第五章(戦前の官僚制と宮中席次の関係)
立花隆『天皇と東大』、第五章「慶応は東大より偉かった」部分のまとめ。
・日本の官僚制と宮中席次(身分制)との関係と、
・大学が文部省の一部だったことによる大学教授の独立性の喪失などについて。
◆ 戦前の官僚制と宮中席次の関係
天皇制の下においては、すべての臣下(官僚、軍人、有爵者など)は、厳密な位階によって身分の上下関係が規定されていた。
位階制は、軍人、官僚など身分のカテゴリー別にあったが、すべてのカテゴリーをシャッフルしたときの上下関係は、最終的に一階から十階に及ぶ「宮中席次」に収斂していた。
つまり、最終的に身分は、天皇からの距離によってランクされていた。
第一階は、大勲位、内閣総理大臣、枢密院議長、元帥、大臣、朝鮮総督、陸海軍大将、枢密顧問官、親任官、貴族院議長、勲一等、功一級、公爵、従一位の順になっていた。
第二階は、高等官一等、衆貴両院副議長、侯爵、正二位の順で、
第三階は、高等官二等、伯爵などとなっていた。
現在の日本の官僚制度でマスコミによく取りあげられる「キャリア」(かつての上級職公務員。最近は一級職という)と「ノンキャリア」(かつての中級職公務員。最近は二級職という)の身分のあまりの違いの差も、かつての勅任官、奏任官、判任官の身分差がそのまま残っているから。
・「勅任官」と「奏任官」と「判任官」のちがい
官僚の世界は、勅任官、奏任官、判任官に厳然と分かれていた。
「勅任官」は、天皇が任命する高等官一等、二等の者をいい、
「奏任官」は、行政長官が天皇にその人事を奏請し勅裁を経て任命する高等三等以下のもの。
「判任官」は、行政長官が自分の権限において有資格者の中から自由に任命できるいわば高等官の使用人。
勅任官、奏任官までが「天皇の官僚」で、それ以下の官僚は判任官と呼ばれた。
・勅任官の中の「親任官」
「親任官」というのは、勅任官の中で特別に高位の者で、その任名にあたっては、天皇が自ら親署して御璽を捺し、それに内閣総理大臣が副署した官記が与えられ、就任式では勅語も与えられた。
具体的には、内閣総理大臣、国務大臣、枢密院正副議長、枢密顧問官、内大臣、宮内大臣、特命全権大使、陸海軍大将、大審院長、検事総長、会計検査院長など。
このような制度は、実は姿を変えて、ほとんどそのまま残っている。
日本国憲法の第六条に、天皇は国会の指名にもとづいて内閣総理大臣を任命し、内閣の指名にもとづいて最高裁判所長官を任命することとなっているが、この二つはもともと親任官だった。
また、憲法七条に、さらに天皇の国事行為として、その第五項に、
「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免」とあるが、それは具体的には、
最高裁判事、高裁長官、検事総長、次長検事、高検検事長、人事院人事官、会計検査院検査官、宮内庁長官、侍従長、特命全権大公使、公正取引委員会委員長をいい、
これを「認証官」と呼んでいるが、それはほぼ親任官と重なりあっている。
◆ 「俸給」がかつての宮中席次に代わる現代官僚世界における新たなランク分けの指標
戦前の「宮中席次」のように、あらゆるカテゴリーの身分的位階をシャッフルしたときのランキングの統一指標として現代官僚社会で機能しているのは、「俸給」である。
平成10年度における日本の官職の月額俸給のトップは月228.8万円で、行政分野の内閣総理大臣と司法分野の最高裁判所長官の二人。
次いで月額167.0万円で、行政分野からは国務大臣、会計検査院長、人事院総裁、司法分野から最高裁判所判事、検事総長。
大学の学長は大学ごとに違っていて、東京大学学長と京都大学学長が大学分野におけるトップとなっており、俸給レベルは上から5番目の月136.4万円で、
他では行政部門の検査官、人事官、政務次官、公害等調整委員会委員長と、司法部門の次長検事などと同じ給与ランクになっている。
上から7番目の月133.6万円が北大、東北大、筑波、名古屋、大坂、九州大の各学長。
上から9番目の月126.0万円が、千葉大、東京工大、一橋、新潟、金沢、神戸、岡山、広島、長崎、熊本大の学長。
上から10番目の月117.7万円が、弘前大、秋田、山形、群馬、東京医科歯科、信州、岐阜、三重、鳥取、山口、徳島、愛媛、鹿児島、琉球大の学長。
その他の国立大学の学長は上から11番目の月109.8万円となっている。
◆ 西欧と違い、学校が行政機関の一部を兼ねていた日本の大学
東京大学の総長(学長)は、帝国大学の時代、勅任官だった。
勅任官は総長だけで、教授、助教授と書記官(現在の事務長)が奏任官、あとの書記(事務員)が判任官となっていた。
