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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

トイレのドアを開けたらトイレが無かった

作者: 久良 楠葉

 あんまりなことに俺は凍りついた。力の抜けた手から逃げ出したドアが、キィと耳障りな音を鳴らした。漏れてはいけないものもチョロっと漏れた。


 トイレのドアを開けたらトイレが無かった。トイレットペーパーはある、電気もついている、掃除用のトイレブラシもいつも通り置いてある。トイレの便器だけが忽然と姿を消していた。


 俺は慌ててドアを閉めた。まだバクバク言っている心臓を押さえて、深呼吸。


 なにかの見間違いだ。そうだ、俺は寝ぼけてるんだ。だって時間は深夜0時、ネットをやっていて寝落ちして、夢半分うつつ半分でトイレに来たんだ。


 だからきっと、もう一度ドアを開ければ。俺は祈るような気持ちでドアノブを手にした。


 そうやってトイレのドアを開けたら――トイレが、無かった。トイレットペーパーはある、電気もついている、掃除用のトイレブラシもいつも通り置いてある。トイレの便器だけが忽然と姿を消していた。


 ……違う。トイレの便器があった床に、トイレの便器と同じ色のものがへばりついている。何度も人に踏まれてアスファルトにへばりついたガム、それと似たような有様だ。トイレの便器を上からすさまじい力で圧縮した、そうに違いない。


 気づいてしまった瞬間、俺は、


「うぉぉあァァぁぁぁッ!!!」


 と、アパートの近所迷惑なんて考えずに絶叫しながら腰を抜かした。ついでに漏れてはいけないものの内、小さい方も勢いづいて流れ出した。


 狭いワンルームに俺の荒い呼吸音が響く。土曜の夜だから両隣とも留守だったのか、それとも大音量の絶叫を無視できる仏の心を持つ隣人なのか、壁ドンされたりピンポンを鳴らされたりはしなかった。幸運なようで、不幸かもしれない。誰でもいいから助けてほしかった、圧縮されたトイレを一緒に見て、この恐怖を分かち合って欲しかった。


 何度見ても便器は圧縮されている。はじめからそういう潰れ饅頭であったかのように、ぺったりと床に貼りついている。これが饅頭なら笑い話だが、トイレだ。固いし、でかい。一体どうやってペラペラに潰した? 誰が? なんのために?


 ……わけがわからなさすぎる。パニックホラーの登場人物になったら、こんな気分なのだろう。とにかく、意味が分からなくて怖い。


 俺は目の前の不条理から逃げるべく、ほとんど這いずるようにワンルームの居室の方へと戻った。びしょ濡れになったパンツとズボンが重かった。だが、気にかけている場合じゃない。


 ほうほうの体でパソコンが置いてあるデスクに行く。電源は入りっぱなしで、まだスリープにもなっていないデスクトップ画面のまま。要するに、トイレに立った時のままだ。


 俺は慌ててブラウザを立ち上げると、震える指でキーボードを叩いて検索ボックスに文字を打ち込んだ。「トイレ 圧縮」、エンター。


「……圧縮袋とか、知らねーよっ! どうでもいいわっ!」


 検索ワードを変えて再検索。「トイレ ぺちゃんこ」「トイレ なくなる 突然」「トイレ 潰される」――なんとかして、俺と同じ目に遭った人の話が出てこないか。この現象の原因が突き止められないか。必死だった。


 何十分もかけて、もうこれ以上ワードが思いつかなくなるまで検索した。しかし、結果は、惨敗。なに一つ似通った話を見つけることができなかった。頑張って英語まで使ったのに。このインターネットでどんな情報でも手に入るご時世に、だ。トイレのドアを開けたらトイレが無くなっていた、そういう現場に遭遇したのは、世界で俺一人だということ。


