第三章、第四章(初代東大学長・加藤弘之の唱えた『国体新論』と『天皇機関説』との関係とその後の変節について)
立花隆『天皇と東大』。
第三章「初代学長・加藤弘之の変節」部分と、第四章「『国体新論』と『天皇機関説』」部分のまとめ。
◆ 加藤弘之の説く日本の「国体」と、国学者たちの説く日本の「国体」の違い
・加藤による日本の国学者への攻撃と神国思想に対する批判
加藤弘之は啓蒙思想家の雄であり、その啓蒙思想をもって、天皇を教育し、日本の教育システムのレールを敷き、明治8年には、日本の国体についての新しい見解を示す『国体論』を発表し、それまでの日本の国学者流の国体論に対して真っ向から批判を行った。
加藤は、文明の開けていない国では、国土は全部君主の私有物で、国民はすべて君主の僕であるかのごとくに考えている人が多いが、それは誤った考えで、日本や中国は未だ未開の、野鄙陋劣の国だとした。
加藤は、
「君主も人なり。人民も人なり。けっして異類のものにあらず」
といい、
また彼は、このような野鄙陋劣の国体をもってよしとする連中の筆頭にあげられるのが国学者だとして、鋭い攻撃の矢を浴びせた。
「天皇と人民とはけっして異類のものにあらず、天皇も人なり、人民も人なれば、ただ同一の人類中において尊卑上下の分あるのみ。(略)しかるに国学者流が唱うるところの論説にしたがうときは、君民の間、とうてい人と牛馬に異なるところはほとんどまれなるにいたるべし。あに陋見鄙説といわざるべけんや」
日本の国学者たちは、天皇が本当に天孫の末裔だということが「神典」(古事記や日本書紀など日本神話の原典)にちゃんと書かれていると主張するが、本居宣長や平田篤胤らも、
「およそ神典に挙げられたることはみな神々の御事業ゆえ、実に奇々妙々のことにて、けっして人知をもって思議すべからず」
といっており、そのため加藤は、
「右は神典上のこととして、今日人間界の道理には合わぬことゆえ、国家上のことを論ずるについては、たえて関係せざるこそ可なるべしと余は思うなり。国家は人間界に存するものなれば、いやしくも人間界の道理に合わぬことは、断然取らざるを可とすべし」
と主張した。
日本の国学者たちは、
「わが皇国は天照大御神の神勅によりて天孫降臨したまいしより、万世一系の天皇臨御したもう御国なれば、わが邦の臣民たらん者は、つねに天皇を敬載し、ひたすら天皇の御心をもって心とし、あえて朝命に違背すべからず」
というが、しかし加藤は、天皇の御心をもって心せよなどとは、これは「卑屈心」というもので、欧州では、このような卑屈心のある人民を称して心の奴隷だといわれるものだとして彼らを批難した。
「吾輩人民もし自己の心を放擲し、ひたすら天皇の御心をもって心とするにいたらば、あにほとんど牛馬と異なるところあるをえんや」
加藤は、
「人民おのおの自由の精神を備えてこそ、実際上の自由権をも握りうべく、したがいて国家も安寧を得、国力も盛強をいたすべき」
であるのに、
「もしわが邦人民この精神を棄て、ひたすら天皇の御心にのみしたがい、したがいて実際上に自由を失うを甘んずるにいたらば、わが国の独立不羈はほとんど難きことなり」
と説く。
また、日本人が自由の精神を失い、国学者たちが説く卑屈心を是とするようになれば、
「たとい愛国の情いかに深厚なるも、真に愛国の道を失うがゆえ、好みて国家の衰頽を促す」
ことになるだろうと加藤は主張したが、
実際その後の日本はこの加藤が批判した国学者流の国体論をさらにファナティックにした議論に国民が全部とらわれ、心の自由を失い、心の奴隷となってしまった結果、日本という国は衰退どころか、事実上滅ぶことになったと、立花氏も批判を加える。
・突如として自説を撤回し、『国体新論』を絶版に付した加藤
ところが、明治14年11月24日、加藤は、
「今日より之を視るに謬見妄説往々少からず、為めに後進に甚だ害ある」からとの理由で、
突然郵便報知新聞に広告を出し、自らの『国体論』と『真政大意』を絶版に付したことを発表する。
・「国体」とは何か?
