第1章 その10 第一村人と接近遭遇
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レフィス・トールは、カルナックを森の外に連れ出すことを、承知しなかった。
「うちの可愛いカル坊にもしものことがあったら、責任を取れるのか」
確かにもっともな主張だが、そのレフィスはカルナックを抱きしめて「ちゅー」の雨を降らせているので、しかも当のカルナックには、たいそう嫌がられているので、説得力は、半減していた。
「死んでいたおれを、二人が、精霊たちが助けてくれて、森に受け入れてくれたこと、感謝してる。どんなにしても感謝しきれない。だけど、おれは人間でしかないから。精霊にはなれない。本当はずっと、ここにいたいけど。何かが、言うんだ。これじゃいけないって。外へ出て、世界のことを知らなくちゃいけないって」
カルナックの決意が固く、どうしても、そうしなければいけないのだと言い張るのを、やがて、しぶしぶレフィス・トールも受け入れた。
「では、危険な国以外なら、どこでも望むところへ道を繋げよう。だが、いつでも帰ってきていいのだからね。カル坊は」
「コマラパはだめなの?」
「だめだ」
即答である。
「だめ? 危険で、逃げ場所がないときでも?」
「うう。それは……カル坊が一緒の時に限っては、受け入れてもいいけど」
しょせんレフィスとラトは、カルナックには弱いのだった。
「どこへ行く? コマラパ」
「エルレーン公国へ。そこなら信頼できる知人もいるし、エルレーン公フィリクスは清廉な人物だ。挨拶もしておかねばならん」
エルレーン公の本家筋にあたる、レギオン王国から、コマラパが失踪したことで、迷惑がかかっているかもしれない。
ついそんなことを考えてしまうコマラパであった。
世界の、セレナンの大いなる意思が創り出した精霊の森は、自在に、世界のどこにでも通路を繋げることができる。
「では、旅立つがいい。コマラパ老師。我々の愛し子を連れ去るのだ、少しの苦難は覚悟しているだろうね? もちろん危険な場所には送り出さないから心配はいらないよ」
別れ際に、レフィス・トール・オムノ・エンバー。
すなわち辺境の地の長、レフィスは。
軽く脅しの入った文句で、コマラパを精霊の森から外へと弾き出した。
「やれやれ、行ってしまったか」
「ひどいわレフィス! コマラパはいいけど、カルナックが苦労するのはイヤよ。あんな田舎に送るなんて。彼らには移動手段もないのよ!」
レフィスの人間への仕打ちに憤るラト・ナ・ルア・オムノ・エンバー、辺境の地に生じた最後の子、ラトに対して、レフィス・トールは、
くくく、と、精霊らしからぬ悪そうな含み笑いで応えたのだった。
「大丈夫、どこに行っても我々精霊には全てを見通せるのだから。わたしたちの愛し子、可愛い弟のカル坊なら、絶対うまくやるさ。どんな環境だって軽々と楽しんで。むしろ付き合わされるコマラパの方が、大変だろうな!」
※
エルレーン公国の首都であるシ・イル・リリヤに送ってもらえるとは、コマラパも期待してはいなかった。
しかし、見渡す限り山、また山、それから高原という、見知らぬ環境に放り出されては、これからどうすればいいかと途方に暮れた。
エルレーン公国の領土なのは違いないだろうが、ここがどの地区で、どんな人間や獣が住んでいるかもわからないのだ。
いや、そもそも人間がいるのだろうか?
が、それをカルナックに気取られるわけにはいかない。
コマラパが、外の世界を、人間達を、カルナックに見せてやりたくて、静謐な精霊の森から連れ出したのだから。
「うっわー! すっごい、すごい! これが外? 広いね! 空が大きいね!」
もっとも、カルナックはコマラパの気苦労など知るはずもなく、ご機嫌だった。
生まれて初めて、外界を知ったのだ。
ぴょんぴょん飛び跳ねるたびに、頭から被っている外套がひらひら動いて、頭巾がずり落ちそうになるのを、コマラパが直してやる。
いつも森で着せてもらっていた長袖の衣に加えて、強い日差しを受けたことがないカルナックのために、ラトが新しく造ってくれた、頭と髪をすっぽり隠してしまえる上着を身につけている。
小さな斜めがけの小物袋も用意してくれた。中には、カルナックの生存には欠かせない、清潔な水が、水晶でできた筒に入っているのだ。
「ねえねえ、コマラパ。あれなに? なんか、まぶしいのが、空にあるよ」
「太陽というものだよ。青白く若き太陽神アズナワクだ」
「へーえ。あれが太陽? でもヘンだな。おれの前世の記憶にあるのは、あんなじゃなかった。名前も……違ってた」
「思い出したのか」
「うん、ときたま、ふっと。でも、すぐに何もわからなくなるよ。そのときの自分の名前も思い出せないもん」
「いいのか悪いのか。わたしのようにいつも前世の記憶と共にあるのも、なかなか面倒なものだよ」
「ふーん。たいへんだねえ。ねえねえ、ここは? ここは、どこ?」
「エルレーン公国の領土だろう」
「コマラパの生まれたところ?」
「いや、わたしは海岸に近い、大森林地区の生まれだ。クーナ族という一族でな。人口は多くない。それでも学校もあるし井戸や畑もある。亜麻というものを栽培しているのだ。これが金になるので、なんとか暮らしていた」
