第一章、第二章(東大の前身となった「蕃書調所」と「種痘所」と東大設立までの流れ)
立花隆『天皇と東大』。
第一章「東大は勝海舟が作った」と、第二章「明治四年、東大医学部は学生の八割を退学させた」の部分のまとめ。
東大の前身となった、「蕃書調所→開成学校→大学南校→東京開成学校」(東大法学部、文学部、理学部の前身)と、「種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校」(東大医学部の前身)という二つの流れについて。
◆ はしがき
・東大の学力低下問題
戦前期(初期東大時代、帝国大学時代をふくめて)、日本の高級官僚は、行政官も外交官も東大法学部がほとんど一手に供給してきた。
東大型の秀才(いわゆる学校秀才)の頭の特徴は、人から教えられたことを丸暗記的に覚え込み、それを祖述する(その通りに繰り返す)ことは得意とするが、自分の頭で独自にものを考えるクリエイティブな思考は苦手。
日本の学校教育システムは、このタイプの秀才が受かるようにできているから、東大にはこのタイプの秀才がゴロゴロいる。
そして東大を卒業したあとに、そのような秀才が各界にエリートとしてふりまかれていくから、日本では、エリート層全体のクリエイティビティが低い。
東大秀才のこのような欠陥を、明治時代にドイツから招かれて法学部の教官をしていたハインリッヒ・ヴェンティヒが早くも指摘していた。
「極めて希少なる例外を除き、予の検閲したる総ての試験答案に共通なる特質は、出来得る限り、自己の独立の判断を避けんとするの傾向是なり。是等の答案は実際一、二講義筆記の全文を暗記し、往々其儘之を答案に記載したるに過ぎず」(「東大法学部は『湯呑み』を量産している)
◆ 第一章 東大は勝海舟が作った
・明治の指導者が力を入れた「国民皆教育」制度
明治の指導者たちは、教育を何よりも重んじ、国造りのために、国民皆教育の理想を掲げ(天下ノ人民ヲシテ不学ノモノナカラシム)、国家が中心になって初等教育(小学校)、中等教育(中学校)、高等教育(大学)の教育機関を全国にシステム的に配置してしまおうとした。
(ここでいう小学校、中学校、大学がそれぞれいまの小学校、中学校、大学に対応しているわけではない)
この教育システムは大学中心に構想されていて、小学校、中学校は、大学に「隷属」するものとして構想されていた。
教育の中心は大学にあり、中学、小学はそこに入れる人を育てるためにあった。
しかし、この教育という大事業は、もっぱら政府による上からの統制と指導で実現したのではなく、実は、明治の最初期においては、政府に全国的に学校を展開していくだけの資力もエネルギーも人材もなく、力が足りない政府に代わって、全国的な教育普及を実現していったのは、全国の国民レベルのパワーだった。
「地方の地主たちは国民教育の必要を悟り、多額の金を寄付して学校の設立を助けた。徳川時代以来、蓄積された彼らの富と知識と、地方文化に対する責任感とが彼らを動かしたのである。また一般民衆も徳川時代以来、寺子屋に通う習慣があり、教育尊重の気持ちは強かった。こうして国民教育は急速に普及し、明治末年には就学率が95パーセントを越えた」(吉田茂『日本を決定した百年』)
・東京大学の前身となった「大学南校」と「大学東校」
東京大学の源流は、大きく二つのものがあり、一つは、法学部、文学部、理学部につらなる、「大学南校」の流れと、
もう一つは、医学部につらなる「大学東校」の流れ。
「大学南校」のほうは、淵源は江戸幕府の「天文方」にまでさかのぼる。
天文方は、江戸時代、組織的に翻訳事業を行っていた。
日本の洋学の源流は、1774年に杉田玄白たちが『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を出版した、医学における流れと、
