第1章 その3 蜃気楼のように
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「影?」
コマラパは耳から入ってきた言葉をそのまま問い返した。
それに対して直接には応えず、精霊の青年は、森の奥へと帰ろうとしていた足を止め、思うところがあるように、語りはじめた。
「実体を持たず、自らは遠くにいながらにして人の心に都合の良い幻を見せて、心や行動を操るものが在る。人間達は、まだ知らないようだが」
「兄さん、話してもいいの? いつもは、人間に関わりすぎるなと言うのに」
少女は怪訝そうに、青年を見上げた。
「わたしたちの愛する弟に関係することだからね」
コマラパに向けた冷酷な表情とは打って変わって、青年は優しく微笑んだ。
人間にではなく、妹と、弟と呼んだ黒髪の子どもに対しては、優しい表情も浮かべられるのだなと、コマラパは思った。
「だが、面倒な、長い話になる。おまえたちは森の奥に帰っているといい」
しかし、少女と子どもは、首を横に振る。
「ううん。ここにいるわ。あたしたちには嫌なことを聞かせないつもりね。そんなのだめ。あたしたちは家族なんだから」
「おれも」
「しかたない。だが、楽な姿勢にしているのだ。長くなる」
それでは、と前置きして精霊の青年は語った。
「数十年前。レギオン王国で起こった惨劇を知っているか。国王に並び立つ旧家の当主、ガルデルと言う男がいた。彼は「魔の月」に魅入られた。大望を抱き、血族全てを殺して怪しげな儀式を行い、失踪した」
「ガルデルの事件なら知っている」
コマラパは若い頃に起こった事件を思い出し、表情を曇らせた。
「三十年ほど前、わたしの若い頃に起こったことだ。事件を起こした者は王族の係累だったからもみ消されたが、人の口に戸は立てられない。噂になった。わたしは知人から調査を依頼されて調べた。何十人が死んだことか。悲惨な事件だった」
「彼は魔の月に唆され、家族、親類縁者、全てを殺して#忌名__いみな__#の神に捧げたのだ」
「魔の月? あの、忌名の神が?」
「あれは地上に影を落とすのが好きなのだ」
いまいましげに、青年は首を振った。
「血族全てを殺したあげく、最も愛し執着していた末の息子を、忌名の神の降臨する器に仕立てるために、虐待して心を壊した。だがその課程で、殺してしまったのだ」
精霊がそこまで事情通だとは。コマラパの背筋が冷える。
「仕方が無く死体を全て捨てて、ついには自らの肉体を器にするために心臓を抉ろうとしたときに、願いは叶った。……ガルデルは不死になり南へ逃げて、そこに彼の帝国を築いた。それがグーリア帝国だ。ガルデルは神祖などと自称しているらしい。もっとも、そんなことは、我々にはどうでもいいことだった。人の世のことなどは」
精霊の薄青い瞳が、コマラパを射貫く。
「あの惨劇の真相はそれか! しかし、なぜ、その話を、わたしに聞かせるのだ」
「それは」
青年は、黒髪の子どもを、抱き上げる。
「この子が、そのガルデルの末子だからだ。精霊火と、わたしたちが与えた魔力のせいで、さほど成長していないが、保護したのは三十年前だ」
「なんと……」
「自分以外のもの全てに悪意を向ける帝王など、はた迷惑だが我々#精霊__セレナン__#にとってはどうでもいい。だが、この子は、殺されて捨てられていた。世界が、この子の存在に心を留めたのは、死んでいるはずの身体に、#精霊火__スーリーファ__#が惹かれて集まっていたからだ」
「この子の魂の輝きが、#精霊火__スーリーファ__#を虜にしたのよ」
精霊の少女が言う。
けれども子どもは、首を横に振る。
「そんなの、知らない。目が覚めたらたくさんの光の玉があって、身体があったかくなって、目がさめて……でも、ぜんぜん動けなくて」
子どもは、青年の首に腕を回した。
「ねえねえ帰ろう兄さま。もう、つかれた」
「眠いのね。さっき、あんな乱暴なことをするからよ」
くすくすと少女が笑った。
「よしよし、戻ろう」
目をこすり、顔を青年の胸にこすりつける子どもを、腕の中で、揺すって。
まるで父母のように。
「待ってくれ。まだ、聞きたいことが」
懸命に手をのばすが届かない。
コマラパは、それ以上、森の中へ一歩も入ることはできなかった。
立ち去り際に少女は振り返り、コマラパに言い残す。
「あたしたちは、この子を助けるために生まれたの。ここ数百年、世界はもう精霊族を新しく生み出すことはなかったけれど、この子を助け育てるためには、実体のある身体が必要だったから。そのかわりに、あたしたちには、ものを食べたり飲んだり成長したり、子を産み増えたりする機能はないの。その意味では、生きているとも言えないわね」
「だから」
少女の唇が、柔らかく、言葉を紡ぐ。
「正義漢の、おじさま。もしも、あなたが……助けてやってくれるなら。この子を人の世に戻すこともあり得るわ。ただ、もう少し、いえ、当分の間は、この子は、ここで、それとも、どこかの精霊の森で、あたしたちと暮らすのよ」
「その子の名前は? わたしはコマラパだ。森林族クーナの、深緑のコマラパ」
「あててみて」
いたずらっぽく、少女が笑った。
「は? あてる?」
コマラパは予想外のことに驚くばかりだ。
「名前をあててみて。そうしたら、この子を人の世に返してもいいわ。もしも、あてられるならね」
「てがかりは」
「知らない。そんなの、自分で探せば? だってあたし、ほんとのところ、この子を人間に返したくなんかないの」
その言葉が最後だった。
精霊達はコマラパの前から消え失せ。
そして白い森も、消えていった。
蜃気楼のように。