「かね? なにそれ」
「貨幣制度だ。これは、思い出せないか?」
「ん~。なんとなく……金本位制度?」
「それはわかるのか。多くの土地では、貨幣でなくいまだ黄金そのものが流通している。たとえば、これだ」
コマラパは懐から、柔らかい薄い皮でできた包みを出した。
中には、小指の先ほどの、黄金の粒が、十、入っている。
「こういうものを幾つかに分けて持っているのだ。これが、まあ、かね、だな。レギオンやエルレーン、そのほかの大きな国では独自の貨幣を発行しているが、そういうところでも黄金なら、ものを買ったりできるからな」
「へえ。買うってなにを?」
「服とか。食べ物とか」
「おれには、いらない」
「精霊の森では、そうだろうな。わたしでさえ食欲ものどの渇きもなかったし眠る気も起きなかった。不思議な場所だ。しかし、これからは、少なくともわたしは、食べ物が必要だ。さあ、行くとしよう。ここから、どこか、人の住むところへ」
※
歩き出してすぐに、カルナックは足の裏が痛いと言い出した。
「靴はどうした。姉さんが木の皮と布で造って、履かせてくれていただろう?」
「さっきのとこで脱いできた。だって森ではずっと裸足だったし」
「精霊の森では、な。ラトが持たせてくれたのは必要だからだ。おまえの足の裏は、柔らかい。外界で裸足で歩けば傷つくし、火傷もするかもしれん。戻って靴を探そう」
コマラパはカルナックを抱き上げて運ぼうとしたが、
「やだやだ! 戻るなんて。ここで待ってるから、早くさがしてきてよ」
「しょうがないな。おとなしく待っているんだ。こんなに明るいし、いないとは思うが、もしも獣や魔物を見かけたら、大声で叫ぶんだ。……いや、やっぱり心配だな。まじないをしておこう。これを持って」
コマラパは背負っていた背嚢から、細い鎖に吊した、香炉を取り出した。
数種類の乾燥した薬草を入れて、火をつける。
「これはエストラカ。魔獣をよせつけない道具だ。いいかい、ちゃんと持って、待っているんだよ」
「はぁい」
カルナックは、返事はいいのだ。
ちゃんと聞いているかは、不明だが。
はなはだ心配だったが、コマラパは来た道を戻っていった。
靴がなくては、旅はできない。
カルナックが捨てた靴を探し出すか、そうでなければ、どこか靴が手に入る店にたどり着くまでコマラパが抱いているしかなくなる。
後ろを気にしつつコマラパが視界から姿を消すと、早くもカルナックは退屈し始めた。
「めんどうだなあ。くつがないと、足が痛むなんて」
カルナックの体重などたかが知れているのだが。
精霊の森で長く過ごすうちに、皮膚は透き通るように白くなっていた。同様に、小石や地面を踏むことのない足の裏は、たいそう柔らかくなっていたのだった。
強烈な日差しにさらされれば、肌は火傷を負うだろう。
当分の間、コマラパの庇護のもと、おとなしくしているしかない身の上を、カルナック自身は、さほど深刻に受け止めてはいなかった。
木陰で待つことしばし。
カルナックには途方もなく長い時間に思えたが、実際には数分だったろう。
そのなとき、目の前に、ちょこんと姿をあらわしたものがあった。
長い耳を動かした茶色い毛で、ふさふさの丸い毛玉のような尾っぽ。愛嬌のある、無害な小動物そのもの。くりっとした明るい茶色の目が、じっとこちらを見ている。
「あれ? うさぎ?」
ウサギに手をのばしてみたら、するっと逃げる。
この瞬間、カルナックは、コマラパの忠告を忘れた。
魔獣除けの香炉を置き去りにして、ウサギを追いかけて木陰から出てしまう。
カルナックの数歩先を、つかず離れず飛び跳ねていくウサギ。
捕まえようとか、そんな気持ちがあったわけでもなく。
ただ、初めて出会った小動物に心奪われて、ついていってしまった。
手をのばせば今にも届きそうだった、ウサギが。
ばさばさと空から舞い降りた、巨大な鳥の鉤爪に、あっという間につかみ取られて消え失せる。
「あ」
大きな鳥の影が地面に落ちた。
カルナックが見上げれば、それは巨大な鳥だった。
ガラス玉のような赤い目をした、真っ黒な羽は、広げれば差し渡しが3メートルはあろう。今にも食いつきそうな獰猛な嘴が、開いた。
「頭を下げろ!」
その声が響いて、カルナックが身を伏せた、その瞬間。
ひゅっと風を切って飛んできた、拳大の塊が巨鳥の頭に命中して、途端に、怪物の頭部部が、弾けた。
きな臭い煙があがる。
ごほごほと咳き込んで屈んでいたカルナックに、手が差し出された。
「危なかったな。もう大丈夫だぞ」
その手は、カルナックのものより大きかったけれど、決して、大人の手ではなかった。
煙で涙が出て、うるんだ目で見上げると、息を呑んだ、音がした。
「おまえ、どこの子だ?」
焦げ茶色の目に困惑を浮かべた少年が立っていた。
赤みを帯びた金髪は、手入れなどされていないようにボサボサだ。
年頃は、十歳より少し上だろうか。
「森から来た」
そう答えると、少年は、その場に膝をついて、カルナックの目を覗き込んだ。
「水精石みたいな目の色だな」
日に焼けた頬に、赤みが差していた。
「おれはクイブロ。おまえは?」
「?」
何が起ころうとしているのか、カルナックには全くわかっていなかった。