もう一つ、1803年の高橋至時による『ラランデ暦書』の翻訳『ラランデ暦書管見』の、天文学における流れとに分けられる。
はじめ日本の暦学者たちは、中国経由の西洋天文学の知識を再輸入するだけですましていたが、やがてそれでは、くいちがいが出てきたために、長崎のオランダ通詞経由で、その知識を直接ヨーロッパから求めようとした。
古代より正しい暦を宣布することは政治権力者の権力の証しの一つで、鎖国化にあっても、このようなヨーロッパ天文学の知識導入の動きは、幕府公認のものとして行われた。
そのような流れの中で、やがて『ラランデ暦書』も入ってきた。
・外国船の来航事件が増えたことにより、江戸幕府の天文方が強化されて洋学の研究機関へと変貌
1853年のペリー来航以前にも、露使レザノフ(1804)、フェートン号事件(1808)、ゴローニン事件(1811)、米船モリソン号事件(1837)など、19世紀に入ると、外国との接触が増えはじめたため、幕府の側でも、外国に関する正しい知識の入手が必要となり、文化8年(1811)、天文方の高橋景保を「蕃書和解御用」に任じ、組織的に翻訳活動をさせることとした。
幕府では従来、昌平坂学問所(「昌平黌」)の儒官たちが、「異国書翰和解御用」として、外交文書の翻訳等を扱うことになっていた。
それは、中国以外の国が日本に接触を持とうとするときでも、中国語のなかだちにするのが常だったから。
しかし、外交交渉が増え、中国語を介さない直接のやりとりの交渉や、外国の周辺情報の収集の必要性が増してくると、昌平黌の儒官たちは全く無能だった。
・天文方の「異国書翰和解御用」が「蕃書調所」に
さらに、西洋軍事技術の導入がはかられたことにより、翻訳のみならず、広く外国事情の情報収集とその研究を行うため、安政二年に「蕃書調所」が設置されることとなった。
蕃書調所では、「各国の強弱虚実、水陸軍の模様、器械の利鈍」などを調べることとし、砲術学、砲台、城砦の建築法、軍艦の製造法、運用法、航海術、測量術、練兵術などが習得目標として掲げられ、ほとんど外国事情に関する総合大学のようになった。
・抜擢された勝海舟が「蕃書調所」のマスタープランナーに
「蕃書調所」は幕末の洋学の中心になったが、これを中心になって組織したのが勝海舟だった。
勝は当時、小普請組に属していた微禄の下級武士に過ぎなかったが、ペリー来航に際して、勝が老中に提出した意見書が認められて、抜擢されることとなった。
勝はこのころ既に、蘭学塾を開いて蘭学、および西洋兵術書の講義をはじめていて、勝はペリーの来航に対し、西洋風に兵制を改革し、軍艦を作り、火薬、武器を製造し、兵を西洋風に教練することなど軍事面に広く及ぶ具体的な提案を行うと、勝は、異国応接係に任命されていた川路聖謨、岩瀬忠震ら、幕末の外務官僚にとりたてられ、蕃書調所の設立準備委員のような役目をおおせつかる。
勝は、全国の著名な洋学者をリストアップして、69名を推挙した。
箕作阮甫、杉田成卿、津田真道、寺島宋則、加藤弘之、箕作麟祥、大村益次郎、西周、杉田玄端といった人々が教官となり、この中から将来の東大教授も、東大総長(加藤弘之)なども出てくる。
そしてこの「蕃書調所」が明治初期には「開成学校」へと名前を変え、さらに「大学南校」→「東京開成学校」となり、明治10年4月に「東京大学」となった。
◆ 第二章 明治四年、東大医学部は学生の八割を退学させた
・東大医学部につながる「種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校」の流れ
東大医学部の歴史は、江戸時代の「種痘所」の設置にまでさかのぼる。