 ――これ、マジやべえ状況なんじゃねぇの。ホラー的な意味で。


「……ん? 待てよ」


 世界で俺一人だけが経験した理解不能の怪奇現象。恐怖であるが、ビッグチャンスでもあるではないか。ぺっちゃんこになったトイレの写真を撮って、SNSに載せれば、俺は一躍有名人になれるだろう。ショッキングな写真だから、みんな喜んで広める。釣りだ嘘だと言われるかもしれないが、そうなれば、真偽を確かめるために取材が来るはずだ。そしたらトイレを見せて、ガチだと証明してやればいい。


 有名人になって、色々なメディアに出て、オカルトとかそういう研究をしている奴らにも協力して、金をたんまり稼いで――そんな華々しい未来を妄想している内に、恐怖感はどんどん薄らいできた。


 そうすると気になってくるのが、ぐっしょり濡れたズボンのこと。重いし、臭いし、気持ち悪い。


「まずは着替えっかなー。写真と一緒にションベン漏らしたなんて話が広まったら、くそダッセぇからなーハハハ」


 俺は鼻歌まじりにクローゼットに向かった。替えのズボンとパンツは、クローゼットの中の引き出しにしまってある。


 そして扉を開けた瞬間。俺は谷底に蹴り落とされた気分になった。玉もヒュンと縮んだ。


 クローゼットを開けたら、中にあった衣類がすべて圧縮されていた。ハンガーにかけてあったスーツやコート、ジャンパーが、ハンガーごとペラペラに潰されて、下にへばりついている。圧縮袋に入れて掃除機で圧縮したなんてちゃちなものじゃない、第一、圧縮袋にしまってあった毛布までもがもっとペタンコになっている。こんな吹いたらヒラヒラ舞いそうな潰れ方、マンガでしか見たことない。


 一度去った恐怖が戻って来た。それどころか、直前との落差のせいで、トイレの時よりもっとひどい。人間、ほんとうに恐怖しているときは悲鳴も出せないものだと思い知る。


 幸か不幸か、ズボンやパンツがしまってある引き出し自体は潰されていなかった。だが、嫌な予感しかしない。


 俺は恐る恐る引き出しを開けた。


「マジかよ……」


 そう口についたものの、内心、やっぱりなという納得感があった。引き出しの中に入れてあったものは、外の衣類と同じように、ぺっちゃんこに圧縮されて底にへばりついていた。


 しばらく呆然と変わり果てた姿のパンツを眺めていた。だが、さすがに三度目では、一度目二度目ほどの衝撃はない。だから思い切ったことを考える余裕が残っていた。――これ、触っても大丈夫なのか?


 トイレの便器は潰されたらもとに戻りやしまい。だが、布ならどうだ? 型は崩れたり、ボタンやジッパーは壊れたりするだろうが、パンツのようなシンプルな物だったら平気そうだ。そう、洗濯機で脱水した後と同じで、広げて干せば元に戻る。


 怖いのは、潰れたもの触った瞬間、このぺちゃんこ現象が俺の手に感染して、俺がミンチにされること。死にたくないし、そんな死に方嫌すぎる。


「なんか、なんか道具……」


 部屋の中を見渡して、一番最初に目についたハサミを掴んだ。


 ハサミをぎゅっと握りしめ、刃は閉じたまま、先端で引き出しの底にへばりついた物体に触ってみる。はじめは、ちょんと一瞬だけ。


 ……何も反応は無い。次は触ってしばらく待ってみたが、やはり変なことは起こらない。軽くひっかいてみても同じだ。


 緊張が解けて、はーっと長い溜息がもれた。


 それから、ハサミの先で圧縮されているパンツとズボンをガリガリひっかいて、引きはがした。さすがに手で直接さわるのはためらわれた。圧縮は見た通りとんでもない力で行われたらしく、引き出しにしまっていた物が完全にくっついて一体化しており、剥がすのにはかなりの時間と力が必要だった。少しずつ削り落としたと言ったほうが正しいかもしれない。


 とりあえずパンツとズボンを一枚ずつ確保して、それに着替えた。どちらもペラペラしわくちゃで干物のようになっていたが、洗濯を干す時みたいにパァンと振れば、多少もとのように伸びた。こじ開けた隙間からむりやり足を通せば、シワシワでゴワゴワで着心地は最悪ながらも、一応、普通に履くことができた。履いた瞬間に足がなくなることも頭の隅に置いていたが、杞憂だった。


