その2
3 混沌の世界
――コンニャク、風、弁当――
翌日、私は三十分も早く起きる羽目になった。何故かというと、昨日紫條院清華にリムジンで家まで送ってもらったことが原因だ。そのせいで、自転車は学校の駐輪場に置きっ放しなのである。
昨日の夜に、明日三十分早く起きる旨を伝えると、母親は驚いて余計な詮索をしてきたが「日直だから」と瞬間的に嘘をついて誤魔化した。
私は用意された朝食を胃に運び、冷たい水で顔を流し、パジャマから制服に着替えるという朝のルーティンを確実にこなしていく。
そして、いつもより三十分前に家を出る。愛車の『白銀号』が無いので、学校までは己の二本足で歩かなければならない。どうしても過ぎ去っていく景色が常より遅いので、焦りというか歯がゆさみたいなのを感じる。いつも自転車に乗っていたから気付かなかったが、歩いてみてわかった――世界はあまりにも広大過ぎて、私に否応なく現実を押しつけてくる。世界が自分の偉大さを見せつけているようで、何となく腹が立った。
黙々と常日頃自転車で通ってきた道を歩き続け、ようやく学校へ到着する。
私は駐輪場が隣接している裏門をくぐり、スマートフォンで時間を確認した。ちょうど自転車で到着する時刻と同じだ。私は、昨日から心配していた『白銀号』の安否を確かめる。盗難に遭ったり悪戯されていたりしたら一大事だ。何せ、中二病の影響で私の自転車には過度な装飾が施されているのだから。
と――私は自転車のそばに誰かがいるのを見つける。制服からして男だ。恐れていたことが起こってしまったのか。私はすぐさま自転車に駆け寄り、男に声をかける。
「そこで何をしている」
男はどこかツボでも押されたかのようにびくりと反応して、恐る恐るという感じで私に振り返った。
「もお~、びっくりするじゃない。いきなり声かけないでよ」
やけに甲高い声が返ってきて、私は驚く。しかし同時に、相手の驚きように呆れた。いきなりじゃない声のかけ方を教えて欲しいものだ。
私はその男を観察する。身長は私より低く清華よりは高い。小柄な体格で、男とは思えないほど華奢だ。血のように濃い赤色の髪は真っ直ぐ肩まで伸びている。顔の線も細く、女性のような顔立ちだった。見た感じは、ビジュアル系バンドでもやっている人なのかと思わせる。顔だけ見ると女性と区別するのが難しい。話し方まで女性のようなので、逆に男の制服を着ていることに違和感を覚えるほどだ。
「君が京極聖夜?」男が訊く。
「何故、俺の名前を知っている?」
「うふふ、何故かしら? それよりも、この自転車、かっこいいわね」
まるでコンニャクのように体をくねらせながら言う男。
危険な臭いがした。私の名前を知っている正体不明の女性のような男が、私の自転車の前で待ち伏せをしている。私の心がざわつく。
「お前……一体何者だ? 俺に一体何の用がある? ちょっと待てよ、まさか、自転車に爆弾でも仕掛けたのか!」
「そんな、とんでもない。僕はそんなつもりないわ」
男は胸の前で手を振って敵意がないことを示す。
「僕の名前はアテナ。《深紅の河岸》に属する特殊部隊の少佐よ。用はなくて、ただ君にお近付きできればいいなと思ってね」
男の言葉に私は怪訝な表情を浮かべる。私が黙って様子を見ていると男はくすりと笑みを零し、続けて言った。
「まあ、僕の場合は元なんだけどね。だけど、君は現役でしょう? わかるわ。何というか、同じ匂いがするんだもの」
私は衝撃を受ける――正体を見破られたこともそうだが、それ以上に、話のわかる者がこの学校にいたという事実に。
「そうか……だが、名乗られたからには名乗り返すのが礼儀。俺はアーノルド・W・スタローン! 《琥珀色の勇気》第十三師団の大佐だ!」
私が名乗ると、男は手を組んで恍惚の表情を見せた。
「いいわ……何て素敵な名前なの。でも……他の中二病とは毛色が違うわね」
「そうとも。俺は神に選ばれし正義の使徒だ! ダークサイドに堕ちることはない」
それより、と言って私は話を変える。
「どうしてお前は俺の世を忍ぶ仮の名前を知っているんだ?」
「結構学校中で話題になっているわよ……何せ、全国模試の一位と二位が初日から火花を散らしたって噂なんだから」
私は、昨日の教室で起こった清華とのファーストコンタクトを思い出す。
「それに、君は中学の頃から有名よ? すごい中二病だって」
それは知らなかった。私の名前が広く知れ渡っているとは。自分の知名度を再認識する必要があるな。
「ところで、お前の世を忍ぶ仮の名前は何だ?」