19世紀まで、天然痘は世界で最もふるった疫病で、ヨーロッパでは、毎年40万人が死んだといい、日本でも、江戸時代最も多かった死因は天然痘だったといわれている。
1796年、イギリスのジェンアーが子供に牛痘を接種することで免疫能力を持たせる種痘法を開発し、日本でも、当時バタビアまできていた牛痘の苗(痘苗)を日本に持ってきて子供に接種するようになっていった。
病棟は蘭方医たちのネットワークを通じて、各地に分苗されていき、蘭方医学に理解のある藩では「種痘所」が作られていった。
しかし江戸では、蘭方医学を敵視する漢方医たちが幕府と組んで強い政治力を持っていて、なかなか種痘が広まらなかった。
このころ、蘭学の翻訳、出版は、漢方医の組織である医学館の検閲を経た上で町奉行の許可を得ねばならないと定められたり、幕府の医官が蘭方医学を学ぶことが禁じられたりするなど、蘭方医学に対する風当たりが強かった。
しかし、江戸でも町医者の蘭方医の手によって、徐々に種痘が広められていき、安政5年(1857)、伊東玄朴、箕作阮甫ら、有力蘭方医たち82人がお金を出し合って、お玉ヶ池種痘所を作った。
箕作阮甫は、のちの大学南校となる蕃書調所の最初の教授のほうにも任ぜられた一人で、また、同じく蕃書調所の設立に異国応接係として携わった勘定奉行の川路聖謨が、種痘所の設立に、自身が所有していたお玉ヶ池の下屋敷の一つを提供した。
その後、蘭方医学は、漢方医がいくら排撃しても、実際の効き目でどんどん勢力を伸張させていった。
さらに、将軍・家定の病にお手上げとなった漢方医たちに代わり、蘭方医の伊東玄朴が正式の奥医師として召抱えられると、蘭方と漢方の力関係は逆転。
幕府の医官に対する蘭方の禁令は解除となり、種痘所も官許のもとなった。
そして、万延元年(1860)に、種痘所が幕府直轄機関となると、医師たちの教育や解剖実習などが行われるようになり、文久元年(1861)、種痘所は「西洋医学所」となった。
さらに文久三年(1863)に、西洋医学所から「医学所」となり、松本良順がその頭取になると、本格的な医学教育がはじめられることとなった。
・松本良順による医学教育改革
はじめ、種痘所が西洋医学所に改称されたとき、大坂の適塾から緒方洪庵が医学教育のために招かれたが、しかし適塾の教育方式は、文法書の理解と輪講(会読)による、読解の訓練でしかなかった。
当時、適塾をはじめとする洋学塾にオランダ語を習いにくる者は、必ずしも医者志望ではなく、彼らは語学の基本を学び終えると、それぞれめいめいに物理、化学などの原書を読んで、それぞれの目指す道へと進んでいった。
西洋医学所からさらに「医学所」となり、松本良順がその頭取になると、医学を目的としない学生を退校させるとともに、適塾方式の教育方法を一変させた。
松本は、オランダ医のポンペから、近代医学教育を学んでいた。
松本良順は、順天堂大学・医院の創設者である佐藤泰然の次男で、佐藤泰然は緒方洪庵や高野長英など世代を代表する蘭学者の一人だったが、次男の良順には漢方医学を学ばせ、漢方の大家で将軍の侍医であった松本良甫のもとに養子に送り、松本良順となった。
松本良順はその後、蘭学塾で数年間学んだあと、幕命を受けて、長崎に留学し、できたばかりの「海軍伝習所」に入る。
海軍伝習所は、ペリーの黒船来航にあわてた幕府が、日本も早く西洋式の船を持ち、その運航技術を身につけた人間を育てなければと、オランダの協力を得て、安政二年(1855)に作ったもの。
船も教官もオランダから導入し、伝習生は幕臣や、各藩選りすぐりの若者たちで、その中に勝海舟や榎本武揚らがいた。
海軍伝習所にはオランダから教官の一人として、海軍二等軍医ポンペが派遣されてきていた。
