第1章 その11 投石紐(ワラカ)の名手クイブロ
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「おまえ、名前は? おれはクイブロ」
「……初めて出会った人には、簡単に教えてはいけないって、姉さんが言ってた」
用心深く、カルナックが返事をすると、
「そりゃ、そうだ」
クイブロと名乗った少年は頷いた。
「とにかく逃げよう。爆薬を投げてやっつけたコンドルモドキの死骸の臭いで、ここらへんの魔獣が、たくさん集まってくる」
カルナックをひょいと抱き上げた。
とたんに被っていた頭巾がずり落ちて、ぱさりと、軽い音をたてて、長く艶やかな黒髪が、こぼれた。
クイブロは驚いて、目を見開く。
「おまえ、すげえ、きれいだ……それに、軽いな! ビスカチャ(うさぎ)みたいだ」
すぐに走り出した、背後では、バサバサと大きな羽音が集ってきていた。
つい先ほどクイブロが倒した魔鳥が、食らわれているのだった。
バキバキと骨が噛み砕かれている音が聞こえる。
「あいつら、仲間の死骸でも喰うからな。そしたら、しばらくは満腹になるから、ここらは安全になる。どこかに身をひそめて、やつらの食事が終わるのを待とう」
「だったら、あっち! あの木陰へ行って」
カルナックが頼むと、迷わずそこへ足を向けた。
「何かあるのか」
走り出してから、聞く。
「連れと待ち合わせをしてる。すぐに戻ってくるよ」
「父ちゃんか?」
「ううん。えっと、老師」
「老師? 先生? 連れがいたのか。残念だな、おまえが迷子だったら、おれが拾って帰るのに」
少年は白い歯を見せて笑った。
「おれは迷子じゃない」
カルナックが言うと、クイブロは残念そうに首を横に振った。
「おまえみたいなキレイな子が、おれ、とか言っちゃだめだ。そういうときは『わたし』って言うんだ」
「なんで?」
カルナックは自分の容貌が人にどういう影響を与えるかが、全然わかっていなかった。
精霊の用意した、裾の長い衣に、ゆったりしたローブのような上着を羽織ったカルナックは、まるであどけない美少女のようにしか見えないのだということを。
それに、長い黒髪が腰まで届くほどだし、花のような良い匂いまでしているのだ。
「急ぐぞ! パコチャも来い!」
後ろから、鈍い鈴の音が追いかけてくる。
四つ足の獣が三頭、いた。
背丈はクイブロくらい。おとなしそうで毛がこんもり盛り上がっている。二頭は同じ大きさで、残り一頭は一回り小さい。
「あれはなに?」
「おれが十歳になったときに親からわけてもらったパコだ。つがいで、小さいのは、春に生まれた子どものパコチャ。これで、ひと財産はある。嫁取りのときに要るんだよ」
ちょっぴり自慢そうに目を細める。
「だから、こいつらは、おれが放牧地へ連れてって世話をしてるんだ」
「へえ! クイブロのなの? かわいい! 毛がもこもこ!」
喜んで手をのばすカルナック。
クイブロは、その反応に違和感を覚える。
「そりゃ、おれのパコたちは可愛いけど、家畜だよ。毛を刈り取って織物にするし、乳も搾る。おまえパコも知らないのか。街の子か? どこから来たんだ?」
「森だよ。さっきも言った」
「森? どこのだ? 近くにあったかな。それに、こんな柔らかい足の裏をして、こんな石ころだらけの田舎の荒野を、いったいどこから歩いてきた?」
クイブロは日焼けした手でカルナックの足の裏を触った。
「くすぐったいよ。……姉さんに造ってもらった靴を途中で落としちゃったんだ。それで老師が探しに行ってくれてる」
「ふうん。先生も心配だろうな。こんなにきれいな子を連れてさ。でも、どうして一緒に旅を?」
クイブロが言っていることが、いまだにカルナックには、その一部分しか理解できなかった。
「姉さんと兄さんと、世界が。コマラパ老師ならいいって言った。(きれいな子ってなんだろう)ほら、ここで待ち合わせてた」
薬草の煙をたちのぼらせている、いぶし銀の香炉を見つけて、クイブロは感嘆の声をあげた。
「エストラカが焚いてある。コマラパ老師って人は、旅慣れてるみたいだな。それでここが待ち合わせ場所ってわけか。おまえ、なんでエストラカを持っていなかったんだ。魔獣をよけられたのに」
見ればクイブロの腰には小ぶりの香炉が提げてあった。
魔獣除けの道具は必須アイテムらしい。
木陰に着くと、少年はカルナックを草むらの上に置いた。
艶のある黒髪を、手で梳いて、少しの束をつかみ。
鼻に寄せて、匂いをかいだ。
「なんの匂いだろう?」
囁く。
野性的な褐色の目が、じっと、自分を見ていることに気づいて、カルナックは、どこかもぞもぞと落ち着かなくなる。
(おかしい。なんか、クイブロの様子、おかしくないかな?)
