第1章 その5 コマラパ、世界と対話する
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目を開ける。
そこは彼の知っているどの風景でもなかった。
なにも、ない。
空間も、光も、闇さえも。
そして彼自身の肉体も。
確かめようと手を動かしたつもりが、何も、触れるどころか、その手さえ、見えない。自分の身体も、そして。名前も。
自分が、かつて何者かだったことだけは、かろうじて記憶の片鱗をとどめているが。
思い出せない。
全て、空虚な、時間も空間も無い、ここで。
今にも消えていってしまいそうだった。
『やはり、そうか。人間とは、見えるもの、触れることのできるものがなければ、さほどに不安か。では、下を見よ。降りていくのだと意識するのだ』
ふいに聞こえてきた、無機質な声に、驚きながらも、その指示に従った。
そうするしか、なかったのだ。
降りていく、と意識する。
周囲が、ほのかに見えてくる。暁の空のような、柔らかな銀色の薄明に包まれる。
自分の肉体を、意識する。
やっと、見て、触れることができた。
背広とワイシャツ。ネクタイ。ズボン。靴下と革靴。
顔を触ってみる。ひげが生えている。顎と、口のまわりに、びっしり生えているようだ。
ここに至って、彼はようやく自分が何者であるかを思い出した。
そうだ。自分は。
並河泰三。
六十歳。
貿易会社を経営していた。
若い頃は教師になりたかった。教育実習で教えていたのは高校で……現代国語。
なぜ教職は諦めた?
病気で倒れた父親の後を継いだのだった。
結婚もして、なかなか子供はできなかったが、ようやく娘も生まれた。
幸福に暮らした。
一人娘が生まれて、どれだけ嬉しかったか。
一家で海外旅行もした。
娘は歴史が好きでペルーのマチュピチュにも行った。それにエジプトの……そうだ、カルナック神殿というのが気に入っていた。何枚も写真を撮っていたな。
毎年、クリスマスには北欧の別荘で一家で過ごしていた。
………娘。
そうだ、あの子は、高校生だったカオリは、どうしたろう?
わたしが乗っていた飛行機が海に落ちた、最後の瞬間に。
妻は一年前に病気で死んでいたから、このうえ、わたしが死んでしまったら。
カオリが一人になってしまう。
ただそれだけを後悔していた。
涙がこぼれた。
その滴は眼下に広がる、茫漠たる銀色の海原に落ちていった。
『涙か。不思議なものだな。なぜ泣く? もう全ては終わってしまったことなのに。おまえの生きていた地球という惑星さえも、遙か昔に滅び去っているというのに。おまえたちの持つ魂というものは、非合理的で、愚かで、頼りなく、僅かな風にも揺らぐほどに儚く……そして、面白い』
彼を包む空間全体が共鳴して、声が響く。
「だれか、いるのか?」
声は空間に吸い込まれ、どこへも届かないような無力感の中で、並河泰三は、それでも、問いかける。
『わたしは、ここにいる。下を見よ』
広大な銀色の海面が揺れた。
「この、海が? 話しているのか?」
半信半疑で、並河泰三は問う。心の底には、海面に対する恐怖があった。自分が死んだときのことを思い起こさずにはいられない。
『やはり、人間は自分と近しい大きさや姿のものが意思を交わしやすいようだな。では、それに応じよう。この眺めも、おまえに恐怖の感情を起こさせるようだから』
すとん、と、彼の足は、固いものの上に降り立った。地面だ。草も木も生えていない荒野が、どこまでも広がっているようだ。
『この姿ではどうだ? かつて我が地に降り立った人間たちが求めた、精霊とか神とかいうものの姿だ。これなら会話もできそうか?』
目の前には、美しい女性の姿があった。
青みを帯びた銀色の長い髪が、抜けるように白い肌を覆う光の滝のように流れ落ちて。
目の色は、アクアマリンか、青い光を表面に浮かび上がらせるブルームーンストーンを思わせた。
年の頃は、わからない。海外の人気女性歌手のような、あどけなくさえ感じるのに同時に老成したような。
女神というものが具現化したなら、こんなだろうか。
ただ、至高の存在そのものの女神の姿は。
とてつもなく巨大だった。
まるで十階建てのビルか何かだ。
「巨神族か?」
彼の記憶のどこかにあった名称が浮かんでくる。
『大きすぎたか? これでも、苦労して小さくしたのだぞ。カルナックとは意思の疎通にこれほど難儀しなかったのだがな。普通の人間と会話するには、いっそ小さい身体も用意する必要があるか……まあ、今はしょうがないな』
巨大な女神は、困惑し、しかしながら同時に楽しんでいるような表情を浮かべていた。
『私はセレナン。この世界そのものだ』
「世界、そのもの? セレナンとは……この蒼き大地の女神の、名前では……」
ふいに、並河泰三は、頭を抱えてうずくまる。
「うわああああ!」
一気に押し寄せてきたものがある。
記憶の奔流だった。
この蒼き大地セレナンに。エナンデリア大陸の海岸沿いに広がる大森林地帯、クーナ族に生まれ育った。
妻も子も持たなかった。
一族の行く末を案じて子供たちに文字を教え教育をした。
領土を接していたエルレーン公国とも交渉をして居場所を確保したことで、いつの間にか、周囲から賢者と呼ばれるようになった。
自分は、並河泰三という日本人だった。
だが同時に、コマラパという壮年男性でもある。
むしろ今の自分自身は。
深緑のコマラパ……!
『やっと記憶が繋がったか』
女神は、くすくすと笑った。