第4章 その23 銀色の闇、いつかの約束
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今は《世界》に認められた『欠けた月の村の守護者』となったアトクを伴った道すがらに、カルナックは、ふと不安げに眉を寄せ、カントゥータを見上げて、尋ねた。
「お義姉さま。ローサ義母さんとクイブロの他には、みんな逃げたのなら、ぱぱも、無事だよね?」
「そのことか。だいじょうぶだ」
カントゥータは可愛い弟嫁を安心させるように微笑んだ。
ひょいと腕に抱き上げ、カルナックの柔らかな頬を片手で撫でる。
「コマラパ師には、村人たちをまとめて、山のほうに向かってもらっている。母さんならともかく、うちの父親では頼りなくて、みんなついてきてくれなかったのだ」
「……よかった」
思わずこぼれ出た言葉に自分でも驚いて小さく息をのみ、カルナックは、カントゥータの厚い胸に顔を伏せた。(女性ながら筋肉を鍛え続けているカントゥータの胸は、大きいけれども筋肉のかたまりで、かなり固いのだった)
「クイブロとローサ義母さんが村に残ってるのは心配だけど。銀竜さまもいるんだもの、無事だよね?」
「もちろんさ」
「……ぱぱ?」
ふと、アトクは振り返り、カントゥータに抱っこされている、幼いカルナックを見た。
「今、パパと?」
アトクの疑問に、カントゥータは、深く考えることもなくさらりと答える。
「ああ、うちの嫁御は、父親のコマラパ師をそう呼んでいる。耳慣れないが、外国の言葉のようだな」
アトクは目をしばたいた。
「クイブロの嫁よ。では、母親のことは、なんと呼んでいる?」
「まま。……もう死んでるけど」
カルナックは、遠くを見るような眼差しで、ぽつりと言った。
「それは、辛いことを聞いてしまったな」
「ううん。いいんだ。ままは、とってもきれいで、やさしいひとだったの」
小さい頃に死別したのだとは、カルナックは口にしなかった。恐縮するアトクに追い打ちをかけそうだったからである。
「じゃあ……嫁には、やっぱり前世の記憶があるんだな」
独り言のように呟いたのを、カルナックは聞き逃さなかった。
真っ黒な瞳を、ひたとアトクに向ける。
「も? って、お兄さんも?」
思わず知らずに気圧されて、アトクはゆっくりとうなずいた。
「おれとあんたは、たぶん同じ国で、近い時代に生きてたんだろう。知っているかもしれないが《世界の意思》は、そういうことをよくするらしい。『縁』がどうとか……そのほうが面白いだとか言ってたな……」
苦笑。
「奇妙なもんだが、親近感が湧いてきたよ。嫁。弟をよろしく頼む。ちっと頼りねえが、覚悟はしているようだ。根性はあるんだぜ」
「うん。知ってるよ」
にこっと笑った。
だが、その屈託ない笑みは、やがて、いぶかしげな表情に変わる。
「……へんだなあ」
カルナックはつぶやいた。
「アトク兄さん、まえに、おれが聞いてたのと印象が違う。クイブロの大切なものを取り上げたりしてたって。乱暴で手に負えなかったって」
そればかりではなく、アトクの異常行動についてカントゥータから話を聞いたコマラパは、『サイコパスだな』と一言。
普通の人間と思ってはいけないという。
それを聞いているから、カルナックは《世界》が遣わしたのだというアトクの言葉を全て信じていいのだろうかという疑念も捨てきれなかった。
「可愛い弟や妹だから、からかいたかったんだ。……うん、それもだが。認めねえわけにも、いかねえな」
アトクは、天を仰ぎ、大きな息を吐いた。
「以前の俺は、奇妙……おかしかった。異常だった。認める。もちろん一言で片付けられないくらいにさ。歩く迷惑みたいなもんだったんだ」
しみじみと、冷静に、省みる。
「さっき死んで、《世界》に会ってきた」
アトクの言葉の意味は、前世の記憶も無くセレナンに遭遇したこともない妹カントゥータにはとうてい理解しようもないのだが、彼女は黙って聞いていた。大兄アトクが嘘など言わないと信じている。手に負えない乱暴者だったが昔から嘘だけはつかなかった。
「おれは《世界の代行者》だったと聞かされた。《世界》は大きすぎて、直接人間に干渉するととんでもない大事になるから。《世界》にとって有害になる可能性のある人間や国を消したり滅ぼしたりする手足として、呼び込んだと言うんだ。たぶん他にも、そんな人間は大勢いるだろう。おれは……数え切れないくらい何度も転生して、そんなことを繰り返してきたんだよ」