国体とは、文部省教学局作成の『国体の本義』(本義とは「根本となる、最も大切な意義」という意味)では、
「万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」というこれが、「我が万古不易の国体である」とし、そして、
「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉戴して、克く忠孝の美徳を発揮する」というこれが、「我が国体の精華(最もすぐれている点、真髄)とするところ」だという。
教育勅語では、
「朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、説くヲ樹ツルコト深遠ナリ。我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厩ノ美ヲ済セルハ、比レ我国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」
と述べられている。
「二・二六事件」において、青年将校たちは、国体の正しい姿をあらわすために、国体破壊の元凶に天誅を下すために、という理由で決起をした。
彼らは日本の国体を「神の国(神州)」ととらえ、天皇の統率の下、この神の国が一体となって発展していけば、ついには、世界中の国が一つ屋根の下によりつどうようにして(八紘一宇)一体となるとし、
また、この国体は世界で最もすぐれたものだと主張していた。
ところが、この国体にもとづき、日本がこれから世界に向けて大発展をとげようとしているのに、凶悪不逞の徒(元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党など)がたくさん出てきて、この国体を私利私欲にもとづいて破壊しはじめたため、それはけしからんふるまいだから、こいつらを全部殺して(誅戮)、もとの正しい国体に戻そうと行動を起こすことにしたのだという。
◆ 天皇機関説批判と国体名著運動の展開
・天皇機関説事件の発生
「二・二六事件」は、「正しき日本の国体を守る」ことを目的に起こされた事件だったが、この事件の発生に関しては、その一年前、青年将校たちが「正しい」とする国体観を否定する「天皇機関説事件」の発生がそのプロローグとなっていた。
「天皇機関説事件」とは、天皇機関説を唱える美濃部達吉貴族院議員・元東京帝国大学法学部教授が、帝国議会において、日本の国体にもとる学説であるからけしからんとして批難を浴び、攻撃され、ついに発禁処分となり、美濃部博士も貴族院議員を辞職せざるをえない立場に追い込まれることになったという事件のこと。
「天皇機関説」とは、国家の統治権はどこに属しているのかという問題で、
国家の統治権は天皇個人に属していて、「朕は国家なり」といったルイ14世のごとく、天皇はそれを自分の好き勝手にどのようにでも行使することができるのか、
それとも、統治権の主体は国家そのものにあり、天皇といえども国家の最高機関として、法にもとづいてその統治権を行使しなければならいのかという問題のこと。
日本は天皇独裁の専制主義国家なのか、それとも天皇といえども国家元首として、法によって権力の制限を受ける立憲君主制の国なのかという問題。
日本は法制上は立憲君主制の国となっていて、学会では天皇機関説のほうが正しいとされ、高文試験も、外交官試験もその説に従う記述が正しいとされた。
また、天皇自身も、
「天皇は国家の機関である。機関説でいいではないか」といっていたという。(岡田啓介『回顧録』)
しかしその一方で、東京帝国大学内部には、上杉慎吉、穂積八束など、天皇は現人神であり、当然のことながら絶対的な権力を持つという神がかり的な絶対主義的君主主権説をとる学者たちがいて、それと結ぶ、右翼政治団体、軍部などの勢力も存在していた。
それらの勢力が連合して美濃部を追いつめていったのが、「天皇機関説事件」だった。
・明治憲法における天皇の持つ権限についての規定
天皇の統治権について、明治憲法は第四条で、
「天皇ハ、国ノ元首ニシテ、統治権ヲ総攬シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」
としていて、行政権には憲法の縛りがかけられているということがはっきりと示されてした。
また明治憲法第五十五条では、
「国務大臣ハ、天皇ヲ輔弼シ、其ノ責ニ任ズ。凡テ法律、勅令、其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ、国務大臣ノ副署ヲ要ス」