「よし。勝ったぞ」


 怪現象破れたり、俺は無事に新しい服に着替えられた。ションベン臭くないズボンは最高だ、それだけで心が少し軽くなる。


 だが、同時にどっと肉体的な疲れを感じた。頭も少し痛い。


 ふと時計を見る。深夜二時。いつもなら寝ている時間だ。頭痛は眠気から来ている分もあるし、晩飯から時間が経って腹が減っているせいでもある。もちろん、わけのわからない現象に振り回された疲労そのものも大きいが。


 一旦寝るにせよ、徹夜してSNSに投稿する準備をするにせよ、腹になにか入れてエネルギーをチャージしないとキツい。


 ――冷蔵庫にあれがあったな。


 ぱっと思い描いたのは、いわゆるゼリー飲料。このまえ風邪で喉が痛かった時に大量に買って、残りがまだ冷蔵庫に入れっぱなしになっている。非常食になると思って残しておいてよかった。


 そうやって冷蔵庫の中へ意識を向け、足先を変えた瞬間だった。


 バキバリベキゴリガシュブシャービチャグチャッ、ビチョッ


 そんな、擬音で形容しがたい破壊音が、冷蔵庫の中から発せられた。


 俺は悲鳴をあげて飛び上がった。何が起こったのか察しがつく、ついてしまう。今、この瞬間、また圧縮が起こった! 勝ったと浮かれた俺を、地獄の底に叩き落とすように。


 俺は目をカッと見開いて、ぜえぜえと息を荒げながら、冷蔵庫のとってに手をかけ、一思いに勢いよく開けた。


 パッと冷蔵庫の明かりがつく。


「お、おぉぉぉ! うぇぇぇ……」


 吐き気がするほどおぞましい光景があった。原型がわからないほど潰れて棚板にへばりつく、色とりどりの物体。俺が飲もうとしていたゼリーのパウチも、タマゴも、ビールの缶も、安売りしてたちょっとイイ肉も、ペットボトルも、他のなにもかもも含め、ぐっちゃぐちゃになっている。水気が多くて柔らかいものが多かったせいで、今までのトイレや服より生々しくて嫌だ。


 それに、液体そのものは潰れない。だからビールや、ペットボトルのお茶や、マヨネーズや、チューブのニンニクや、そういったものは圧縮された物の上に流れ広がり、すべてが混ざり合い、ゲロのごとき見た目と臭いを放っている。


 とても直視し続けることができなかった。俺はバタンと冷蔵庫を閉めた。端っこから食料の成れの果てが、ドロリドロリと流れ落ち、床に汚らしい染みを作っているが、それを拭く気力も起こってこない。一刻も早く、冷蔵庫の近くから逃げたかった。


「ね、ネットだ……ネットに、晒してやる……」


 当初の目的、SNSで有名になるというのも続いているが。それ以上に、誰かこの異常現象から助けてくれと強く思う。寺生まれの誰かが悪霊退散してくれるでもいいし、どっかの偉い学者が「これは古来より観測されるうんたらかんたら」と真相を教えてくれるでも、どんな形でもいいから救いの手が欲しい。それに、ホラーものの王道として、人に怪現象のことを話して現場を見せようとした瞬間、何も起こらなくなる展開があるじゃないか。俺はそれに懸けてみたい。


 俺はパソコンの前に座ると、某短文が持ち味のSNSにアクセスし、投稿文を打ち込んだ。


『【緊急】【拡散希望】【マジ誰か助けて】心霊現象!?トイレのドアを開けたら便器が潰されて無くなってた!!!他にも冷蔵庫や服もヤラレてグチャグチャ。釣りじゃなくガチで。ヤバイ怖い。次やられるの俺かもしれん・・・誰か助けてくれ・・・』