直感は警鐘を鳴らすものの、それがどういうことか、わからない。
長い間、精霊とだけ暮らしていたからだった。
答えようとしたとき、まさにその回答が、ぴょこんと草の間に姿を覗かせた。
長い耳を動かしている、茶色い毛に覆われた生き物。
「あれを追いかけてたんだ!」
「ビスカチャが欲しいのか?」
うさぎのことをビスカチャと呼ぶのかとカルナックは思う。
その数秒の間に、クイブロは素早く動いた。
腰に付けた革袋から手のひらにのるほどの石を取り出し、胴回りに巻いていた紐を外して二つ折りにし、真ん中に開いている穴に石を挟んで勢いよく振り回す。
びゅん、と紐が唸り。
次の瞬間、クイブロが振り回していた紐の一方だけを手から離すと、石つぶてはウサギに向かって飛んでいき、その額に当たった。
ばきっ、という鈍い音がして。
ウサギはひっくり返って動かなくなった。
クイブロはすぐさまウサギを拾い上げ、カルナックに投げてよこす。
「ほら。こいつが欲しかったんだろ。晩飯にするといい。おれは投石紐の名手だから、欲しければ、いくらでも獲ってやるよ」
「ちがう……」
まだ温かく、ぐんにょりとしたウサギの柔らかい身体を抱き寄せて、カルナックはかすれた呟きをもらした。
「なにが違うって?」
「晩ご飯の肉が欲しかったんじゃない。こんな生き物、初めて見た。可愛かったから、さわってみたくて」
「え。そうなのか。……悪かったな」
すまなそうに言って、クイブロはカルナックの傍らに腰を下ろした。
うつむいていたカルナックが、ゆっくりと顔を上げた。
水精石色の瞳は、強い光を溢れさせていた。
「ねえ、これ、くれる? それとも、クイブロが持って帰りたい?」
「おまえにやったんだ。好きにしたらいい」
許可を得ると、カルナックはウサギを目の前に横たえ、両手で包み込むように、指をひろげた。
小さな手の中に、青白い光の球体が生じた。
「精霊火じゃないか! なんで、ここに!」
クイブロの目に、畏怖の色が浮かんだ。
精霊の魂と呼ばれる不思議な火を、なんでもないことのように呼び、手で触れ、操る、黒髪の子どもの小さな手を。
数限りなく集まった精霊火は、ウサギの死骸を覆っていく。
精霊火はウサギの死骸に溶け込むように消えていった。
すると。
ウサギの身体が、白く輝きだした。
やがて、ウサギが、ぴくっ、と、ひげをうごめかせ。
目を、あけた。
身体は白く、目は青色に変化していたが、ウサギは確かに生き返ったのだった。
「おいで」
カルナックの差し出した細い手に鼻先を触れ、大きな目をしばたいて、指先をペロリと舐めた。
「うふふ。かわいい! もふもふだ! あったかーい」
白ウサギを抱きしめて顔を埋める。
「ユキ! おまえ、ユキって名前にしよう!」
すっかり懐いて、カルナックの首もとまで伸び上がるウサギ。
「驚いた……」
クイブロの呟きに、ふとカルナックが顔を上げると、間近に、クイブロが迫っていた。
「え?」
「可愛いのは、おまえだ」
反論も返答もできないうちに、唇が重ねられていた。
温かく湿った、柔らかいものの感触に、カルナックは驚き困惑する。
息ができない。
こんなことは望んでもいないし予想もしていなかったカルナックは当然必死になって暴れたのだが。なにぶん小さい身体なので、跳ね返すことも逃がれることも思うにまかせなかった。
口づけは、次第に深く、熱くなっていく。
「ううう!」
カルナックが声も出せず虚しく抗い続けているちに、精霊火の群れが、再び集まり始めた。
「精霊火が……また、集まって来てる。どういうことだ」
クイブロはカルナックを解放したが、集まってきた精霊火に身体じゅうまとわりつかれることに、目を丸くして驚いている。
草むらに倒れ込んだカルナックは激しく咳き込んだ。
「ごめん、だいじょうぶか?」
差し伸べられた手を、反射的に振り払う。
「いやだ……おれに、触るな!」
ざあっと、カルナックが身に纏っていた長い衣も上着も全てが瞬時に漆黒に染まった。その瞳も、漆黒に変わる。
精霊火の群れが集まって巨大な塊に変じたと思うと、クイブロを包み込んで高く持ち上げて。
遙か上空で、放り出した。
「うわあぁあ!」
地上数十メートルからの落下だ。
落ちてくる途中でクイブロは衝撃に意識を失う。
「危ない!」
コマラパの叫びが耳を打ち、カルナックははっと我に返った。
「……イツァム・ナ。天空の神に我は願い奉る。#嬰児__みどりご__#の生命を護る手立てを我に……」
コマラパが呟くと、クイブロが落下してくる速度が、緩やかになった。
それを、両手をひろげて受け止める。
コマラパはカルナックが来る途中で捨てた靴をようやく見つけ出して、戻ってきていたところだった。
「しっかりしろ、カルナック。今のは、わたしも遠くから見えたから、おまえが怒るのもわかるが。人間を殺してはいけない」
「あ……」
カルナックは、みずからの行動に、自分でも驚いていた。
「人間を殺せば、あとが面倒になるぞ」
精霊の森で半年暮らしたせいか、コマラパの言い分も、かなり精霊レフィス・トールの影響を受けていたかもしれない。