とも定められていて、天皇が行政権を恣意的に行使することができないようにしていた。
天皇は大臣の助言に従って決定する代わり、責任は大臣が取るという制度になっていた。
また、立法権についても、明治憲法第五条で、
「天皇ハ、帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」
と定められていて、ここでも天皇の権力には縛りがかけられていた。
ところが、軍隊の統制に関する統帥権に関しては、明治憲法、第十一条で、
「天皇ハ、陸海軍ヲ統帥ス」
となっているだけで、兵馬の大権については何の縛りもかけられていなかった。
軍事的な問題については、天皇は内閣にも議会にもはからずに自由な決定を下すことができるという建前になっていたのだった。
しかし、軍事作戦上の問題(軍令)については、
陸軍には参謀本部、海軍には軍令部という機関があって、実際の決定はそれらの機関の参謀たちの上奏(「帷幄上奏」。帷幄とは天皇がいるところにかけられた幕)に従うこととされていた。
ところがこちらのほうは憲法に定められた法律的な縛りというわけではなかった。
また、軍の関わる行政問題(軍政)については、
陸軍省、海軍省という内閣に属する機関があって、それぞれに大臣がおり、軍令部門である統帥権に対し、こちらの軍政部門に関しては、他の行政問題と同様、憲法第五十五条に従ってその輔弼を得て天皇が決定するということになっていた。
しかし、軍部と内閣、議会の間には微妙な問題が幾つもあって、
一つは、陸軍大臣、海軍大臣の人事に関する問題では、それを内閣が自由に決定できるわけではなかった。
軍部は気にそまない内閣から大臣を引き揚げることで倒閣をはかることができ、大臣を入閣させないことで内閣の成立を阻止することができた。
もう一つは明治憲法第十二条に定められた、「天皇ハ、陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」という編成大権の規定で、
この権限の内容がはっきりせず、この権限は、行政権、立法権と全く関係なしに天皇が軍部と相談するだけで勝手に行使できるのかということが問題とされた。
・ロンドン海軍軍縮会議をきっかけに発生した「天皇機関説」排撃と「統帥権干犯問題」
1930年のロンドン海軍軍縮条約で、まさにこの編成大権が問題となった。
軍縮問題は、基本的に憲法第十二条の編成大権に関わる問題で、それを根拠に海軍は絶対反対を唱えたが、政府(浜口雄幸内閣)は、この条約は軍部が独自に決定できる単なる編成問題ではなく、同時に高度な政治判断を要する外交問題であり、財政問題でもあるから、そのすべてを総合的に勘案できる政府マターであるとして、海軍の反対を押し切って調印した。
このとき、統帥権干犯を叫ぶ軍部と右翼に対し、政府の決定に法律論的支柱を与えたのが、美濃部達吉だった。
美濃部の論点は、先ず、統帥権と編成大権は大きく違うということを主張。
純粋に独立性が与えられている統帥権とは、あくまで軍事作戦上の決定についてのことで、兵力量の決定のごときは、国務上の決定事項であって、内閣の輔弼に従う決定が当然だとした。
また、美濃部は、軍による帷幄上奏の権利についても、それは、大元帥陛下としての天皇に対する上奏の権限であって、これが御裁可を得たとしてもそれは軍の意思が決せられたに止まり、国家の意思が決せられたわけではないとの判断を示した。
軍事の専門の見地から立てられた軍令部による国防計画は、ただ国家に対する希望を表示するものにほかならず、これを軍政部門のトップである陸軍大臣、海軍大臣に移牒したとして、これを最終的に国家の意思としていかなる限度にまで採用すべきかは、なお内治外交財政経済その他政治上の観察点から考慮しなければならないもので、これを考察することは、内閣の職責に属する問題だとした。
浜口内閣は、この美濃部の論理で、ロンドン条約批准国会を乗り切ったが、美濃部達吉はこのあたりから海軍と右翼の攻撃目標になっていった。
批准が終わったあと、浜口首相は統帥権干犯を叫ぶ右翼の政治結社員によって東京駅で銃撃され、さらにその後も、統帥権干犯問題(国体破壊問題)に名を借りたテロ事件が次々に発生し、ついには二・二六事件にいたる。
二・二六事件で襲撃された一人の鈴木貫太郎侍従長は、ロンドン条約批准の際、日程を調整して直ちに上奏を願う加藤軍令部長を後回しにたため、彼から激しく恨まれていたのだった。
・「天皇機関説」問題が、「国体明徴」問題へと発展
美濃部がロンドン条約調印を肯定した論説は「天皇機関説問題」として国会で問題提起され、激しい攻撃を受けることとなった。