 ここまで書いて、やっぱり写真が必要そうだと唸った。我ながら、こんな文章だけ見ても、質の悪いネタとしか思えない。


 しかたない、トイレの写真を撮りに行こう。


「デジカメ、電池切れてたっけか……」

 

 デジカメはデスクの引き出しにしまってある。だから俺はその取ってに手を伸ばした。すると――


 ゴリゴリバキィッ、メキメキッパキン


「うわァァァァァァ!」


 俺は椅子から転げ落ち、後ろ手に這ってデスクから離れた。だって、強烈な破壊音が、俺が開けようとした瞬間に、引き出しの中から響いたから。


 心臓がバクバク言っている。口をパクパクさせたまま閉じれない。喉はカラカラだ。全身からベタッとした汗が吹き出す。


 引き出しを開けて確認すれば、板のように圧縮されたデジカメその他もろもろがあるだろう。わかっている。もう、わざわざ見てみようとも思わない。誰が好きこのんで自分から狂気のぞき見するというのか。


 それよりも、俺は恐ろしいことに気づいてしまった。


 俺が意識を向けた途端、対象のものがぺちゃんこに潰される。一度目のトイレの時は、半分寝ていて、まどろみの内に尿意を催したから音に気づかなかっただけとして。二度目はほぼ布物だったから、はっきりとした音が鳴らなかっただけ。三度目、四度目のことを考えれば、この推測はきっと正しい。


 気づいてしまったから、俺は何もできなくなった。何かしようとすれば、その瞬間に怪異が起こる。潰されたくない大事な物は色々あるし、第一、次は俺自身に攻撃が向くかもしれない。誰かに助けを求めようにも、部屋の外に出ようとした瞬間、世界が無に圧縮されるのでは。ネットを使ったって、その向こうにいる誰かが人知れずミンチにされる可能性は否めない。


 ただ壁にぴったりと張り付いて恐怖に震えながら、必死で無心を取り繕うことしかできない。突然とてつもなく巨大な化け物がぬっとあらわれて、俺を頭の上から叩き潰すんじゃないか、そんな不安が俺の目を天井に釘づけにして離さない。


 パソコンがスリープに入ってプッとブラックアウトしたり、スマホが充電しろとアラートを鳴らしたり、小さいながら色々な刺激が周りで起こる。そのどれにも一々肩を跳ねさせながら、しかし俺は努めて関心を向けないようにした。見るな聞くな触るな、天井を見つめながら自分にそう言い聞かせた。


 そうしてただ時間だけが過ぎていった。午前三時、午前四時――



 ――俺はいつまでこうしていればいいんだろうか。


 良くも悪くも何も起こらないから、じっとしているのが辛くなってきた。


 俺は恐る恐る首の角度を前に戻した。そして挙動不審な感じで自分の部屋を見渡す。もちろん、上から何かが降って来たりしたらすぐに逃げられるよう身構えて、だ。


 パソコン、エアコン、ベッド――俺は部屋の中の物を一つ一つ確認した。しかし、潰されたとか形が歪んだとか、外観に変化が起こっているものは一つもなかった。


 カーテンを引いているから外の様子は見えないが、車の音も聞こえてくるから、部屋の外の世界が消えてしまっているということもなさそうだ。


 俺はビクビクしながら床を這ってパソコンデスクに戻った。椅子、机、マウス。触った瞬間にグシャっと……と想像したが、そういうことは一切起こらなかった。キーボードを叩けば、ちゃんとスリープから復帰してディスプレイが明るくなる。さっきSNSにアクセスした時の状態そのままで、俺が書きかけていた文章も、投稿されないままの状態で残っている。


 さっき書いた文のことはひとまず置いておき、まずはリロード。対象に意識を向けることで起こる怪現状なら、さっき投稿しようとした時点で、ネット経由で繋がりがある人たちに波及しているかもしれない。だとすれば、今ごろパニックが起きているだろう。


