第三章(初代東大学長・加藤弘之とその政体論)
第三章「初代学長・加藤弘之の変節」より、明治維新後、新政府によって統合された「東京大学」が、文部大輔の文部大丞の江藤新平と加藤弘之のコンビによって国学皇学派が排除され、洋学中心の教育機関となった過程について。
◆ 明治という国家の骨組みを作った加藤弘之
帝国大学になる以前の「東京大学」が設立されたのは明治10年(1877)で、初代の総理は、開成学校の総理嘱託だった加藤弘之。
加藤は、開成学校の前身である蕃書調所の教官(教授手伝)の一人で、もと出石藩(兵庫県出石郡)出身の蘭学者だった人物。
蕃書調所の主たる任務は、教育ではなく、文献の翻訳など、西欧文明の吸収そのものだった。
加藤は、蕃書調所でドイツ語を習得し、これが日本におけるドイツ学のはじめとなった。
加藤は、兵法を学ぶために洋学をはじめたが、ドイツ語をはじめたあたりから、むしろ、法学、哲学、政治学、倫理学などを専門にするようになり、
幕末から明治初期にかけて、啓蒙政治思想家の筆頭にあげられるようになった。
その後、加藤は、学会においては、東京大学総理、帝国大学総長、帝国学士院長などをつとめ、官僚としては、文部大丞(現在の文部省局長といったところ)、外務大丞などを歴任したあと、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、枢密顧問官などをつとめた。
加藤は、明治の学界、官界の大御所中の大御所ともいうべき人で、歴代の東大総長の中でも、これほど国家と一体化していた人はいなかった。
加藤弘之は、明治という国家の骨組みを作ったファウンディング・ファーザーズの一人で、
加藤の『国法汎論』は、国家はいかにあるべきか、国家は法的にどのように構成さるべきかを論じた大著だった。
・加藤弘之の「国体論」
明治時代、天皇には、侍講、侍読といって、いろいろ勉強してもらうための家庭教師がいた。
和漢洋それぞれの立場からの教師役がいたが、加藤は洋学者の立場から、天皇に西洋文明を講釈した。
明治新政府ができるとすぐに「政体律令取調御用掛」を置いて、新国家の基礎的あり方の研究にとりかかったが、その役に任ぜられたのが加藤だった。
当時の日本で国家のあり方(政体)について一番詳しいのは加藤だと思われていた。
明治のはじめに、福沢諭吉が『西洋事情』で、西洋諸国が政治的にどう構成されているかを一般に説いて大ベストセラーとなったが、加藤はそれよりも五年も前の文久元年に、『隣草』という本で、西洋の政治制度について詳しく述べていた。
「余はなお坪井塾に居る頃で二十六歳の時に、初めて『隣草』と題する小冊子を著述した。
是れは西洋各国には議会というものがあって、政府の専制を監督防止する制度が立って居ることを述べたもので、
実は当時の藩政を改革する必要があると考えていたのであるけれども、それを露骨に述べることができぬゆえ、支那の政治の改革というような意味にして述べたから、それで著名を『隣草』としたのである。(略)吾邦で立憲政体の事を論じたのは此の書が一番初めである」(加藤の自叙伝より)
明治新政府の政治体制は、王政復古の大号令とともに、まず、古代王朝の太政官制を復活させるという形をとった。
しかし、朝令暮改の連続で、慶応三年の総裁・議定・参与の「三職制」にはじまり、慶応四年に「三職八局制」、同年「七官制」、
明治2年の「二官六省制」、明治4年の「太政官・三院・八省制」など、国家体制は転々とした。
結局、明治18年(1885)の「内閣制度」創設(太政官制度廃止)を経て、明治22年(1889)の「帝国憲法」発布(立憲君主制の成立)にいたるまで、日本の政体は揺れ動いてすっきり定まらなかった。
加藤弘之の説いていた政体論とは?