「わかるよ。《世界》が、人間の常識では計り知れない巨大なものだということは、おれも、知ってる」
カルナックも、答えた。
「二人とも、何を言ってるんだ」
呆然とするカントゥータに、カルナックは、優しい目を向ける。
「カントゥータ義姉さまには、わからないかもしれないけど。そういうことも、あるんだよ。この世界の神様は、《世界》は、人間にとっては桁外れに巨大だ」
「自分の意思だと思い込んでいたが、そうではなかった。……いや、それでも、おれがグーリアに与して害をなしていたことも、ガキの頃クイブロをいじめてたってのも事実だ。戦争で大勢の人を殺したのも」
うつむいて、また、前をまっすぐに見る。
「おれは《世界》に、罪滅ぼしの機会を与えてもらった。このまま『村の守護者』となって、できるかぎりの善行を積み、魂を洗う……村のやつらには、信じてもらえないだろうが」
「そんなことない!」
カルナックは、アトクに言う。
「だってクイブロは、兄さんのこと好きだよ。わかるもん。こわがってたけど。だいすきだって」
花のように、笑う。
その周囲には青白い精霊火が集まり、まぶしくて直視できないほどに光っている。
アトクには、そう見えた。
カントゥータは、きょとんとしていたのだったが。
「でも、たやすく信じることはできない。ここは、『精霊火』に判断してもらうよ」
カルナックが両手を前に突き出す。
周囲に集ってきた『精霊火』がアトクを囲み、すっかり押し包んでしまった。
※
銀色の靄の中で、アトクが見たのは。
血の色をした、生暖かい闇だ。
自分の足下に落ちるのは、赤黒い、長い影。
……そうだ。たとえ《世界》が赦しても。
この、おれは。
自分のしてきたことを知っている。
今は転生の全てを思い出しているのだから。
何千何万回と繰り返してきた転生のたびに、どれだけ多くの人間を殺してきたか。それはおれの魂に染みついている。
すすぐなど、とうていできるはずはない。
たとえそのぶん地獄に堕ちて苦しんでも。
《世界の意思の代行者》の役職を解かれても。
『だが、おまえは我が手、我が駒、我が道具である。赦す。野に下れ。望むものたちを守護する、その願いを、我《世界》が赦そう』
心臓に響くのは《世界》の、無機質な声。
アトクは銀色の靄の中に在った。
目の前には、黒髪に黒い目の少女がいた。
クイブロの嫁であるカルナックと同じ姿、同じ顔だが、年齢は少し上だ。
十六、七歳ほどと思われる。
「あんたは……誰だ?」
「わたしは、闇の魔女カオリ」
少女はたおやかに佇んでいた。
「だけどわたしもカルナックなの。今のカルナックは、わたしの幼い頃の姿よ。あの子に危険が迫れば、わたしも表層に浮かび上がって、助けるけれど。普段は、魂の奥底で眠っているわ」
「眠っている……?」
「ふふふ。《世界》と雑談やチェスでもしながら、ね。でも、いつか、クイブロと一緒にカルナックが成長できたら。わたしたちの意識は溶け合って一つになるはずなの」
少女は、にっこりと笑った。
まるで大輪の薔薇が咲き誇ったように、鮮烈な薫りが立った。
そして目の色は、みるみる、アクアマリンのような淡い青へと移り変わっていく。
圧倒されるほどのおびただしい魔力が。生命力が。溢れ出る、蒼い光。
「ああ。あんたが……あの、カオリなのか。《世界》に愛された特別な存在」
「でもそれは、わたしが望んでいるわけではないわ。この場所に還ってくると、いくつもの前世を思い出すの。大切な人に何度も出会って、そしていつも失ってきた。それは、幸せなのかしら? だから不安なの。むしろ幸福になることが、怖い」
カオリは、諦めにも似た複雑な笑みをたたえていると、アトクには思えた。
はたして《世界》に執着されることは幸福なのか、はたまた不運なのか。
そして、次の瞬間。
銀の靄は消えて、アトクは元の場所に戻ってきていた。
※
「わかったよ。《世界》は、アトクお義兄さまを信じていいって! よかったねカントゥータお義姉さま」
カルナックは、嬉しそうに笑う。
「じゃあ行こう。アトク兄! みんなに見せてやるんだ。還ってきた大兄ちゃんのすごいところを!」
カントゥータも、日焼けした顔に、白い歯を見せて笑った。




