
・明治天皇と元田永孚による儒教教育復活政策の推進
・伊藤博文(開化主義)VS元田永孚(復古主義)の論争
・明治天皇と元田永孚による「天皇の神格化」への道
・明治天皇と元田永孚の手による「教学聖旨」「幼学綱要」「教育勅語」の制定
・明治12年前後を境とした欧化主義から天皇中心の復古主義への大転換
◆ 天皇親政の復活と儒教教育の推進
● 森有礼刺殺事件
明治22年(1889)2月11日、帝国憲法発布が行われたその日、森有礼文部大臣は暴漢に刺殺されて命を落とした。
その理由は、前年の11月に、森が伊勢神宮に参拝した際に不敬があったということだった。
そしてその不敬とは、森が参拝にあたって「土足で昇殿し、御帳をステッキで持ち上げて中をのぞくだけで拝礼もしなかった」のがけしからんというものだった。
しかし実際にはそのような事実はなく、してもいないことが歪曲されて、それが右翼的メディアで世に伝わり、そしてその報道を真に受けた者によって起こされた凶行だった。
ただ、森有礼はイギリス、アメリカに長く留学し、熱心なキリスト教信者になった過激な欧化主義者(一時は日本語を廃止して国語を英語にしてしまえと唱えたり、キリスト教を日本社会に積極的に移入して、畜妾公認など不道徳な日本の風俗習俗を改善すべしとも唱えていた)として知られていたため、もともと保守派、国粋主義者から、強く嫌われていたという背景があった。
森有礼の不敬事件も、それは、かねて森に不快感を抱いていた神官による嫌がらせだったという。
神官が嫌がらせをして、本来は誰でも入っていけるはずの側門の内部へ、神官が邪魔をして森をその中へ入れなかった。
ところがその行動が歪曲されて伝えられ、欧化主義者の森による非礼な行動だと誤解されてしまったのだった。
森を襲った犯人の西野文太郎はその場で護衛の警察官に切り殺されたが、しかし世間の同情は彼に集り、遺族に贈る義捐金が新聞で募集されるほどだったという。
が、こうした当時の日本の風潮に驚いた帝国大学意学部のドイツ人医師ベルツは、日誌に、
「上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が出現している!
特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。
要するに、この国はまだ議会制度の時機に達していないことを示している。
国民自身が法律を制定すべきこの時期に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ」(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』)
と記した。
● 洋学中心主義からの転換
・ 元田永孚による明治日本の復古政策と儒教の国教化。
明治22年(1889)の森有礼の死とともに、それまでもっぱら西洋文化を取り入れて文明開化をはかることを最優先にしてきた教育の時代は終わりを迎えることとなる。
実は天皇周辺ではこの十年ほど前から、明治維新以来の洋学中心主義にブレーキをかける動きが進められていた。
その中心になったのが元田永孚という人物。
元田永孚は熊本の出身で、藩の「侍読」(天皇の側に仕えて学問を教授する学者のこと)をつとめていた儒学者で、明治4年に、三条実美、大久保利通の推薦で天皇の侍読となった。
元田は、智識才芸を尚ぶ当時の日本の西洋教育を批判し、明治天皇に対しても、東洋の君主の帝王学は、洋書翻訳本ではなく四書五経を中心にすべきだと主張し、また明治天皇も元田のその教えを好んだため、元田は天皇の一番の側近になっていた。
元田は欧化主義者の森有礼が伊藤博文によって文部大臣に任命されそうになったときも、天皇に直訴までしてその人事をストップしようしたほど、西洋嫌いの儒学者だった。
● 元田ら儒学派グループの後押しを受け、自ら「天皇親政」に乗り出そうとした明治天皇
明治天皇は、即位したときはわずか15歳で、初期の政治は自ら親裁することなく、大久保、木戸、西郷ら維新のリーダーたちの手に委ねていたが、彼らの死後に、大きな転機を迎える。