加藤はまず、政体には「君制」と「民制」があるという。
君制には、「君主専制」「君主専治」「上下同治(君民同治)」とがある。
「君主専制」とは、君主が生殺与奪の権を一人で握り、自分のほしいままに臣民を支配する政体。
「君主専治」とは、やはり君主が一人で支配権を握り、臣民に政治参加の機会を与えない政体だが、「ただ習俗おのずから法律となりて、やや君権を限制するところあり」という点が君主制と違う。
「上下同治(君民同治)」とは、「君主万民の上にありてこれを統御すといえども、確乎たる大律を設け、また公会といえるものを置きて王権を殺ぐものをいう。ヨーロッパ諸国のごときみなこの政体なり」というもので、要するに憲法と議会を置く立憲君主制のこと。
一方、民制には、「貴顕政治(貴族制)」と「万民共治(共和制)」とがある。
「万民共治(共和制)」はアメリカでやっている政体で、「万民の中にて有徳にして才識万人に勝れ、人望もっとも多き者一人を推し、年期をもって大統領となし、もって牧民の責に任じ、また公会の二房を設けて、毎年一、二度この公会を会聚せしめて国事を議せし」むというもの。
しかし、共和制は、アメリカに南北戦争が起きたことからもわかるように、国家のまとまりが悪く、政治の乱れが起きやすい欠点がある。
加藤は、世界各国の政体は、すべからくこの5つの政体のどれかに属するが、
「君主専制、君主専治、貴顕政治等のごときはみないまだ開化文明に向わざる政体なり。なかんずく専制のごときは蛮夷の政体にして、もっとも悪むべき賤しむべきものなり」で、
結局、「五政体中、公明正大・確然不抜の国憲を制立し、もって真の治安を求むるものは、ひとり上下同治・万民共治の二政体のみ。よってこれを立憲政体と称す」といい、
彼は、議会制の重要性を説いた。
加藤がいうに、大事なことは、「憲法」と「議会」が存在することで、この二つがしっかりしていれば、立憲君主制とも共和制でもうまくいくという。
君主制の欠点は、名君ではなく暗君が登場し、その暗君に奸臣・貪吏が結びつき、彼らに国が盗まれるという危険がある。
しかし、憲法と議会を置いた上下同治(君民同治)の国であれば、暴君が国民を圧迫して苦しめることがはなはだしくなっても、民衆の間から叛逆が起こり、国家を転覆させようとするまでにいたるから、自然に公平な政治に復元するだろうと。
「もし公会(議会)の設けあるときは、暗君といえどもつねに下説を聴き、下情に通ずるがゆえに、自然英明に移ることもあり、また奸臣権を盗まんと欲すといえども、公会下民これをゆるさざるがゆえに、決してその志を遂ぐることあたわざるなり。ゆえに公会を設くるは、(略)実に治国の大本というべきなり」
・憲法と議会による立憲政体を是としながら、”時期尚早”としてその実現には反対した加藤と自由民権運動家たちとの論争
加藤はこのように、議会というものが、国家の安定装置としていかに有用かを力説してやまなかった。
ところが、加藤は、明治7年(1874)に、「明治六年の政変」(征韓論をめぐって西郷以下四参議の下野)で野に下った板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らが、民撰議員設立建白書を政府に出すと、彼はなんとこれに反対。
その理由は、まだ日本では、議会を開設するには、時期が早すぎるということだった。
日本はまだ「開化未全」の状態で、「無智無学の民」が多すぎ、文明が開化した国にしてはじめて適切な制度を、無理に未開の国に導入しても愚論ばかりで役に立たず、どころか害を生ずる恐れすらあり、人民が与えられた自由を適切に用いることができず、自暴自棄的に用いて国家の治安を害する恐れがあると、加藤は主張した。
このような民衆の無智を理由とした議会開設の時期尚早論に対し、民権運動側では、逆に、無智無学なる民を学と智に導くためにも、早く議会を開いて、民衆を政治に参加させることこそ最善の道だと説いた。
民撰議員設立建白書では、現在の政治は「有司専制主義」であると断じ、有司専制から抜け出すには、議会を設けるほかないと主張していた。
有司専制とは、官僚が自分の裁量で好き勝手にやる政治のこと。
この問題の根本には、無学無智と学と智の問題があり、問題が複雑化してくると、どうしても担当官以外わからない問題が多くなって、担当官の裁量にまかされる要素がどんどん増え、有司専制の傾向が生まれてくる。
しかし立花氏の指摘されるに、これはむしろ、情報秘匿と情報公開の問題だと。
高級官僚は確かにさまざまな問題について問題点をよく把握し、何でも知っているように見えるが、それは官僚機構が本質的に情報収集機構になっていて、その上に乗って情報を得ている官僚組織がそう見えているだけにすぎない。
だから、情報公開の原則が広がり、官僚組織が収拾した情報が誰でもゲットできるようになれば、そういう幻想も消えるはずだと。
◆ 皇学・国学派と漢学(儒学)派の争い
ヨーロッパの伝統的大学においては、大学は政治権力と一定の距離を置き(宗教権力とは必ずしもそうではなかった)、政治と大学はそれぞれ独立の歴史を展開してきたが、日本においては、両者ははじめから一種独特の癒着関係にあった。
東大には、蕃書調所からの流れの「大学南校」と種痘所からの流れの「大学東校」とがあり、後に両者が合体して明治10年4月に「東京大学」となっていくが、
実はそれに、昌平坂学問所からの流れの「大学本校」が存在していた。
「蕃書調所→開成学校→大学南校(明治2年12月)→東京開成学校」
「種痘所→西洋医学所→大学東校(明治2年12月)→東京医学校」