ポンペによる医学教育は系統だった本格的なもので、その教え方もそれまでの医者が臨床的な現場教育を中心にやっていたのに対し、きちんと準備された一連の講義によって、基礎から臨床まで、医学知識の全てを教えようとするきわめて水準の高いものだった。
科目としては、物理学、化学、繃帯学、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論と内科学、薬理学、外科理論及び外科手術、眼科学、産科学、法医学、医事政策などがあり、医学以外に、鉱物学や採鉱学の講義まで行った。
このような本格的医学教育は、日本にはいまだかつてなかったもので、これで日本の医学教育は一変した。
海軍伝習所は、安政6年(1859)に閉鎖されるが、松本は江戸に戻るとすぐに西洋医学所に入り緒方洪庵頭取の下で、「副頭取」という副頭取格になり、そして洪庵の死後、頭取となって医学教育を一変させることなる。
・ミュレルとホフマンによる医学教育の再興
医学所はその後、、開成所とともに、慶応四年(9月から明治元年)の6月、幕府から新政府に引き渡され、すぐに医療機関として復活するが、しかし、徳川幕府時代から明治新政府時代への移行にともなう社会的混乱の中で、教育機関としての体制はガタガタになってしまっていた。
医学所の後身、「大学東校」において、本格的に医学教育の復興がされるのは、明治四年(1871)、ドイツから招聘された二人の医学教師、ミュレルとホフマンが着任してから。
医学所から医学校、そして大学東校となって、そこでの教育水準は大幅に低下していた。
「ミュレル等が着任した時には凡三百人の学生が医学校にいたが、彼等は大きな机に十人乃至十六人宛坐っていた。銘々が皆一ツ宛の火鉢と、煙草や煙管とを持って席に就いていた。其大机には机毎に一人の監督が坐を占めていた。学生は当時、ヒルトルやヘンレーの解剖書を繙いていたが、之を解するに通訳の助を借りても尚お困難であった。〔略〕其頃の医学教育は無秩序であって、解剖や生理の知識が全く欠乏していながら、すぐ臨牀医学に取り付いたのだった。心臓病の講義を聴いておる学生が、まだ血液循環の理すら会得していなかったのであった。そこでミュレルとホフマンは各々一週間六時間宛解剖学を通訳で教授した。併し一体に学生の年齢も老いており、素質も良くなかった。仍てミュレルは明治四年の十二月に文部卿大木喬任の同意を得て、学生中選択して僅かに五十九人だけを残し、他は皆な修学を止めさせた」(入澤達吉『レオポルド・ミュレル―本邦医育制度の創定者』)
ミュレルとホフマンは、学生の水準があまりに酷かったため、学業の立つ見込みなしとして、八割もの学生の首を切ってしまった。
ミュレルとホフマンが行ったもう一つの改革は、予科の教育水準が低すぎるとして、予科の水準をあげたこと。
当時の医学校は、予科2年本科3年、あわせて5年を修業年限としていた。本格的な医学教育は本科で行い、予科はその準備期間だった。
しかし、その予科の教育内容があまりに低く、「洋字、単語、文典、地誌。物理、化学、算術」がその教育科目だったが、そのレベルは現代における中学一年生程度のものでしかなかった。
ミュレルとホフマンは、予科教育のための教師をドイツから呼んで、「代数。幾何。自然科学序論。地理。歴史。理化学。博物学。ドイツ語。ラテン語」などの科目を予科に取り入れた。
一般教育をしっかりやってから専門教育へというのがヨーロッパの大学教育の伝統に根ざした発想だった。
学生はすべて寄宿舎に入れられ、次のような寄宿舎での罰則が設けられた。
第一条 詐りて不快と称し及び無届欠席する者は一週間別室禁固の事
第二条 夜間窃かに脱して外泊し翌朝講義に帰舎する者は十日間別室禁固の事。但し翌終日に及ぶ者は二週間禁固の事。
第三条 講席遅刻十分に至る者は三日間禁足。三十分に至る者は五日間禁足せしむる事
