第3章 その6 魔女カオリの『永遠の騎士』
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良い香りが鼻孔をくすぐる。
身体の中に染みこんでくるような、いくつものハーブが溶け合った芳香だ。
目をあけると、天井の壁紙が見えた。
(え? 天井? 壁紙?)
違和感に包まれる。
「あら香織、目が覚めたの?」
「え? ママ!? どうしたの?」
懐かしい声を聞いて、香織は驚いて目を瞬いた。
「……ここは、どこ?」
香織はベッドに横たわっていた。
布団やシーツなどは掛けていない。
( ベッド? そんなもの、この世界に存在した? )
どこかが、おかしい。
やがて香織は違和感の正体に気づいた。
自分はセレナンに転生している『カルナック』の記憶を持っているのに、今の状態は、二十一世紀の東京に住んでいた『並河香織』の意識だ。
彼女が高校三年の時に病気で亡くなった母、沙織が、まだ生きている。
しかしここは、見覚えの無い部屋だ。
白い壁?
自宅なら豪奢な調度品の数々が置かれているはずだが、見当たらない。
すっきりとした、飾りけのない室内である。
あたりには様々な種類の香が入り交じった、複雑な薫りが充ち満ちていた。
香織にも、それとわかる、ローズマリー、タイム。
それに、漂っているこの煙は、ホワイトセージ?
「気がついたのね」
ホワイトセージを焚いた白い煙を纏い、彼女の母、並河沙織は、うっとりするような笑みをたたえている。
「ママ? どうなってるの。ここはどこ、いいえ、いつなの?」
身体が泥のように重い。香織は懸命に身を起こす。
「……ふふふ。起き上がれるはずはないのに、やっぱりわたしの娘ね」
不思議なことを母親は言う。
いったいどういうことなのか。
半身を起こして部屋の中を見回した香織は、驚きの声をあげた。
「えっ!? 彼が、なぜ!?」
同じベッドの上、香織の横には、沢口充が横たわっていた。
目を閉じ、ぴくりとも動かない。
眠っているようだ。
彼との間に何かあったのではないことは、二人とも服を着たままではあるし、すぐに理解できたが、どうしてこんな状態になっているのだろう。
「どうなってるの。交際している人がいるって話したら、パパは仕事で留守だけどママが会いたいって言うから連れてきて……それから……お茶を飲んで……」
後はどうなったのか覚えていない。
「う……」
しばらくすると、隣に眠っていた充が、目を開けた。
同級生の男子だが、充のほうが童顔で、背も少し低く、華奢な美少年である。
「あれ……? 香織さん? どうしたの……ええと? お母さんに紹介されて……それから、どうしたんだっけ?」
目覚めたばかりで、状況をよくわかっていないようだ。
ベッドに横たわっていて、隣に香織がいるということも。
「香織。ママは、今から二年後に死ぬわ」
突然に、沙織が言った。
「ええっ!?」
「わかるの。それからパパも、あなたが二十歳になるまでに事故で死ぬ。それは変えられない運命なの」
感情の無い、あるいは感情を押し殺した、無機質な沙織の声が、ハーブの香りに満ちた室内に響く。
「なんで……」
あまりのことに言葉も出てこなくなった。隣に居る充も同様で、大きく息を呑んだ後、荒い息づかいだけがしている。
「だから、彼を連れてきてって言ったの。沢口、充くん、だったわね?」
沙織は充のそばに近寄り、まだ起き上がれないで居る彼の頬に、白い手を添えた。
「見たとたんにわかったわ。彼は、強運だけれど、死にやすい。うっかりしたことで命を落としてしまう。たとえば誰かを助けようとして、代わりに車に轢かれる、とかね。香織が守ってあげなさい。そして、沢口くん。あなたには、お願いがあるの」