「何も……ないか」


 時間が時間だから活動している人も少ない。だがひとまず見える範囲では、俺と同じ目に遭っている人はいなさそうだ。


 それから別のSNSや動画サイト、ネットニュースにブログなど、情報の即時性が高そうなところを一通り回った。しかし心霊現象で騒ぎになっている様子は一切なく、平和でくだらないいつもの雰囲気だった。ほっとすると同時に、俺一人がこんな目に遭っていることに少しむかついた。


 しかし、これでは結局、話がはじめに戻ってしまう。何も解決していないし、打開策も見つからないまま。


 それとも。もう、終わったのだろうか。


 俺はもう一度、心の中で家具の名前を念じながら部屋を順に見渡す。それでもやっぱり何も起こらない。ということは。


「……終わったのかー」


 ほうと俺は溜息を吐いて、イスの背もたれに深く倒れ込んだ。やれやれだ、本当に。


 とりあえず水分がとりたい。ずっと口を半開きにしていたせいか、喉がイガイガする。


 俺は小さな台所の流しへ行き、水きりかごに伏せてあったコップで水道水を汲み、飲んだ。温くてまずい水だが、今の俺には命の水、生き返る心地だ。


 その足で今度は洗面台へ向かう。洗面台がある風呂場はとにかく換気が悪いから、毎晩シャワーを浴びた後でドアを開けっぱなしにしてある。だからドアを開けたら洗面台がぺちゃんこに、というドッキリが起こりえないから気が楽だ。


 洗面台で顔を洗って、鏡を見る。眼の下にはくまができて、身内の葬式でもあったかのように憔悴している自分の顔が映った。我ながら酷い顔だ、自嘲すれば、鏡の中の自分もニヘラッと笑った。


「さて、なんか食うか」


 水を飲んだせいで胃腸が動いたのか、空腹感がわきあがってきた。ただ、冷蔵庫がやられてしまったから、たいしたものがない。菓子じゃ腹は膨れないし、米を炊くのは時間がかかる。……いや、待てよ。そうだ、台所の引き出しに、非常食としてレンジでチンするご飯と缶詰が――


 パキパキガガゴッビチャッ


「ヒァァァッ!」


 完全に油断していた俺は、台所の方から響いた音に飛び上がった。


 何の音だ、考えなくともわかる。まだ、終わりじゃなかったのだ。


「なんで、なんでだ……パソコンとか、風呂場とか、他全部、よかったじゃないか……」


 俺は開けっ放しのドアの向こう、風呂場から一続きになった台所を怯えた目で見ながら、悪夢を払うように首を横に振った。


「どういうことだよ……なんで、なにが違う……あ……」


 俺が意識を向けたものが潰される。さっき気づいた法則に加えて、また一つ、気づいた。


 潰されるのは俺のいる場所と完全にしきられて、外からまったく見えない空間、いわば閉鎖空間にあるもののみ。直接見えているものや、ある程度の隙間で地続きになっている場合は圧縮されない。だからドアが閉めてあったトイレやクローゼットがアウトで、開けてあった風呂場がセーフだった。


 試しに、俺はベッドの下に押し込めてあるマンガを頭に思い描いた。暗がりにあって、さらには蓋つきのボックスに入れてしまってある。ただしそのボックスはクリアタイプ、外からはっきり中身がわかるもの。俺の予想が正しければ、これは潰されないはずだ。


 結果。破壊音は響いて来なかった。実際にベッドの下からボックスを引っぱり出して見ても、なんら暴力に遭った形跡は見られなかった。


「わかったぞ……わかったぞ!」


 俺は狂喜乱舞しながら部屋を駆けまわり、引き出しや扉や箱の蓋、大小や形は問わず、「閉じている」という状態のものを全部開けてまわった。全開にする必要はない、少しだけ、外から中が覗きこめるくらいの隙間ができていればいいはずだ。もちろん、それぞれの中身については思いを馳せないようにする。やたらハイになっているから、難しくはなかった。


 いくつかはミスって潰された。中には開く瞬間に中身を想像してしまい、半懐状態で俺の目に触れるものもあった。それでもおおむね成功し、半開きにしておくことさえ守れば、後は中のものを想像しても、実際に取りだしても、何も起こらなくなった。


