第七章(英米仏文化吸収からドイツ文化吸収への転換と東大の「国家の官吏養成機関」化)
立花隆『天皇と東大』第七章「元落第生・北里柴三郎博士の抵抗」より、明治初期の英米仏文化の吸収から明治14年以降のドイツ文化吸収への転換と、東大の「国家の官吏養成機関」化について。
● 東大の「国家の官吏養成機関」化
明治14年に、10年以内に国会を開設するという詔書が出されると、それまでアナーキーな過激さを秘めていた自由民権運動は、政党を作り、選挙で勝って政権を取ろうという近代的な政治運動に転化していった。
政府は、明治維新というクーデターによって樹立した政治権力に、合法的な正統性を与えるべく、
憲法を作って明治22年に発布し、明治18年に内閣制度を発足させ、明治23年に議会を作って、法治主義の体制を整えていった。
この間、東京大学は、明治19年に帝国大学となり、明治21年には、法学部卒業生には、無試験で官吏に登用される制度が開かれ、東大は「国家の官吏養成機関」と化していった。
明治維新以来、国内では、「佐賀の乱」(明治7年)や「熊本陣風連の乱」(明治9年)、「秋月の乱」(明治9年)、「萩の乱」(明治9年)、「西南戦争」(明治10年)、「福島事件」(明治15年)、「加波山事件」(明治17年)、「秩父暴動」(明治17年)、「名古屋事件」(明治17年)などといった内乱や一揆が多発し、
また、国際的にも、征韓論や征台問題、日露国境問題、条約改正問題、江華島事件などの、国家の威信をゆるがす事件が相次いでいた。
そのため政府当局の側から見れば、強力な政権の確立と富国強兵による立国が急がれていた。
最優先の政治課題は、あくまで国家の安定的基礎の確立で、大学はその国家目標を達成するための道具(マンパワー供給源)としか考えられていなかった。
● 英米仏系統からドイツ系統への一斉転換
政府は、憲法制定の詔書が出されるとすぐに伊藤博文を欧州憲法調査の旅に派遣し、一年半にわたって各国を歴訪させた。
伊藤はその大半の時間をプロシア(ドイツ)ですごし、シュタイン、グナイトスの講義を受けて、プロシア型立憲君主制にのっとって、日本の憲法作りをすすめることにしたが、
実はこのとき同時に、大学制度もまたプロシア型になってしまった。
法制度を充実させるために、「大学の法学部と国家のますますの一体化」がはかられた。
明治11年~明治26年の間、そのころ日本では法律顧問としてドイツからロエスレルという人物を招いていたが、彼の書いた憲法草案は実際に制定された明治憲法との類似が誰の目にも明らかなほど、大きな影響力をもっていた。
ロエスレルはその後も、皇室典範、商法、議院法などの制定にも深く関与し、日本の法制度の確立に大きな影響を及ぼした。
伊藤博文は、このころ政府と先鋭に対立していた「デモカラシー主義」(自由民権主義)の胎動と対決するためには、大学を「モナルキツカルプリンシプル」(専制君主主義)の国家にふさわしい大学として立て直すことが必要だと考えていた。
専制君主主義にふさわしい大学とは、国家に奉仕する大学、国家につくす官僚を養成する機関としての大学で、実際にそのような大学として構想された帝国大学の帝国大学令第一条にも、帝国大学の目的は「国家の須要に応ずる」ことにあるとはっきり明示されていた。
法律顧問のロエスレルは、大学のあり方についても多くの助言をしたが、彼は、大学は国家が中心となって運営すべきで、私的経営(私立の大学)にまかすべきではないとしていた。
ロエスレルは、私学は政権反対派の培養機関ないし、唯物主義思想(社会主義・共産主義)の宣伝機関になりやすいとして、大学は官学制度を維持すべきで、私立大学など言語道断という考えだった。
明治のはじめ、西洋文化の導入は、英米仏の系統を中心になされてきていたが、「明治14年」を境として、それがドイツからの流れに一斉に切りかわっていく。
医学部のほうにおいては、明治初期のころにオランダ医学からドイツ医学への転換が起こっていたが、同じことが、他の学問領域でも起こった。
明治14年前後に、東京大学のお雇い外国人教師は英米人からドイツ人の割合が逆転し、留学生の行き先でも、明治16年以後はほとんどゼロになってしまう。
このような状況のもとで、東京大学では、明治17年から、英語で行っていた授業はすべてなくし、授業はすでて日本語で行うこととなり、英語でやる授業が「正則」で日本語でやる授業は「変則」といわれた時代も終わりを告げ、それとともに学ぶべき学問はドイツの学問が中心とされることになった。
● 田中不ニ麻呂文部大輔による明治初期の英米流自由主義文化吸収時代
ドイツやフランスでは国立大学が中心だが、イギリスやアメリカでは国立大学がほとんどなくて、私立大学ないし公立大学が中心になっている。
明治14年を境に、英米仏系統からドイツ系統への文化吸収へと一斉に切りかえられたが、それまで明治のはじめ、田中不ニ麻呂が文部大輔として、事実上文部大臣の役割を果たしていた時代(明治7年~13年)には、文部省が中心となって、イギリス、アメリカに範を取ろうとしていた時代もあった。