「それは駄目、言えないわ。僕のことは『アテナ』って呼んで。僕も君のことは『アーノルド』って呼ぶから」
隠すことでもなさそうなことだが、そう言うなら了承するのはやぶさかではない。
「それより、もう時間もないから早く行きましょう」
アテナはそう言うと私の自転車から離れて歩き出した。私も後を追い、下駄箱まで共に歩く。すると、アテナは二年生の下駄箱へと向かう。そこで私は初めて、アテナが二年生であることを知った。合流して階段を上る時に、アテナは言う。
「僕は先輩だけど、あまり上下関係とか気にしなくていいからね。それじゃあ、またね」
アテナは別れ際にウィンクをする。
同じ中二病の経験者で話がわかるいい先輩だとは思うのだが、どうしても気持ち悪さは拭えなかった。
一年四組の教室に這入ると、クラスメイトの視線が私に集まる。私はそれを気にせず、自分の席に向かい、途中で何人かとあいさつを交わす。近付いてくるにつれて、クラスメイトの注目度が高まった。
それは、私の席の隣に紫條院清華がいるからだ。昨日いきなり激しい口論――主に私が中二病モードでまくし立てたのだが――をして、周囲も次のバトルを期待しているのだろう。この場合は、何か言葉を交わしただけで観衆は熱狂する。
「おはよう」
どうしたものかと思っていたら、清華の方からあいさつをしてきた。「おはよう」と、私もあいさつをしてそのまま席に着いた。それから彼女は一言も発しない。私が何か言おうかどうか迷っていると、始業のチャイムが鳴り、クラスメイトの落胆を感じる言葉が聞こえた。
とりあえず、周囲の注目を外すことが大事か。どうせ何もアクションを起こさなければすぐに目移りすると、清華はそれを待っているのだろう。ただ、それだとロクに彼女の方を見ることができない。彼女の美脚を拝めないのは寂しいな。
考えを巡らせながらカバンの中身を机に移そうとした時――机の中に紙片を見つけた。さりげなく手に取る。紙片というより、小さいメモ帳の一ページが丸ごと使われていて、清華の人間性を物語っているようでもあった。他から見えないように隠して書かれている内容を読む。
『昼休みに屋上へ来るように。それまで一切の接触を禁止する』
私は清華に『お預け』を喰らった。
昼休み。私は弁当箱とお茶のペットボトルが入っているカバンを片手に、清華の指示に従って屋上を目指した。弁当を持っていく理由は、彼女の話が長くなり、教室に戻って弁当を食べる時間がない場合に、適当な場所で食べるためだ。
紙には書かれていなかったが、念のため尾行されていないか確認してから、私は屋上に続く階段を上る。
しかし、どういうことだろう。私は昨日の休み時間に、既に屋上へと足を運んでいる。だが、扉の前の踊り場は立ち入り禁止の看板付きの鎖によって封鎖されていたのだ。私はその鎖を跨いで扉を開けようとしたのだが、無情にも鍵がかけられていた。
つまり――屋上へは出入りできない。この踊り場で話をしようものなら下の階に響いて会談はばれること間違いなしだ。
数分後に清華は階段を優雅な足取りで上ってきた。屋上への道を塞ぐ鎖を跨ぐ時、黒いパンティストッキングに包まれた脚が華麗に舞う。
「どきなさい」
私は清華に言われるがまま横にずれる。彼女は扉の前まで行くと、ブレザーのポケットから鍵を取り出し、扉を開錠した。まるで自分の家の鍵を開けるように平然と。
「何をボーっと突っ立っているんですの?」
扉を開けた清華は振り向いて、唖然とする私に、眉をひそめて言った。「あ、ああ」と私は頷いて彼女の後に続く。私が屋上に出ると、彼女は扉を閉めて鍵をかける。
屋上には無限に広がる解放感があった。空は澄み渡り、小さく見える飛行機が雲を吐き出しながら私の遥か上空を横切っていく。春の陽気は穏やかで、時折体を通り過ぎる風は涼しさを連れてくる。連なる家々や田畑が織り成す風景は、自然と暮らしの共存が見られて心が洗われる気がした。
視線を屋上から見える風景から清華に戻した時、彼女のスカートが風の悪戯でめくられるのを目撃する。黒く艶めかしい太ももから更に上の世界が――。
「きゃああああっ!」
禁断の世界が見えそうになったところで、清華の手がスカートを押さえた。彼女はそのまま顔を上げて、私をキッと睨みつける。
「……見ましたわね?」
「いや、ランガードまでしか見えなかった」
「思いっきり見てるじゃありませんの!」
そこは否定しないが、私の求めていた聖域の色を特定することはできなかったので、見ていないのと同義だ。それは非常に残念なことである。それとも、清華の反応速度を褒めるべきか?
