第1章 その34 どちらがいいの? 闇の魔女は選択を迫る
34
やがて時は過ぎて、月は中天から位置を移す。
赤暗色の小さな月は、既に大きく傾いて、山の端に沈む。
「それでは皆様。お名残り惜しいですが、わたくしは退場致します」
イル・リリヤの幻影が、再び頭を垂れた。
「傍観するしかできなかったことを深くお詫びします。それでもわたくしは、不憫な息子を愛しているのです」
どんな息子でも、捨てることはできない。愛していると、真月の女神は言う。
「わたくしの補助としてセラニスを造るためには、必要な資材が足りなかった。滅亡に瀕した地球では物資も不足していたためです。そのため機材は、地球の人類管理システムであるシステム・イリスから奪われた。そのことをセラニスは恨んでいました。当時の地球人を。ですが今のあなた方には何の関係も無いこと。息子の所業の言い訳には、なるはずもありません。そして、このように申し上げるのは……」
顔を上げたイル・リリヤは、僅かに顔を歪めた。
「この次に、皆様にお目にかかるときは、今のわたくしではない可能性が大きいからです。セラニスは、都合の良いようにわたくしを改竄するかもしれません。ですが、わたくしは、正常な状態のバックアップを、必ずシステムのどこかに隠しておきますわ。機会をみて、いずれ、あの子を更生させることができるように」
「それは、いつになるのかしら。人間は、あなた方ほど長くは生きない」
女神の言葉を、カルナックが遮った。
精霊に等しい身体となって久しいカルナックが言うのもなんだが、普通の人間の寿命は、半永久的に存在するであろう『月』たちとは比べものにならないほど短い。
「申し訳ありません。なるべく早くとは思っているのですが、確約はできません。ですが、いつの日か、必ず……また、お目に掛かります。どうか、それまでは……ご健勝を」
それがイル・リリヤの最後の挨拶になった。
月が傾くにつれて薄れていきつつあった女神の幻影は、やがて、ふっとかき消すように地上から消えていったのだった。
あと残った人間達は。
言葉もなく、呆然とするばかりだった。
カルナックのそばにいる精霊の兄妹と、四つ足の獣たちは、その限りではなかったが。
※
「女神様の約束も、期待しないほうがいいわ。なるべく早くセラニスをなんとかするなんて。もうしばらくすれば『魔の月』も復活すると思ったほうがいいでしょう」
イル・リリヤが消えた後、カルナックが言えば、
「ああ。そうだな。生まれた時から人類に対する怨みを内包していた『魔の月』だということがわかった。『未生怨』だ。一筋縄ではいかないだろうな」
コマラパは、こう応えた。
「遠い昔の伝承にある。昔、ある国の王は、子どもに恵まれなかった。予言者によって、ある賢者が死んで転生して自分の子になると知ったとき、早く子どもが欲しいあまりに、罪を犯した。賢者を殺したのだ。だが、生まれてきた息子は、前世で殺された怨みを抱いていた。そして、成長したのち、その王を死に追いやる」
「また小難しいことをパパは」
カルナックは眉をひそめる。
「前世のことだがな。他にうまい喩えが思いつかなかった」
「まったく、頭の固いパパらしいわ」
きょとんとしている、クイブロに、カルナックは微笑みかけた。
「ああ、わたしがこうしていられる時間も、残り少ないわ。本来、このわたし『闇の魔女カオリ』は、まだ出てくるはずではなかったから。クイブロの身に危険が迫っていたから、表のカルナックがわたしに助けを求めたの。もう少し成長すれば、幾つかある、わたしのような乖離した人格も、いずれ統合していくと思うのだけど」
闇の魔女カオリが、自嘲気味に笑う。
「さっきのイル・リリヤじゃないけど。そのとき、わたしが今のわたしであるかどうかは、わからないの」
それから、コマラパに向き直る。
「コマラパ。ごめんなさい、ひどい意地悪を言ったわ。前世でパパが死んだとき、すごく辛かった。後悔したの。どうして止められなかったのかって。人を生き返らせる方法はないのかって黒魔術に耽溺して、あげくに世界を呪う魔女になったのも、自業自得なんだから。なのに、八つ当たりしたわ。許して……」
「許すも許さないもない」
コマラパは大きく腕を広げてカルナックを抱きしめる。
「セレナンの女神に、感謝する。前世の記憶をよみがえらせてくれ、今世でも、おまえの親がわりになることができた。わたしこそ、香織に謝りたかったのだ」
「カルナック! どういうことなんだ?」
クイブロは立ち上がって、コマラパとカルナック(カオリ)の側に寄る。
「おまえは、いなくなってしまうのか?」
「……カルナックは、いなくならないわ」
ふと何かを思いついたように、くすくすと笑った。
「ねえ、クイブロ。もしも、今のわたしか、あなたが最初に出会ったカルナックか、どちらか一人しか、あなたの側に残れないとしたら。どちらを選ぶ?」