「昌平坂学問所(昌平黌)→昌平学校→大学校→大学(明治2年12月)→閉鎖→廃止」
この「大学校」というのは、王政復古によって復活させられた古代王制の行政組織の一環としてつくられた、行政組織上、集議院の次、弾正台の上に置かれたかなりハイランクの組織で、長官は別当と呼ばれ、その下に、大小監、大小丞などの役人がおり、また、教官として、大中小博士、大中小助教などがいた。
別当の役割としては、大学校ならびに開成学校、医学校を監督すること、全国の府藩県の学政を総括することとなっていた。
この大学校とは単なる高等教育機関ではなく、全国の下級教育機関を総括する行政機関でもあり、
大学校の大学別当は、文部大臣であると同時に大学総長でもあり、両者は一個の機関で、行政・学校等の二つの機能を持っていた。
もともと為政者の側にあった「官庁と大学の未分化」というマインドは、その後も、大学問題、教育行政問題の中に首を出すこととなる。
・皇学国学派と漢学(儒学)派の対立、大喧嘩の末、大学本校が閉鎖
「大学校」はもともと昌平坂学問所のあった場所、御茶ノ水前にある湯島の聖堂に置かれた。
教育機関としての大学校は明治三年に廃止とされるのだが、大学校の持っていた教育行政機関的役割は、
文部省(明治4年設立)としてそのまま残り、大学校の廃止後も、湯島聖堂に置かれることとなった。
昌平坂学問所(昌平黌)はもともと江戸幕府の漢学(儒学)の殿堂だったが、それが幕府の敗北とともに、明治新政府に引き渡され、それがそのまま大学校へと移行していった。
そこでは昌平坂学問所(昌平黌)以来の漢学も引き続き教えられたが、新設の大学校中心になったのは、天皇とともに京都からやってきた皇学所の国学派の教授たちだった。
王政復古を実現したイデオロギー的背景として、国学派と復古神道派が結びついた尊皇攘夷思想、神国論、国体論、天皇親政論などを内容とする皇学派の流れがあったが、その流れが京都からやってきて、大学校の主流におさまろうとしたのだ。
皇学所は明治維新後早々にできた皇学派の学校で、公家の子弟を集めて、神典、皇史から律令、詩文、卜筮まで教え、「皇道を遵奉し、国体を弁じ名分を正すべきこと」を教えようとした。
皇学以外の「漢土西洋の学」はあくまで、「皇道の羽翼たること」という考えだった。
だから、皇学派が中心になって作った大学校は、「神典国典によりて国体を弁じ、皇道を尊む」ことをもって目的としていた。
しかし皇学派は、有頂天になって、ゴリ押しをはじめた。
皇学派は、神国日本で孔子を神様のごとくあがめるのはけしからんとして、湯島の聖堂に祭られていた孔子廟に変えて、日本の神様を学問の神様として祭ろうとした。
皇学派は、平田篤胤の説にもとづいて八意志兼神と久延毘古神を学問の神様として選んで、学神祭をとり行った。
しかし、もともとここは漢学の中心だったから学生が猛反発して、国学の先生をボイコットするような騒ぎとなった。
そして、国学派が主張するような大学規則集は集議院で討議すべきということになった。
集議院とは、廃藩置県以前のときに、各藩の代表が集まって討議を行っていた場で、そしてその集議院での討議の結果、国学派は全面敗北する結果となった。
当時はまだ、国学派的国体論は、一般には少数派だった。
皇学・国学派に対し、武家の漢学(儒学)派が勝利した格好だった。
そして両者の大喧嘩の結果、松平春嶽によって、大学本校が閉鎖されるという結果になった。
◆ 江藤新平と加藤弘之によって「東京大学」が洋学中心の教育機関として再興される
つぶれたあとの大学を洋学中心に再興したのが、加藤弘之だった。
明治2年から3年にかけて、諸官省では大きな改革が行われた。
しかし、文部省だけはケンカでつぶれたあとで、手がつけられない状態だった。
教育に強い関心を持っていた木戸孝允がこのままではいけないと、文部大丞の加藤弘之に、どういう人物が文部大臣に必要か求めたところ、加藤は江藤新平を自分の上司となる文部大輔として推薦した。
加藤はもと法制局制度局で江藤と一緒に働いた経験を持ち、江藤の果断さを評価していた。
そしてこの江藤・加藤のコンビにより、学問を国別で分けるというようなことをせず、漢学者皇学者たちの多くがはぶかれて、大学の教授は洋学者中心となった。
江藤新平の文部大輔在任期間は、わずか半月でしかなかったが、江藤と加藤のコンビはわずか半月の間に、日本の教育を洋学中心のレールの上に乗せるという大改革を成し遂げた。
もし議会があって、そこで今後の教育のあり方をめぐってああではない、こうではないの議論をつづけていては、とてもこうはいかず、有司専制の時代なればこその成果といえる改革だった。
江藤と加藤コンビの改革によって洋学中心になったのは大学だけではなかった。
このときちょうど、文部省は、日本全国すみずみまで初等教育の学校を作り、国民教育をはじめようという「学制」の準備中だったが、文部省の役人の中からも、皇学派、漢学派がほとんど追いやられ、洋学派中心になっていたため、洋学中心の学制がスムーズにできあがることとなった。
明治の指導者たちは、そろって開国論者で、共通目標は、富国強兵によって一刻も早く欧米先進国に追いつくことにあり、そのために重要なことは何かということが、彼らには深く認識されていた。
その後の日本の学制を中心になって作っていったのは、箕作麟祥、岩佐純ら、大学南校、東校から文部省に出仕していた洋学者たちだった。
当時は、大学と政府の間の垣根が低く、大学教官がその身分を保ったままで官僚の仕事もするというような状態だった。