1935年2月18日における貴族院本会議で、菊池武夫(元陸軍中将)議院は、美濃部を「叛逆者」「謀反人」「学匪」呼ばわりして排撃演説を行った。
自身貴族院議員であった美濃部はこれを受け、「一身上の弁明」と題する演説を行って反論したが、問題が広まるにつれ、法理より、俗耳に入りやすい議論のほうが主題となっていって、美濃部の論説内容そのものではなく、それよりも、
「天皇を機関と呼ぶとは何事だ。天皇を機関と呼ぶとは何事だ。天皇を機関などと呼ぶのは不敬罪にあたる」
ということのほうが問題だとされ、美濃部の論説は日本の国体を否定する「天皇機関説」として軍部や右翼から批難されることとなった。
そして議論の行方は、そもそも日本の天皇とはどういう存在で、日本の国体とはどういうものなのかということを明らかにしていく「国体明徴運動」へと発展していった。
しかし天皇を「機関」と呼ぶのはもちろん法理上のことであって、美濃部説では、機関ということでは、議会や政府や裁判所はもちろん国家の機関だが、地方自治団体や、大臣や役人も国家の機関であり、町に立つ巡査もみな国家の機関としてみなされ、天皇個人の存在もまた、その意味において国家に属する機関としてみなされるのだということになっていた。
が、美濃部学説に対する排撃は、もっぱら現人神である天皇を機関と呼ぶのはけしからんという点に集中し、美濃部による弁明後も、美濃部に対する攻撃は一層激しさを増していった。
美濃部を不敬罪で告発する代議士があらわれたり、民間の右翼が糾合して機関説排撃同盟を結成したり、在郷軍人会が排撃声明を出したり、貴族院、衆議院の有志議員が集まって機関説を攻撃する懇談会を作ったりといった一連の動きが次々に出た。
そして3月になり、貴族院でも、集議院でも国体明徴決議案が通ると、この排撃運動は、岡田啓介内閣打倒運動にまで発展し、機関説に立つ重臣たちに対する攻撃にも発展していった。
4月、陸軍が国体明徴の訓示を全軍に通達すると、国体を明らかにせよという国体明徴運動はさらに盛り上がり、
8月、ついに、政府もそれまで自分たちがよっていた天皇機関説を捨てることを明らかにする「国体明徴に関する政府声明」を出すにいたった。
「恭しく惟みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り明示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の降は天地と与に窮なし。(略)若し夫れ統治権が 天皇に存せずして 天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。(略)政府は愈々(いよいよ)国体の明徴に力を効し其の精華を発揚せんことを期す」
ところが、これではまだ国体の明らかにされ方が十分ではないと右翼が騒いだため、二ヵ月後の10月に、政府は再び次のような第二次声明を出すにいたる。
「曩に政府は国体の本義に関し所信を披瀝し以て国民の攜ふ所を明にして愈々其の精華を発揚せんことを期したり。抑々(そもそも)我国に於ける統治権の主体が天皇にましますことは我国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。(略)然るに浸りに外国の事例学説を援て我国体に擬し統治権の主体は 天皇にましまさずして国家なりとし 天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は神聖なる我国体に悖り其本義を愆るの甚だしきものにして、厳に之を芟除せざるべからず」
「芟除」とは、雑草を刈り取るように取り除くことをいい、要するにこれは政府として、天皇機関説を社会から抹殺していくという決意表明だった。
実際、美濃部の著書は発禁処分となり、それまで、どこの大学、高校でも教えられていた天皇機関説は、ついにどこでも教えられなくなった。
美濃部はさらに出版法違反で検事局の取調べを受け、起訴猶予となったが、その日、美濃部は貴族院議員の辞表を提出させられる結果となった。
しかし美濃部は、自分の学説をひるがえすとか、自分の著書が間違っていたことを認めることはしなかった。
◆ 加藤弘之の変節の原因
が、いくら排撃されても、毅然として自己の主流を貫き通そうとした美濃部に対し、美濃部に先立ち、美濃部と同様の学説を主張していた東京大学初代綜理・加藤弘之のほうは、
右翼からの排撃を受けるや、自分の学説を改め、これまでの自分の主張は誤っていたといい、自分の学問的生命を放棄し、醜名を死後に残す結果となった。
