1話
結局、夜景もそこそこに事務所の入っているビルの前で車を停めた西原は、むつがコートを着たりしている間に、車から降りた。帰り道でも、会話らしい会話はなかったが、むつの表情はそれでも少し明るげに見えた。
西原がドアを開けると、降りたむつはありがとうと言った。戻るのが遅くなったからか、人通りも車通りも少なくなっている。気温も一段と下がったのか、吹き抜けていく風が痛いくらいに冷たかった。そんな中、コートも羽織らずに西原はむつを見ていた。
「…依頼の件だけど、霊は居ない。という事で、依頼主さんにお伝えください。あの場で言ってから帰れば良かったね」
ぼんやりしてたや、と笑うむつの目元は少し赤くなっており、腫れている。そんなに泣いていたとは思わなかったが、意外と泣いていたのかもしれない。
「分かった…」
ばたんっとドアを閉めてむつが再度、礼を言い頭を下げた。西原はそんなむつの頬に手を添えて、少し上を向かせると顔を近付けた。
「…えっ?」
何かと思った時には、マスクの上から西原に口を塞がれていた。目を見開いていたむつは、正面から西原の目を見ていた。西原も目は開けていた。
「…こういう時は目閉じろよ」
唇が離れても西原の顔はすぐ目の前にある。
「え、だって…急すぎて」
「許可貰わないといけないか?」
「まぁ…え?う、ん…」
「なら、マスク外してからするぞ」
瞬きを繰り返しながらむつは、何も言えずに固まっている。西原の指がマスクを下げると、むつは少しうつ向き身を引いた。きょろきょろと視線をさ迷わせたが、西原の手に自分の手を重ねてからそっと目を閉じた。西原が身を屈めて、近付いてくる気配がした。
ふるふると睫毛が、風もないのに揺れているのに気付いた西原は、ちゅっとむつの口の端、唇には触れない位置に自分の唇を押し付けた。
「…また今度な。ほれ、早く戻れよ」
マスクを戻され驚いていると、むつはとんっと背中を押された。西原を振り返えり見ると、笑みを浮かべている。
「え、あ…う、うん…」
呆然とした様子のむつは、ふらふらとビルの入り口に向かっていく。完全に中に入る前に、振り返ると西原はまだ居りひらひらと手を振ってきた。