第四条 酩酊の上他人と口論に及び又は他席に乱入して勉強を妨ぐる者は一週間禁足の事
第五条 縁側及び二階より小便する者は一週間禁足の事。
第六条 門限を破る者は五日間禁足の事。
第七条 教師講義中高声談笑する者は一日禁足の事
かなり厳しい規則だが、不勉強、犯則等で成業の見込みなしとして退学になるものがかなりいたという。
・超高給取りだったお雇い外国人
幕末から明治にかけて、外国をよく知るようになるにつれ、オランダの評価はガタ落ちになり、医学においても、ドイツが世界一だと認識されるようになった。
その後さらに多くのドイツ人教師が呼ばれたが、これには大変な経済的負担を要した。
医学校時代から東大時代の初期にかけて、毎年12、3名のドイツ人教師がいたが、その給料の総額は一ヵ年で四万円、現在の価値で実に三億円以上になった。
しかし、明治初期の日本において、いちばん必要とされていた高等教育は、医学だったから、どんなに金を払っても、優秀なドイツ人教師が欲しかった。
明治17年(1884)、東大の法学部、理学部、文学の学生は合わせても153名しかおらず、正科以外の学生を合わせても341名しかいなかったが、その年の医学部学生は、本科、別科、製薬学科合わせて760名もいた。
・近代日本のグランド・デザインまでしたフルベッキ
外国人教師で最も有名なのはフルベッキで、彼はもともとアメリカ人宣教師だったが、大変な学識がある人で、幕末の長崎の洋学所、佐賀の藩校で英語、政治、科学、軍事などを教えるうちに、大隈重信、伊藤博文、横井小南などを教え導くこととなり、維新後は新政府に呼ばれて上京し、開成学校の教頭を勤めることとなった。
フルベッキは日本の高等教育の基礎を築くだけにとどまらず、新政府の顧問役となって、教育、行政のあらゆる方面で建言を行い、大きな影響力を発揮するまでになった。
特に重要なのは、明治四年から六年に亙って、岩倉具視以下、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、明治新政府の指導的メンバーを揃えた総計48名の使節団が欧米を1年10ヶ月かけて回った際に、フルベッキは新政府の指導者たちにこの時期に世界を見ることの意義を力説し、具体的にどこに行って何を見学してくるべきかを助言し、手はずをととのえ、どこに行ったときには、どういう人にどう言うべきかの口上まで考えてやった上で使節団を送り出した。
フルベッキはこの旅行をオーガナイズすることで、近代日本のグランド・デザインを描いた存在となった。
・お雇い外国人たちの日本政府への不満
明治新政府は、教育以外の面でも、多数の外国人を雇い入れた。
特に、殖産興業、富国強兵が明治の国家目標であったため、工部省はお雇い外国人が多く、給与面での文部省の外国人に対するほとんど三倍の額を支払い、それは工部省予算の三分の一にのぼったという。
それによって、明治政府は殖産興業の目標を達成したが、しかし、東大医学部に内科の主任教授として赴任し25年間も奉職したベルツなどは、西洋の科学技術の成果だけを手軽にもぎとろうとする日本人の態度を批難した。
ベルツは、日本人はお雇い外国人を果物の切り売りする人でもあるかのように扱うが、その果実を実らせるまでに、種をまき、大きな樹になるまで長い時間をかけて大切に育てあげるようにしたということを忘れているといったという。
立花氏は、日本の近代化というのは、明治のはじめからこれで、何でも金さえ出せば買えると思い、成果だけを買ってきて、それをどうやって生み出したかを学ぼうとしない。自ら種子をまくことや、若木を育てる努力を惜しむから、いつまでたっても自分で新しいものを作り出せず、昨今の日本が陥っている苦境も、その根っこにあるのは、これなのだ、と批判する。