美濃部達吉の天皇機関説問題と、加藤弘之の『国体新論』問題は、問題の性質がほとんど同じで、加藤が好んで引いていたフリードリッヒ二世の「自分は国家第一等の高官たるにすぎざるのみ」という言葉は、天皇機関説と発想がほとんど同じだった。
加藤は、日本ではいまだに天照大御神と天孫降臨伝説を持ちだし、それ以来天皇家の血筋が万世一系でつづいてきたことをもって、権力の権威づけをしている国学者たちを批難し、こういう連中は野鄙陋劣の国体論者だと、口をきわめてののしったが、彼が罵倒したその主張は、美濃部の天皇機関説を排撃した軍部・右翼連合の主張そのものだった。
しかし加藤は、美濃部が受けたような批判を自身が受けるや、その途端、自分が書いた『国体新論』等の著作を、「謬見妄説往々少からず、為めに後進に甚だ害あるを覚え」と述べて、ことごとく絶版に付しただけでなく、すでに世間に流布してしまった書に関してまでも、
「之を閲覧せらるる諸君は、右等の書を以て、決して余が今日の意見に合するものと認めたまはざらんことを希望す」という新聞広告まで出してその主張を完全に撤回する宣言を行った。
・海江田信義による加藤への脅迫
それまで近代化日本の啓蒙思想家として君臨していた東京大学初代綜理・加藤弘之が、自説の撤回という変節を遂げたきっかけは、元老院議官・海江田信義の抗議を受けたことが要因だった。
海江田信義は旧薩摩藩士で、島津久光の側近だった人物で、薩摩藩の中でも旧エスタブリッシュメントに属する人物だった。
「元老院」とは、明治8年(1875)に設けられた立法機関で、1890年に正式の国会が開かれるまで過渡的に設けられていた立法機関。
議官は選挙で選ばれるわけではなく、天皇によって勅命で選ばれた。
海江田は元老院議官になって間もなく、「『国体論』排斥の建言書」を、太政大臣の三条実美、左右大臣の有栖川宮と岩倉具視に提出したが、
このとき海江田は、
「加藤を刺殺しかねないいきおいで加藤に膝詰談判をしたので、加藤も大いにあわてて自分で絶版にふした」(大久保利謙『明治文化全集2』より)
のだという。
海江田は「『国体論』排斥の建言書」において、最近の言論は政府攻撃のオンパレードだが、こういう言論を野放しにしておけば、やがて、過激な議論ほど好んで読まれるようになり、そのうち日本の国体、政体を変更すべしとの議論が出てきて、世の中がそれに動かされることになるにちがいないから、今のうちに不逞の徒を狩り出して、これを厳罰に処すことが国家の急務だとした。
海江田がこの建言を書いた明治14年という年は、「明治十四年の政変」と呼ばれる明治時代最大の政変が起きた年で、薩長藩閥支配をよしとしない大隈重信以下の多数の政府高官たちが一斉に下野した直後のことだった。
ことと次第によっては政権がいつひっくり返ってもおかしくないという政治危機の状況下にあって、
海江田は不穏当な言論の代表として、『国体新論』の加藤弘之に狙いを定めた。
海江田は加藤を「我が国開闢以来未曾有の逆賊」、「恐レ多クモ我帝室ヲ廃シ奉ラント陰謀スル大逆賊ナリ」といい、さらに、
「是レ実ニ余輩臣民ノ誓テ倶ニ天を戴クベカラザルノ逆賊ナレバ、之ヲ今日ニ駆除スルハ、急務中ノ最大急務ニ非ズシテ何ゾヤ」
といって批難し、許せないやつだから「駆除」してしまわなければならないと訴えた。
このような思想の持ち主に「刺殺しかねまじき勢いで膝詰談判」された結果、加藤はそれまでの自説の全てを撤回したのだった。
・海江田の建言を受けた岩倉具視ら政府高官が、海江田の要求を受け入れて加藤に自説を撤回するように要請
一方、海江田の建言を受けた政府高官の間でも、加藤の『国体新論』は問題視されているところだった。
というのも、明治14年における不穏な政治情勢の中にあって、自由民権派の中で、政府の弾圧に抗議するために、日本政府の所管から出てしまおうと、国籍離脱の願書を出した者が何人かいたそうなのだが、これは、加藤の書いた『国体新論』の影響だではないかということが問題視されていたのだった。
司法卿の大木喬任は、
「そういうことが起きる背景には、加藤弘之の『国体新論』に対して政府が何の措置も取らなかったということがある。あれが許されるなら、何でも許されるということになったのではないか」
といい、それに対し佐佐木高行は、
「しかし、あの頃は政治的風潮が今とちがっていた。『国体新論』などととやかくいったりすると、頑固者といわれかねないような雰囲気がった」
という、当時の状況を語った。
しかし、
「そうだったかもしれない。しかし今は加藤は大学総理で影響力も大きい。このまま捨ておくわけにもいかなだろう」