当時の日本の東京大学総長は、文部大臣の命令に従って、大学の秩序を保持し状況を監視する役目をになっていたが、西欧の大学の伝統においては、
たとえ国立大学であっても、大学において最も大切にされていたのは、学問の自由(大学の独立、自治)であって、学長たる者は、国家と大学の間で何らかの軋轢、対立が生じるようなことがあれば、大学を代表する者として、教育、学術を担当する行政機構(日本なら文部省)当局者と丁々発止のやりあいをすべき存在とされた。
ところが日本の場合は、学長は文部行政の末端機構そのものとなっており、権力に対して大学を代表する者というより、権力を代表して大学を監視し秩序保持につとめる者となっていた。
日本の大学の歪んだ性格は、このような国家と大学の間の不適切な関係からきているところが大きい。
・学政はすべて「国家ノ為」と言い切る文部大臣森有礼の教育観
明治22年1月28日に文部大臣の森有礼は、文部省に直轄学校の校長(帝国大学、分科大学などを含む)を集めて行った訓示で、大学は大学(学問)のためにあるのではなく、国家のためにあるのだということを明確にした。
・「政府ガ文部省ヲ設立シ、国庫の資力ヲ藉リテ諸学校ヲ維持」するのは「畢竟国家ノ為」。
・「学政ノ目的」も「専ラ国家ノ為」。
・帝国大学において学術のためと国家のために関することでは「国家ノ為」のことを最も先に、重んじること。
・諸学校を通し学政上においては、生徒その人のためにすることではなく「国家ノ為」にすること。
森の主張するところでは、大学教育に携わる者の本尊は国家だといい、そもそも、国立大学というものは、国家が国費を費やして丸がかえで作り維持しているが、それはそれが国家のためになると思えばこそそうしているのであって、大学がその期待にこたえ、国家のためにつくすのは当たり前のことではないかというのが、森の論理だった。
このように「国家」第一の森有礼だったが、そんな彼でも、この訓示を出した二週間後、憲法発布の日に、森はファナティックな国粋主義者に刺殺されることとなる。
犯人が森を刺殺した理由は、一年ほど前に、森が伊勢神宮に参拝した際、靴を脱がずに昇殿し、ステッキで御帳を揚げて内部をのぞいたことが、伊勢神宮に対する冒涜、皇室に対する不敬にあたるというものだった。
が、これは実際にはデマだった。
しかし、こういう事件が起こりうるという当時の状況が、加藤弘之が『国体新論』に対して、国粋主義者から刺殺されかねない勢いで抗議されるや、たちまちそれを絶版に付し、新聞広告を出してその内容を否定したという事件の背景として存在していたのだった。
・教師と官僚の立場の兼任が、帝大教授たちの学者としての独立性を失わせる結果に
明治国家は、あらゆる意味において西欧諸国に追いつくことを最優先の課題として、そのために教育に最大限の力を注いだ。
高等教育は、留学生をどんどん送り出すとともに、外国人教師を雇って、外国語でそのまま教育を受けさせることで、外国におけるそのときの教育水準を保ったまま日本に移植しようとした。
(外国人教師を雇って、外国語でそのまま教育を受けさせることを「正則」といい、高等教育における日本語を用いての教育は「変則」といわれた)
明治初期、毎年数十人の留学生が各国に送り出され、そのための費用が、国家予算の2パーセント、教育予算の8分の1に達した。
明治5年で12カ国、214人の外国人教師がいて、いずれも破格の待遇を受けていたが、明治10年代、20年代に入ると、これら留学生が続々と帰国してきて、教壇に立ち、お雇い外国人教師による教育から、留学帰りあるいは日本の大学卒業者教授による教育へと置きかえられていった。
そして、その過程において、大学教授は、その識見を買われて、政府に続々雇われていった。
当時は、政府の役職と大学の教授職を兼務することに何の制限もなかった。
明治時代の高級官僚、大学教授は、堂々と兼職していた。
特に、行政機構は法律によって動くため、法学部においては、兼職が常態となっていた。
また、政府の役職を兼ねることは、教授のステータスシンボルともなっていたほどだった。
当時の東京の法科大学の教授たちは、さまざまな形で行政官庁と結びつき、国政のなかに活躍の場をもち、果たして大学の教師であったのか、それとも行政官であったのか、その識別が困難なケースが少なくなかった。
しかしそのことが欠点として、森有礼の言う、学術のことと国家のことが目の前にあれば国家のことを優先するような、教授のあり方を生み出したり、
教授の立場が自然政府の弁護者たる臭味に富む、帝大教授と政府の腐れ縁ができてしまう結果ともなってしまった。