田中不ニ麻呂は幕末に尾張藩士として藩内の尊攘派のグループに属して活躍し、佐幕か尊王攘夷かをめぐって揺れる徳川御三家の尾張藩を尊攘派に属させることに大きな役割を果たした人物で、その後、明治新政府に参与として任命され、明治元年(1869年)からは、大学御用掛を拝命し、教育行政に携わるようになっていた。
田中不ニ麻呂の教育、学術に関する識見はきわめて自由主義的だった。
田中はかつて岩倉使節団に文部理事官として随行し、アメリカでは森有礼(当時は中弁務使)と交際し、彼から留学中の新島襄を紹介され、その新島を伴ってアメリカ本国及びヨーロッパ諸国(プロイセン、フランス、オランダ等およびイギリス)の教育事情調査を行った人物。
そして田中はこれらの調査を通じ、とくにアメリカの教育制度における教育行政の分権制と教育普及における人民自為の方向を高く評価し、
明治11年以後は、この田中不ニ麻呂によって、国民の就学督促と官・公立学校の急速な整備を掲げた『学制』の廃止が目ざされることとなった。
明治12年に田中不ニ麻呂の指導のもとに作られた教育令では、それまでの学制に認められた教育の国家統制的色彩を廃して、教育の自由を大幅に認めたため、後に「自由教育令」といわれた。
しかし明治13年には、早くも、教育の国家統制を強く求める人々によって、田中は文部大輔の座を追われ、教育令も廃止となり、国家統制主義的改正教育令がそれに代わり、終戦までそれが続くこととなった。
● ドイツにおける「学問の自由」「大学の自由」の伝統
日本の大学は、ドイツモデルを取り入れるにあたって、独自の採り入れ方をしたため、ドイツ以上に国家統制的になった。
ドイツの大学は輝かしい伝統としての「学問自由」、「大学の自由」の伝統を持っていた。
この場合の「学問の自由」とは何かといえば、教える自由、教わる自由、研究する自由のことで、
それは何に対する自由かといえば、国家権力に対して自由だという意味。
大学が学生に何を教えようと学生が何を教わろうと、教授が何を研究しようと、国はそれに容喙しないということ。
それは教授人事の自由も意味する。
教授人事は教授会だけが決定権を持つ。誰を教授にしようとそれは大学の自由であり、教授をやめさせる権利も教授会だけが持つ。
教授会の決定に反して、国が特定の人間を教授にすることは許されない。
私立大学であれば、もちろん国がそれに口をはさむことができないのは当然のことだが、ドイツの大学は国立大学であり、国の管理下に置かれていた。
しかし、国家は大学に物理的基盤を与え、経済的に支援し法的保護を与えるにとどまり、学問の内容については一切干渉しないという原則がドイツでは確立していた。
しかし日本ではドイツにおけるこうした「学問の自由」における伝統が、弱められる形でしか取り入れられなかった。
● 「サポート・バット・ノーコントロール」(援助はするが干渉はしない)という大学への財政援助に対しての原則
教育には大変な金がかかるが、教育の質と量を確保することは、国の未来の繁栄に直結すると考えられたため、20世紀に入ると、国立大学主義をとらないイギリス・アメリカでも、さまざまな形で国が積極的に財政援助をするようになった。
産業社会の時代になって、技術開発力と技術的マンパワーの供給力が、一国の国力を左右するようになっていた。
特に第一次世界大戦において軍事面でその傾向が一層明らかになり、技術力、生産力が一国の経済的繁栄どころか、国としての生存そのものさえ左右することが明らかになってくると、各国とも、国が率先して大学を中心とする学術振興に力を注ぐようになった。
イギリスのチェンバレレン首相は、
「国家間の大学競争は、建艦競争と同様に重要である」といったという。
イギリスでは、政府からの財政援助を受けるにあたって大学側は、政府から大学のあり方に対して干渉を受けることを強く警戒したが、イギリス政府は、ドイツと同じように、「サポート・バット・ノーコントロール」(援助はするが干渉はしない)の大原則を守ることを約束して、資金投入を受け入れてもらった。
資金の使途に一切のヒモは付けない。しかし何に使ったのかの監査はするというのが、もう一つの原則だった。
● 大学の自由と財政的基盤の確立の模索
大学にとっては、学問の自由を守ることと、大学の財政的基盤を確立することが、大きな問題となる。
日本では、国立大学は、英米の大学のように、独自の財源を持たず、100パーセントを国家資金で運営されており、その資金は文部省の予算として実体化されていた。
(明治14年から18年にかけて、文部省予算の約40%が日本で唯一の大学である東京大学の経費だった。)
そして文部省の予算である以上、それは議会の審議を経なければならないため、当然その使途をはじめから明確にしなければならなかった。