という岩倉具視の判断によって、加藤本人には政府のほうから内諭して、無理に退官させるのではなく、自分のほうから絶版を申し立てるようにさせ、また、自ら天下に悔悟の意を天下に表明させるということになったのだという。
そして加藤はその処置に素直に従い、自ら『国体新論』を絶版にした。
しかし、明治14年12月1日(加藤が郵便報知新聞に問題の広告を出した一週間後)の朝野新聞は論説で「加藤君の著書絶版せしを論ず」と題し、
「之ヲ絶版スルヲ要セズ。且ツ毫も滅版スベキノ理由ナキモノナルニ、加藤君ガ狼狽シテ、他人ノ意ヲ迎ヘタル如キハ、卑屈ニ非ズシテ何ゾヤ」
と、痛烈に批判した。
◆ 自説撤回後の加藤弘之の驚くべく「変節」
加藤の変節は、単に海江田からの脅迫同然の抗議を受けて自説の撤回をしただけではなかった。
なんと加藤はひとたび自説を撤回するや、彼は、天賦人権説だけでなく、人間の心理のかかわるあらゆる学問、哲学、政治学、科学などそのすべてが、「妄想」から出たものだと言い出すようになる。
加藤は、天賦人権説など妄想の最たるものだという。
なぜ妄想かといえば、万人に平等に生まれながらに与えられた権利などというものが本当にあるのかという「実存」を確かめていないからだという。
「古今未曾有の妄想論者とは誰ぞ。すなわちかの有名なるルウソウ氏[仏人]これなり。
この人、天性慷慨激烈にしてたまたま仏国王権極盛の世に出でて、その専制抑圧に遇いて憤懣の情に堪えず、ために着実に事理を研究するあたわず。
ついにおのれが妄想に誤られて、かの著名なる民約論を著し・・・・・・」
ルソーの民約論(「社会契約論」)は、まだ絶対主義支配のもとにあった欧米各国で広い支持を得、フランス革命、アメリカの独立運動の基盤になり、日本の自由民権運動のバイブルにもなったことはよく知られているが、加藤は、フランス革命も全否定する。
「仏国人民はその性もっぱら軽躁なるがゆえに一朝民権の熾盛なるを得たるより、ついにこれを濫用して、ほとんど底止するところなきにいたり、人民多数の選挙を得たる共和政府はほしいままに君主を弑し、貴族・僧徒を屠り、ついに前古無比の暴政を施すこととはなれり。これけだし天賦人権主義の極度に達したる最大結果というべきなり」
そして欧州では、人賦人権はあるとはいっても、
「多くはこの権利をもって、人民が政権に参与するの権利をもともと包括するものとはなさず、畢竟私事を自由に処分して、あえてみだりに政府もしくは他人の干渉抑圧を受けざるの権利、すなわち実に人類たるにたる品位を保有するの権利たるにすぎなしとなし」
という程度になってしまったと。
加藤の説くに、ダーウィンやラマルクの進化思想によって明らかにされたのは、この世は動植物の世界も、人間の世界も、すべて生存競争と自然淘汰作用によってなりたっているということで、そしてそこでは、必然的に弱肉強食、優勝劣敗の世界とならざるをえず、そのシビアな弱肉強食の世界では、天賦人権説など妄想にすぎないのだとした。
「万物法の一個の大定規たる優勝劣敗の作用は、特に動植物世界に存するのみならず、吾人人類にもまた生ずるものなるを了知すべし。
吾人人類体質・心性においておのおのの優劣の等差ありて、ために優勝劣敗の作用、必然吾人人類世界に生ずるの理、すでに疑いを容るべからずとすれば、かの吾人人類が人々個々生まれながらにして、自由自治・平等均一の権利を固有せりとなせる天賦人権主義のごときは、実にこの実理と矛盾するものたることは、すでにはなはだ明瞭なるにあらずや。
実理と矛盾するものはすなはち妄想と称せざるをえず」
と、ここにおよび加藤は、人類の自治や平等の権利を生まれながらに持っている天賦人権説など科学に矛盾する妄説だと断じて吐き捨てるにいたった。
そして、人の世界ではそれぞれの体質や心性において、優劣の差が生じるのだって当然のことなのだと。
つまり、人には差別があって当然なのだと。
しかしこの加藤の『新人権説』なる主張は、天賦人権説によって立つ自由民権論者たちからの論駁が相次ぎ、植木枝盛、馬場辰猪、矢野文雄などの論者からも、その『国体新論』絶版事件を合理化するため、かじりかけの進化論をもとにあまりに促成栽培的にでっちあげられたお粗末な主張に対し、ほとんど滅多打ちの攻撃と嘲弄を受ける結果となった。
加藤はそれに反撃することもできなかったが、しかしその後も東京大学、帝国大学の総長を長く勤め、高い位階や叙勲をたくさん授かり、元老院議官や貴族院議員、宮中顧問官といった高官を歴任するなど、終生、高い栄誉を与えられる人生を送った。
しかし美濃部達吉が拘ったような、学者としての生命は失ったままで終わってしまった。