第4章 その7 戦士ローサ
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《殲滅せよ。ベレーザ第三軍、アトク。対象は『欠けた月の一族』全て》
アトクの眼窩に嵌まっていた、白濁した石のように見える物体が、言った。
しかしアトクは、首を縦に振らない。
「おれは誰の命令も聞かねえ。もう皇帝に忠誠を尽くす義理もねえ」
自嘲の笑みを、歪んだ唇に浮かべた。
「何しろ、死んでるんだからなぁ」
楽しげでもなさそうな表情のまま、ふいに、けたけたと声を上げて笑った。
「アトク!」
ローサが叫んだ。
「おまえは、あたしの息子だよ。どこで何をしてきたって、変わらない」
「母さん。何を知ってるんだ。おれのことを、どれだけ? おれの何を知ってるっていうんだ」
焦燥感が、アトクの顔に浮かんでいた。
「おれは生まれてからずっと、死にたかった。それは叶った。あとは、どれだけたくさん道連れにできるか、それだけなんだよ、おれの中にあるのは」
「アトク……あたしが、おまえにしてやれることは、ないのかい」
両手を広げて、息子を抱き止めようとする、母親。
普通なら心を動かされるのだろうか、と、アトクは、ぼんやりとした頭で、思った。
だが、おれは違うんだよ。
アヒルの雛に混じった白鳥の雛のように。
それとも、白鳥の子に混じったカラスの子のように。
母親は、どこかで紛れ込んだかもわからない異分子に気づきながらも、他の息子と分け隔てなく可愛がって育てた。
だが、いつも満たされなかった。
この空虚。
この焦燥。
この、自分自身への凶暴なる殺意。
そうだ、まさに死ぬことでしか、この渇きはいやされないだろう。
だから、おれは。
殺す。
目に映るモノ全てを。
気がついたら、雄叫びを発していた。
声にもならない声で咆哮しながら、アトクは突進した。
その、彼の動きに糸で結ばれてでもいたかのように、アトクの背後に、灰色の影たちが、続いた。灰色の鎧を着け、灰色の駆竜に跨がった一団が、縛めていた銀色の網を引きちぎって、追いすがってきたのだ。
グーリア帝国、特務傭兵団、ベレーザ。
彼らは一言も発しないままで、まず、手近にあった、家畜の石囲いに突進し、ぶつかって叩き壊した。中にいると思われた家畜たちは、あらかじめどこかに逃れさせていたのだろうか、ただの一匹も、影も形もなかった。
「暴れ回れ、人形ども。村など跡形も無く打ち壊せ」
ベレーザの破壊行為を喜ぶでもなく、失望するでもなく、アトクは言った。
ただ、母親に、報告するかのように。
「悪いな母さん。おれは生まれ付いて、こういう男だったみたいだ。どうにもならない。生きても死んでも。だから」
最後の言葉だけは、懇願するように振り絞る。
「殺して。おれを。無に返して。二度と、生まれて来ないように」
すると、ローサは、微笑んだ。
「ばかな、子だよ」
涙が溢れてこぼれた。
「じゃあおいで。あたしが。おまえをこの世界に、お返ししてあげる」
それを合図に、アトクは駆竜を走らせた。
ローサが手にしていた投石紐が、風を切って唸る。
ヒュン、と振り切れば、紐の中央に挟んであった小石が解き放たれる。
それは駆竜の足下に飛んでいき、地面に当たって、爆発した。
放たれたのは小石ではなく、爆薬であったのだ。
駆竜はバランスを崩してよろける。
斃れていく駆竜の背中を蹴って、アトクは飛び降りた。
「さすが、母さんだ!」
この村に帰ってきてから初めて、楽しげに、笑った。
「おれと戦おうぜ母さん。全力で!」
「バカ息子が!」
ローサの表情は、変わっていた。
全てを受け入れ許す聖母の顔から、息子を叱る、恐ろしい女神のように。
「あたしと戦いたいならいつでも応じたのにさ。村中巻き込んで、いったい何をやらかすつもりだい」
「滅びればいいんだよ。ぜんぶ」
アトクは息をするように自然に悪意と絶望を吐いた。
「おれが死ぬのだから、世界もぜんぶ消えればいい」
「ああ、おまえは」
ローサは悲しげに答えた。
「はなから、生まれたくなど、なかったんだね」
じゃあ、還してやるしかないねと、ローサは独り言のようにつぶやいた。
「兄さん! やめな、母さんと戦うなんて」
そこへ割り込んだものがいる。
ローサの娘であり、アトクの妹、カントゥータだった。
「おやめ。身内の争いに、おまえは加わるんじゃない」
手をのばしてローサはカントゥータを制した。
「おまえの相手は、やつらだよ」
灰色の軍団を指し示す。
駆竜と人馬一体になったかのような軍団、ベレーザが。村の家々に襲いかかっている。
「村のみんなには逃げてもらったが。家を壊されちゃ、あとで建てなおさなくちゃならないからね」
この村の成人男性の多くは、外へ出稼ぎに行っている。
残っているのは中年以上、初老にさしかかった男たちや、女や子どもばかりなのだ。
アトクが帰還すると聞いてから、その襲撃に間に合うように出稼ぎ組を呼び戻すことは、不可能だった。
「母さんなら相手にとって不足はねえ。リサスも出稼ぎ組だったもんな。クイブロはまだガキだし、相手になんねえ」
「違う。おれは、戦える!」
村から飛び出してきたのは、クイブロだった。
「ほほう! なんか見違えたな」
アトクは、にやりと笑った。
獲物に狙いをつけた肉食獣のように。
「こりゃいい! 楽しい家族団欒だな!」
駆竜を捨てたアトクは、ゆっくりと歩きだした。
「カントゥータ。三年前は、おまえの腕前は、ワラカもスリアゴもリウイも、おれに叶わなかった。こんどは、どうかな!? ちびっこ、おまえはどうだ? 母さんも、年寄りの冷や水じゃねえのかい」
笑いながら……歩みを早め、やがては走り出した。
手に剣をひっさげて。
先に狙った相手は、クイブロだった。