維新の三傑(大久保、木戸、西郷)の死後、明治11年(1878年)8月23日に、近衛兵によって起こされた「竹橋事件」が発生すると、この機に、元田ら天皇の側近たちは明治天皇に対し、天皇が自らの手で政治を行うことを求めた。
そして、明治天皇も彼らの求めに応じ、側近の助けを得ながら、天皇親政を行う決意を固めることとなった。
● 明治天皇が直接主導した洋学否定の儒教教育の復興
・ 「教学聖旨」と「幼学綱要」の制定
天皇親政を決意した明治天皇が最初に取り組んだことは、教育の刷新だったが、それは、洋学中心をやめ儒教を復興させ、仁義忠孝の念を国民にしっかり植えつけようとするものだった。
天皇は、明治12年(1879)、元田永孚に命じて「教学聖旨」という文章を起草させ、これを教育の基本方針とすることを命じた。
「教学の要、仁義忠孝を明かにして、智識才芸を極め、以て人道を尽すは、我祖訓国典の大旨、上下一般の教とする所なり。
然るに挽近専ら智識才芸のみを尚とひ、文明開化の未に馳せ、品行を破り、風俗を傷フ者少なからす。
然る所以の者は、維新の始首として陋習を破り、知識を世界に広むるの卓見を以て、一時西洋の所長を取り、日新の効を奏すと雖ども、其流弊、仁義忠孝を後にし、徒に洋風是競ふに於ては、将来の恐るる所、終に君臣父子の大義を知らさるに至らんも測る可からす。
是我邦教学の本意に非さる也」
元田によって起草されたこの「教学聖旨」の文章には、仁義忠孝が失われたら、とんでもないことが起こるかもしれないという恐怖心で溢れているが、それが、「竹橋事件」の影響によるものなのだという。
「元田が『教学聖旨』を起草する契機となった1878年(明治11年)の明治天皇の地方巡幸に出発する一週間前に近衛兵が脱走するという陸軍以来の一大不祥事件が突発していた。
山県(有朋陸軍卿)の不安は現実となった。
その三箇月前には、大久保利通が暗殺され、維新の三傑といわれた木戸・大久保・西郷はすべて姿を消している。明治政府の危機である。
元田永孚・佐々木高行らの侍補が、明治天皇に親政の実を挙げるように進言したのはこの時であった。
山県は自ら軍人訓戒を草した。が、おりから自由民権運動は拡大化の一途をたどるごとき様相を見せ始め、その軍への波及、あるいは軍自体が武器をもって政権に迫ること(竹橋事件はその計画を秘めていた)を極度に危惧した。
自由民権運動に加わることはもちろん、一切の政治活動に参与することも封じようとした。(略)
そうすることによって、国会が開設されても、民権派が軍に干渉し得ないごとくにし、1881年(明治14年)の政変の翌年1月4日、いわゆる『軍人勅諭』を陸海軍人に賜る措置をとった」(『教育勅語成立史研究』土屋忠雄)
さらに、明治天皇はこの『教学聖旨』に続けて、今度は明治15年(1882)に、教育において仁義忠孝の心を植えつけるのに大切なのは、何といっても幼少期にあるということで、また元田に命じて『幼学綱要』を作らせた。
これは、孝行、忠節、忍耐、剛勇など二十の徳目を選び、それにふさわしい章句を、四書五経などから選んでかかげ、さらにその徳目にまつわるエピソードを中国、日本の古典から選んで絵入りでその教えを説いてゆくというものだった。
『幼学綱要』の編纂に協力を求められた学者たちからは、道徳は世界共通なのだから、欧米のエピソードも取り入れてはどうかといった意見も出されたが、元田は道徳は教育の基本だから、日本と中国中心がよいといって、欧米のものは一切取り入れなかった。
この『幼学綱要』はほとんどそのまま子供用儒学の教科書というべきもので、このあたりから、文明開化の明治が、国粋主義の明治へと大きく梶を切り換えていくようになっていった。
明治10年(1877年)9月24日 -「西南戦争」の終結と西郷隆盛の死
明治10年(1877年)5月26日 - 木戸孝允の死
明治11年(1878年)5月14日 - 大久保利通の暗殺