沙織は彼の耳元で、囁いた。
「あなたは香織の『永遠の騎士』よ」
「香織さんのお母さん? どういうこと、なんですか」
「ママ! 何を言ってるのかわからないわ!」
「永遠の騎士。いつ、どこに生まれ変わっても、香織と巡り会って、守って。この子は、淋しがりやなの」
「それは、感じていました」
充が、言った。
「オレといても。ずっと一緒にいるよって誓っても。いつも、さびしそうだった」
「お願いね。これはまじない。これは、呪い。そして祝福。わたしは、白い魔女とは言い切れないわね。あなたたちを永遠に縛る魔法を、かけようとしている、わたしは」
沙織は手にしていたホワイトセージの葉に、火をつけた。すぐに炎は消えて、白い煙が立ち上り、彼女を包みこむ。
白い煙は、香織と、充をも包んでいく。
「聖なるハーブだけど、このハーブ自体に転生の魔法がこもっているわけではないわ。ねえ香織。言わなかったけど、たぶんわたしは、普通じゃないの。遠い昔に魔女だった記憶を持っている。ずっと孤独だった。あなたの生まれ持っている寂しさは、わたしのせいかもしれない。だから、あなたには『永遠の騎士』を」
「待ってママ! 充くんの気持ちはどうなるの。彼は、こんなわたしと、ずっと一緒にいたいかどうか」
「香織さん」
充が、彼女を見つめる。
「オレは、ずっと一緒にいられるなら、心の底から嬉しいよ」
「なんて、バカなの……」
香織の頬に涙がこぼれた。
「もっとよく考えなさいよ! 一生どころか、もしママの言うことが本当なら、充くんは、生まれ変わっても、ずっと、わたしと」
もし本当なら、と良いながら。
香織は、母の言葉に、少しの疑問も持ってはいなかった。
もともと、何かと不思議なところの多かった母親だ。魔女だったと言われれば、様々なことに納得がいく。
「本望だよ」
と、彼は、笑った。
「香織。彼と、幸せにね。……でも、わたしの呪いは、世界の『理』に許されるかどうか。もしかすると転生しても彼が思い出さないこともあるかもしれない。でも、どんなときも彼は、あなたのそばに生まれ、出会う。わたしも、見守っているわ、香織。忘れないで。パパも、わたしも、どんなに香織を愛しているか」
そして並河沙織は、心の内で思う。
(この『理』に背いた魔法の代償に、きっとわたしは、いつも早死にする。でも、魂だけになっても、ずっと香織を見守っているわ)
魔法ではない。それは魔女、沙織の生まれ持った、全ての理に縛られない能力。
白い煙が、香織と、充を押し包んだ。
「このことは、次に目が覚めたら、あなたたちは忘れているわ。幸せになって。どんな形になっても、わたしはいつも、見守っているから」
※
少し前まで、そこは闇に包まれた空間だった。
今は、夜明け前の薄明の空を思わせる、銀色の空間。
浮いているとも、落ちているとも、上昇しているとも、感じられる。
奇妙に現実感がないのだった。
「どうも体系がうまく組み合わないなあ。世界を構成する要素は……やっぱり古代ギリシャにも端を発する『四大元素』に倣ったほうがいいのかな? それともよくあるRPGで……光と闇は、外せないわね。あとは風と、火と、地、水? 聖なる要素もあり?」
『また思考にふけっているのか、カオリ』
ふいに、耳元で声が響き。
銀色の光が差した。
「ええ。考える材料はいっぱいあるから」
銀色の光は近づいてきて、もやのように一つ所にとどまり、しだいに中心へ向かっていく。
香織は光の差したほうに目をやった。
そこには人の姿をした巨大な存在が、さも興味深そうな表情で、座り込んでいる。
青みがかった銀色の光そのものの長い髪が、滝のように流れ落ちて。白い肌に映える、淡いブルーの目は、水精石の光を浮かび上がらせている。