大学が手にする資金は100パーセントの「ヒモ付きの資金」で、大学が裁量権をふるえる余地などまったくなかった。
独自の資金がないことには行動の自由がなく、ヒモ付き資金だけでは、学問の自由もない。
大学の自主財源の確立方法として、英米の教育事情に詳しかった田中不ニ麻呂は、教育令を作ったときに、大学に自由を与えるなら、独自財源も作ってやらなければと、大学の予算を特別会計として、使い残しは大蔵省に返納せず(通常の予算ではそのようなことは絶対にできない)、それを積み立てていって独自の資金とすることを構想したりしたが、これは、当時の大蔵省の激しい抵抗を受けて頓挫した。
しかし田中のこの、大学特別会計制度と、その中で予算の使い残しや独自の収入(授業料や医院収入、動産収入など)を積み立てて、自己資金とすることを可能にする制度は、その後明治23年になって実現した。
● 東大医学部による北里柴三郎伝染病研究所乗っ取り事件と慶応医学部の創設
平成15年度における東京大学の支出と収入の内訳は、自己収入が約750億円で、支出の総額が2270億円となっているが、これはだいたい明治時代の終わりから大正時代のはじめと同じ水準になるという。
自己収入の大半が病院収入と授業料というところも変わらない。
相変わらず基本財源を持たないため、利息収入も事実上ゼロで、これでは、やりたいことを独自にやれるわけがない。
現在の日本の大学もやはり明治以来から変わらず、文部省のお許しなしには何もできないようになっている。
しかし東京大学の歴史の中で、大正時代の中期以後、独自収入がふくらんで、全収入の4割、5割という水準に達した時代があった。
これは、大正5年に、北里柴三郎の伝染病研究所を吸収して、東京大学の付置研究所としたことが大きかった。
北里は東京医学校(現・東京大学医学部)を出た後、内務省衛生局に就職し、そこからドイツのコッホのもとへと留学し、ジフテリアや破傷風の抗毒素を発見して、抗血清療法を開発し、戦前の日本人でノーベル賞に一番近いところまで行った人物だった。
北里はその後、細菌学者として世界的に高い評価を受け、欧米各国から招かれながら、それを断わって日本へと帰国したが、しかし日本での彼の評価は必ずしも高くはなかった。
北里は東大医学部の学生時代、遊びほうけていて成績が悪く、何度も留年したりしていたため、東大医学部の主流の者たちからの評判が悪く、医学会で彼にいいポストを提供しようという動きが全くなかったのだった。
しかしそれに腹を立てた福沢諭吉が奔走して、北里のために私立の伝染病研究所を立ててやった。
北里の研究所は国際的にも一流の研究所となり、その後明治32年に勅令で所長は北里のまま、内務省所管の国立伝染病研究所となり、移管後も事業は順調に発展した。
北里の研究所では、医学的研究の面で次々に国際水準の業績をあげつづけただけでなく、経営的にも成功を収めた。
各種伝染病の抗血清(特に破傷風、ジフテリア、ハブ毒)、ワクチン(特にコレラ、チフス)の販売が成功し、ここで作る結核検査用のツベルクリン、種痘の痘苗もよく売れた。
ところが、大正3年になって、北里も知らないうちに伝染病研究所が突然、文部省へ移管されることとなり、それに怒った北里所長以下、研究員全員と技手や嘱託を含む全書院が辞職するという日本医学会はじまって以来の大事件が発生する。
この事件の真相はいまだよくわからないが、結果からみてこれは、東大医学部による乗っ取り事件だったといわれて仕方ないような事件だった。
伝研を去った北里は、再び私立の「北里研究所」(現在の北里大学)を作るとともに、大正5年、慶応大学で医学部が創設されるとその学部長に就任して、慶大医学部を東大医学部と並び称されるような医学部育て上げることに心血を注いだという。
● 東大経営と戦争との関わり
東大へと移管されることとなった北里の伝染病研究所は、血清、ワクチンなどの医薬財販売によって、その後の東大の自己収入の大きな柱となった。
特に大正時代以降は、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争と、大陸での戦火が広がるにつれ、その需要も大きくなっていった。
また、日本の海外領土の拡大にしたがって、帝国大学は国内にとどまらず、樺太・朝鮮・台湾といった海外領土に広大な演習林を獲得することとなり、その販売収入は、病院収入とならんで、東京大学の自己収入の柱となっていった。
戦時下、東京大学の自己収入は増えて5割にも6割にもなったが、その背景にはこうした、戦争と植民地経営から利益を上げていたという背景があったのだった。
そのため、初期議会の時代にあったような、民党からの帝国大学予算に対する締め付けも、日清戦争のあたりからはほとんどなくなり、逆にいよいよ国家のために奉仕する期間としての性格が強まり、また戦争との関わりも深められていくこととなっていった。




