第1章 その2 精霊の兄妹
2
コマラパを襲ったのは、圧縮された空気の塊だった。
空気を岩のような固体になるまで押し固めるなどということは、魔法の技だ。
人の世では、未だに誰一人として、このような域まで達した魔法の技は行使したことがない。
巨木の幹から、下までずり落ちる。
コマラパは背中と腰を強打している。地面に落ちた途端、全身を痛みが貫いて、のたうった。
白い落ち葉を踏み分ける、軽い足音が、近づいてきた。
長い黒髪が、さらりとコマラパの顔に降りかかる。
子どもが、身をかがめて彼を覗き込んだのだ。
「精霊は、人を傷つけない。でも、おれは精霊じゃないから。いくらでも人を殺せるんだ。これでわかった?」
「そんなことをしては、だめよ」
突然、声が響いた。
銀の鈴を振るような声、というものが本当にあるのだと、コマラパは五十数年の人生で初めて思った。
最初に見えたのは、黒髪の子どもに差し伸べられた、細く、白い腕。
次に、美しい、年端もいかぬ少女の顔があらわになり。
そのほっそりした顔を覆い、肩を背中を足下まで流れ落ちる銀色の髪が現れ出た。
まるで何もない空気の中から、にじみ出るように。
青みを帯びた銀髪と、#水精石__アクアラ__#色の、透き通った青色の瞳をした、十四、五歳の少女だ。
幻のような姿を、足首まで届く白い衣が覆う。
「それは自分を傷つけるのと同じよ」
少女は屈み込んで、子どもの頬に唇を寄せた。
優しい手で抱きしめられながら、子どもは顔をあげて、くやしそうに少女を見る。
「とめないで。おれのことを精霊に攫われただなんて」
やり場のない憤りに振り上げる、小さなこぶしを、少女の手のひらが押さえ、柔らかく包み込む。
「彼を木にぶつけたでしょう。森の外へ放り出せば済んだことだわ。どうして、さっきみたいなことをしたの」
「……」
子どもは無言で、唇をかみ、うつむく。
「彼と、話がしたかったの?」
黒髪の子どもは、ふるふると、かぶりを振って。
「こいつは#精霊__セレナン__#の悪口を言った。死にかけで捨てられていたおれを、#精霊__セレナン__#が助けてくれた、そんなことさえ知らないくせに」
「落ち着いて」
「だってだって!」
子どもをなだめ、辛抱強く抱きしめる、美しい少女の腕を。慈母のような笑みを。
コマラパは、起き上がることも忘れて見入っていた。
噂に聞かされたことは、もしや、間違っていたのでは。
自分はなぜ、その言葉を信じたのだろうか。
ふと、そんな疑念が、初めて、浮かんできたのだ。
「さあ、あたしの可愛い弟。着せてあげた物も、また脱いでしまった?」
少女の手が、ふわりと動く。
森の木々の間から、白い布がひらりと引き出されたように見えた。
木々から生じた白布は黒髪の子どもに着せかけられて、肩から足首までを覆う、丈の長い白い衣に変じた。
「この森は寒くも暑くもないけど。人というものは服を着ているものでしょ?」
「だって」
着せてもらった白い衣の裾を持ち上げる。
白い頬にかすかな赤みが差して。
「……だって。どんなに白い布も、おれが着たら、いつの間にか、黒くなってしまうんだ。ほら……」
裾のほうから、衣の色が変わっていく。
まるで夜の帳が降りるように。純白だった衣が、闇色に染まっていくのだ。
「おれが人間だから。死人だから。精霊の森にいることも、まだ動いて生きている振りをするなんてことも、おかしいんだ。だから! こんなことになる」
「違うわ」
少女が、子どもを強く抱きしめる。
「あたしの可愛い弟! それは呪いよ。夜と死の支配者の息子、虚空を彷徨う名も無き者、『魔の月』の。あなたが#贄__にえ__#になるはずだったから、あれは、まだ、あなたに執着して追っている。あいつは現世で動ける身体が欲しいの。でもそんなの、あなたのせいじゃないわ」
「その通りだ」
冷たい風が木々の間を吹きぬけるような、ひやりとした声がした。
もう一人の精霊が姿を現したのだ。
長い銀髪と淡い青の瞳、白い肌をした、背の高い青年だった。
感情をそぎ落としたような、いやそもそも感情というものを持ったことがないかのような美しい顔と声で。
「愚かなる人の子よ、我らの地に足を踏み入れてもよいと、そなたらに許した覚えはない。森へはもう来ないでもらいたい。わたしの愛する妹と弟を困らせるな。次は、命を落としても知らぬぞ」
青年は、少女と、黒髪の子どもに両腕を回して、森の奥へといざなう。
「待て!」
コマラパはようやく身体を起こして、立ち去ろうとしている精霊たちに、声をかけた。
「この世界の魂、精霊たちよ。その子どもは、そなたらが拐かしたのではないのか。親元から奪って」
「そんなことは知らぬ」
冷ややかな声で、精霊は振り返る。
「いったいどんな口が、そなたに偽りを告げた? そのものに、影はあったか? 次に出会ったなら、そのものの足下を見てみることだな。足下に影がなくば、それは実体ではない」