明治11年(1878年)8月23日 -「竹橋事件」西南戦争の論功行賞や給料の減額を不満として、竹橋 (現東京都千代田区北の丸公園) 在営の近衛砲兵隊二百数十人が武装蜂起した事件
明治11年(1878年)10月 -「軍人訓戒」
明治12年(1879年)9月29日 -「第一次教育令」明治5年制定の「学制」に代わって文部大輔・田中不ニ麻呂によって制定。国家統制主義を廃したアメリカ式の地方主体の自由主義教育を基調として制定される。
明治12年(1879年) -「教学聖旨」明治天皇が命じて儒学者の元田永孚につくらせた儒教教育の奨励
明治12年(1879年)9月 -「教育議」元田永孚の教学聖旨を危惧した伊藤博文が天皇に上奏
明治12年(1879年) -「教育議附議」伊藤の教育議に対抗して元田が天皇に上奏
明治13年(1880年)12月28日 -「第二次教育令」文部卿・河野敏鎌によって制定。カリキュラムに「修身」や儒教の考え方が反映される。
明治14年(1881年) -「明治十四年の政変」性急な憲法制定と国会開設を求めた大隈重信らが政府中枢から追放される
明治15年(1882年)1月4日 -「軍人勅諭」
明治15年(1882年) -「福島事件」福島県の自由党員や農民が弾圧された事件。
明治15年(1882年)12月2日 -「幼学綱要」
明治17年(1884年) -「秩父事件」埼玉県秩父郡で自由党員と農民が蜂起した自由民権運動激化事件。
明治18年(1885年)8月12日 -「第三次教育令」文部大臣・森有礼によって制定。主に経済的不況に対処して地方の教育費の節減を図ることを目的として制定。
明治19年(1886年) -「学校令」文部大臣・森有礼によって制定。「旧制」学校制度の基礎が固まる。「国家将来ノ治安ヲ図ルノ大主意」のため、国家主義教育体制の枠組みとしての、教育、研究の機能の充実を目的に制定。
明治23年(1890年)10月30日 -「教育勅語」の発布
・ 学制と教育令と学校令~教育システムにめっちゃ苦しんだ明治政府の四苦八苦 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)→ https://bushoojapan.com/tomorrow/2017/11/11/106262
・ 戦前の「学校系統」のイメージ図 - 旺文社教育情報センター → http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201104viewpoint/
・ 日本の学校制度の変遷 - Wikipedia → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7#%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%AD%A6%E5%BA%9C
● 伊藤博文と元田永孚の論争
明治天皇は元田永孚に命じて「教学聖旨」の起草をさせたが、内務卿・伊藤博文に対しても、昨今の風俗の乱れ(倫理の乱れ、言論の乱れ)を歎き、それを矯正するために教育の改良をはかることを命じていたという。
しかしそれに対して伊藤は、昨今の風俗の乱れは必ずしも教育のせいではないから、いたずらに政府が教育に干渉すべきではないと論じ、「教育議」を上奏した。
伊藤は、
「維新の際、古今非常の変革を行ふて、風俗の亦之に従ふ。是勢の已むを得さる者なり。何となれは、
第一、鎖国の制を改めて交際の自由を許し、第二、封建を廃して部門の規律を解く」
と、この乱れの最大の原因は、明治維新という社会制度の大変革そのものにあるとした。
封建時代は、
「名に死するを以て栄とす。生を計る者は汚とし、利を言ふ者は歯せす」という価値観があったが、
今は、誰にとっても「生」と「利」が大切という時代になった。
それに封建時代は人民に居留、移動の自由がなく、みな生まれた土地で、生まれたときからの人間関係の中で年老いて死んでいったが、今は何でも自由になった。
こうした封建制度がくつがえったことが、風俗の乱れの最大の原因だと、伊藤は主張した。