 小さなケース類に至るまで、目についたすべてを開けて歩いたから、さながら空き巣にやられたあとのような、荒れた部屋になっていた。だが、そんな部屋の状態とは真逆に、俺の心は非常に穏やかになっていた。


 最後に、俺はベランダのカーテンを開けた。いつの間にか外が明るくなり始めている。清々しい気分だ。


 これから行うのは最後の実験。一番大きな閉鎖空間、この部屋自体を圧縮から守れるかどうか、だ。一応玄関ドアにはドアスコープが付いているから、完全にシャットアウトされた空間ではない。だがあれは外から中が見えないから不安が残る。でも、こうやってカーテンを開け、外から部屋の中が観測できる状態にしておけば盤石だ。


 一旦外へ出て、無事に部屋へ帰って来れたらオッケーだ。実験ついでに食い物を仕入れて来ようと、俺は財布だけを持ち、徒歩十分のコンビニへ向かった。




 三十分後、俺はアパートに帰って来た。玄関の鍵を開け、ノブをしっかりとつかむ。鼻歌を歌って、努めて平常心。


 一呼吸おいて、玄関のドアを開けたら、見慣れた俺の部屋が……あった!


「いやっほおおおお!」


 コンビニ袋を持った手を高くかかげてガッツポーズ。そうしてから、ここが玄関先で、道行く人の目にも触れかねない場所だと思い出す。もう明け方だ、早起きの人が窓越しに見ていたり、新聞配達のバイクが通りかかったりしてもおかしくない。見られたら少し恥ずかしい。


 俺はいそいそと部屋に入り、鍵を閉めた。


 さっそく買って来た弁当とお茶で、超早めの朝食にする。いつもは朝からこんな唐揚げの入った大きな弁当食べないが、多大なエネルギーを使った後だからいいだろう。


「うっめ。生きててよかったー」


 心の底からそう思う。


 結局、トイレから始まった怪現象がなんだったのか、それはわからないままだ。誰が圧縮していたとか、何が原因でこんな目にあったのかとか、真相は不明だし、知ろうとも思わない。そんなの藪蛇だ。もう対策はできて、怖い目にはあわないのだからいいだろう。


 散らかった部屋を片付けるため、クリアのボックスをたくさん買ってくる。引き出しや扉は閉まりきらないようにつっかえ棒をするか、買い替えられるものは窓付きのものに買いかえる。壊れたトイレの修理を頼むのも忘れてはいけない――どうしてこんな風になったのか、説明するのが大変そうだ。


 やることは残りそれくらい。そうやって対策が完了したら、全部終わり。いつも通り生活して、飯食ってウンコして寝て、全部忘れることにしよう。こんなわけのわからないことを自慢して有名になろうだなんて、とんだバカの発想だ。


 弁当を食べ終わって満腹になったら、一気に眠くなってきた。安心感と疲労が襲って来たかたちだ。徹夜の後だし、そもそも普段の日曜日ならまだ寝てる時間だし、抗いきれない。


 外はどんどん明るくなってくるが、俺はのそのそとベッドに入った。カーテンは明けたままで、部屋も明るい。だからこそ逆に安心だ。


 ――昼くらいまで、寝るか。


 俺はスマホのアラームをかけて枕元に置くと、仰向けになって、目を閉じた。


 ブジュル、グチュ


 頭の中に気味の悪い音が反響した。


 瞬間、脳に唐辛子を投げ込んだような灼熱の痛みが俺を襲う。たまらず絶叫をしながら目を開けた。


 世界は夜より暗い真っ暗闇に包まれていた。


 闇の中でのたうち回る。両頬にどろりと熱いものが伝うのを感じた。



―終―

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― 新着の感想 ―
[良い点]  瞬時に思いついたのはおきんきんを思い浮かべたらどうなってたんだろうか。 [一言] 瞼を閉じたことで閉鎖空間になっちまったかぁ。怖いですね。
2019/02/05 23:28 退会済み
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