目を凝らせば、その背後には、力強い光輪が、浮かび上がる。
まるで古代の神々だ。
『ずいぶん面白そうだ』
軽やかで快活な声の主こそ、楽しげである。
「研究のこと? あなたにとって、わたしは、ほんの小さな一つの魂にすぎないのに」
不思議そうに香織は肩をすくめ、巨大な存在を見上げる。
『人間の魂は、非常に興味深い。ただ一個の生命、個々の精神であるのに、その奥には、広大な宇宙がある。それに引き替え、我は単なる一つの惑星。香織、あなたの持つ宇宙には叶うべくもない』
世界の大いなる意思、セレナンは、香織と会話をしながら、少しずつ、大きさを縮めていく。香織の目線に近づこうとしているのだ。
「買いかぶりよ。あなたは、この世界の大いなる意思。わたしはただの人。比べる基準が違うと思うけど」
『我には、香織は特別な存在だ』
そう答えたとき、セレナンの女神の顔に、複雑な表情が浮かんだ。
優しさ。哀れみ。憧憬。
「ふぅん。いいけど。こうやって、時々は退屈を紛らわしに、こんなところまで来てくれるのも、悪くは無いわ」
ここは魂の座。
生命の根源の、深い階層だ。
『しかし本当に良いのか、香織。カルナックが満足するまで、人間達と共に暮らさせてやるとは。ずいぶん寛大なことだ』
「いいの。考えることが沢山あるし。あの子、生まれてから外に出たことがなかったのよ。幼児のときはガルデルの宮殿に幽閉されて虐待を受けて。死んで生き返ってからは精霊の森で保護されて外界と隔絶されていたし。初めて、ちゃんとした大人に出会って、優しくしてもらってるの」
『コマラパは? クイブロが生涯を終えるまで待っていたらコマラパは老衰して死ぬだろう』
「あなたは大きすぎるのね。冗談は、あまり上手じゃないわ」
香織は、ぴくりと眉を上げた。
「わたしはもう気づいているわ、多分コマラパも、もう数年もしたら、わかるでしょう。コマラパは、既に人間では無い。カルナックと同じ。精霊の森で長く暮らしたせいね。あれ以上、老いることはないわ。今度こそ、パパはずっと、わたしの側にいてくれる」
『彼のことも? あなたよりカルナックを選ぶとは』
「……しかたないわ。彼は、前世を思い出していない。それに、わたしもカルナックなのよ。ルナが、もっと成長したら、わたしと融合するかもしれないし。今のところは未知数だけれどね」
時間は充分にあることだし。
並河香織は、ずっと考えていた。
魔法について。
次に彼女が意識の表層に出ていくときに、世界を変革するための魔法の体系を、広めるにはどうすれば効果的かを。
「でも、懸念は、あるわ。以前のわたしは『闇の魔女』だったのに。ルナが、あの過去の悪夢から助け出されたとき、わたしまで浄化されてしまった気がする。わたしが闇の魔女ではなくなってしまったら、次にセラニス・アレム・ダルと出会っても、以前ほどには対抗できないかもしれない……もしかしたら、あれはセラニスが仕掛けた罠だったの? わたしの中にあった闇は、どこにいってしまったの」
『闇も世界の一部なのだ。無くしてしまうことはできない。どこかにいってしまったということではない。そして、魔法について考えるなら、闇も取り入れるべきだろう。カオリの考える魔法という概念は、非常に興味深い。これまで世界では、体系だった組織などは存在しなかった。ぜひとも広めてもらいたい』
「助言はありがたく頂くわ。ところで」
『?』
「わたしの記憶を覗かないで。あなたのせいで、この前の転生では忘れていたことまで、思い出してしまったじゃないの」
『忘れていたままより、思い出した方がいい記憶もあると思ったのだが』
「それはわたしが決めることよ」
並河香織は、唇を尖らせた。
「わたしの『永遠の騎士』。今度の人生では、彼は思い出すかしら?」