また、言論の乱れにしても、
「言論の敗れに至ては、更に又諸般の原因あり。
今之を歴挙せんに、新たに世変を経、兵乱相継き、人心急に習ふて静退に難し。而して詭言行ひ易く激論投し易し。是其一なり。
士族の産を失ふ者、其方向に迷ひ、不平之に乗し、一転して政談の徒と為り、故さらに激切の説を為して以て相聳動す」
と、あくまでその乱れの原因は世の中が大きく変わったことにあるのであって、教育のせいではなく、速攻を求めて、いまあわてて教育に手をつけるべきではないとした。
さらに伊藤は、いくら封建制のころのほうが道徳的によかったといって、また古今の道徳律を斟酌して、新しい国家公認の道徳律を作りそれを全国的に教え込むなどといったことは、政府がやるべきではないと論じた。
「今或は末弊を救ふに急にして、従て大政の前轍を変更し、更に旧時の陋習を回護するか若きことあらは、甚く宏遠の大計に非さるなり。
若し夫れ古今を折衷し、経典を斟酌し、一の国教を建立して、以て世に行ふか如きは、必す賢哲其人あるを待つ。而して政府の宜しく管制すへき所に非さるなり」
が、この伊藤博文の意見に、天皇も元田永孚も不満だった。
彼らが目指していたのはむしろ、
「古今を折衷し、経典を斟酌し、一の国教を建立する」というところにあった。
伊藤の「教育議」に対し、元田は「教育議附議」を天皇に上奏して反論した。
「今聖上陛下、君と為り師と為るの御天職にして、内閣亦其人あり。此時を置て将に何の時を待たんとす。
且国教なる者、亦新たに建るに非す、祖訓を継承して之を闡明するに在るのみ。(略)
本朝ニニギノミコト以降、欽明天皇以前に至り、其天祖を敬するの誠心凝結し、加ふるに儒教を以てし、祭政教学一致、仁義忠孝上下にあらさるは、歴史上歴々証すへきを見れは、今日の国教、他なし、亦其古に復せんのみ」
ここには、明治天皇と元田永孚が後の『教育勅語』において示そうとしたことが書かれていた。
それは即ち、天皇を「神」とし、かつ日本国民にとって道徳を示すキリストのような存在に仕立て上げるというものだった。
天皇とはその人自身が人民の「君」であり、「師」であることを天職としている人なのであって、天皇以外に国民対して道徳を教示する賢哲の人材など他に必要としない。
天皇が勅語という形で国教を建てればいい。国教の内容を新しく作る必要もない。天皇の祖先の教えを継承するだけでいい。→(祭政教学一致)
ニニギノミコト以来の天祖を擁し、それに「儒教」を加えればそれでいい。→(古今折衷)
元田は、「是聖旨の本義にして、其要は仁義忠孝を明かにするに在るのみ」といって伊藤を批難した。
明治天皇と元田永孚らが目指したのは、天皇を、祭祀の長であると同時に政治の長でもあり、教学の長である祭政一致の存在にしてしまう「復古主義」の実現だった。
● 欧化主義から復古主義への大転換。天皇「神格化」のはじまり。
親政に乗り出した明治天皇と儒学者の元田永孚らにより、日本は明治12年(1879年)前後に、それまでの急速な文明開化・欧化主義から、一転して天皇中心の復古主義への大転換がはかられていくこととなった。
明治8年(1875年)のころは、欧化主義者で天皇の侍読を努めていた加藤弘之が、天皇制を野鄙陋劣の国体だと批難し、天孫降臨などの日本神話は人間界の道理に合わないから国家論の基礎とすべきではないなどと堂々と主張できたものが、明治14年(1881年)になったら、そのような不敬の言辞を弄する者は殺すと脅されて、あわてて著書を絶版にしなければならなくなるという状況へと変わる。
明治12年(1879年)のころは、当時の文部官僚の中で最もリベラルだった田中不ニ麻呂が文部大輔となって、国家統制色を廃した「教育令」を制定することもできた。(たった1年で廃止に追い込まれたが)
しかし明治18年(1885年)になって、伊藤博文が、明治天皇や元田永孚の反対を押し切って、内閣制度発足時の初代文部大臣として起用した欧化主義者の森有礼は、その四年後の明治22年(1889年)に皇室に対する不敬を理由に刺殺される結果となった。
まだ途中です。