「あなたって変態ですのね」
「俺が変態だったら日本に少子化問題なんて言葉は存在しない」
「言っている意味がわかりませんわ」
「変態って言葉は普遍的で、俺以上の変態は世の中にごまんといるってことだ」
「それでもあなたが変態であることに変わりはなくってよ」
「まあ、そうだけど」
私は肩を竦める。これ以上変態の定義についてあれこれ議論しても、煮詰まりそうにはないと感じたからだ。
「それで……清華は何で俺を屋上に呼び出したんだ? まさか、自らの正体を明かす気になったとでも? お前は宇宙人か? それとも未来人か? はたまた超能力者か?」
「違いますわ」
「では何故、リムジンで送迎されたり、開かずの屋上を開けたりすることができた?」
「私が紫條院家の者だからですわ。だからそれなりの地位にあって顔が広いですのよ。あと、大抵はコレで片がつきますわね」
清華はブレザーのポケットから一万円のピン札を取り出して言った。
まあ、身なりや佇まいの高貴さからうすうすお金持ちだろうなとは気付いていたけど。ただ、図抜けている感じはするが。
「とにかく、昨日のことで私とあなたはクラスで晒し者扱いされていますわ。これじゃあ学校内で建設的な話はできないと思い、こうして誰に憚られることもない話し合いの場を設けたのですわよ」
清華は私に向かって何かを投げた。放物線を描いて飛んでくる小さな物体を、私は何とか両手で受け取る。それは鍵だった。
「これは……?」
「ここの扉の鍵ですわ。私も一つ持っていますから、好きな時に使いなさい。私達以外の侵入を阻止するために毎回鍵をかけること、いいですわね?」
「わかった。感謝する」
私は鍵をブレザーのポケットに仕舞う。
「でもいいのか? 他のやつらとか誘わなくて。お前の中学からの友達とか?」
「そ、そんなこと、気にする必要ありませんわ。それに、私は親の都合でこちらに来たから、昔馴染みは一人もいませんの」
清華の声色が変わったのに私は気付き、更に訊く。
「それでも、昨日の段階で何人かと話はできたんじゃないのか?」
「は、話が合いませんでしたわ」
「もしかして、昔から一人だったとか?」
私が言うと、清華の顔が一気に赤くなった。
「あ、あなたと一緒にしないでくださいませ! 私の場合、私と価値観を共有できる者が今まで現れなかっただけですわよ!」
「孤独を選ぶのと友達ができないのとではわけが違うぞ」
「強がるものではありませんわ。私があなたの友達になって差し上げるんですから、あなたは光栄に思いなさい」
どっちが強がっているのか。それだからきっと周りが寄り付かないんだ。だけどまあ、種類は違えど一人なのは同じか。ここは私が折れることにした。
「わかった。そういうことにしておくよ」
全然悪いことではない。私からすればむしろ喜ばしいことだ。毎日、誰にも邪魔されることなく、黒のパンティストッキングで包まれた麗しい美脚を堪能できるのだから。
私はスマートフォンを見て、時間を確認する。案の定、時はかなり進んでいて、教室で弁当を食べる余裕は残されていなかった。私はその場のコンクリートに腰を下ろす。
「清華は、もう昼食は済ませたのか?」
「いいえ、まだですわよ……って、聖夜はそこで食べるつもりですの?」
「ああ、そうだが。そうしないと次の授業に間に合わないからな」
驚いた様子で訊いてくる清華に答えながら、私はカバンから弁当箱とお茶のペットボトルを取り出し、弁当箱を包む唐草模様の布を広げた。
「そうは言っても、地べたに座って昼食なんて……」
清華は、屋上のコンクリート床を忌避するような目で見ている。
「そんなに汚くはねえよ。それとも、清華は潔癖症か何かか?」
「別にいいでしょう、そんなこと」
「まあな。それよりも……お前は昼食どうするんだ? まだ食べてないんだろう?」
私は弁当箱のふたを開け、豚の生姜焼きを箸で持ち上げたところで、清華を見る。彼女は「ふん」とそっぽを向き、扉の方へと歩き出した。
「今から弁当を取りに行こうと思っていますわ」
「えっ? 取りに行くって、食べに行くじゃなくて? 間に合わねえぞ、そんなの」
というより――食べに行くのも微妙だ。今から教室に戻って食べ始めたところで、昼休みが終わるまでに食べ切れるわけがない。取りに行ってここに戻るようなら、その途中で時間切れだ。それに、ここに座って食べるのが嫌だって言ってなかったか?
清華は足を止めずに、歩きながら言う。私の横を通り過ぎる彼女――その後ろ姿を私は目で追った。
「私からすれば時間なんて問題ではありませんのよ。どうせ次の授業は、受けても受けなくても変わらないんですもの」
「おいおい……全国模試第二位が堂々とサボタージュして優雅に昼食かよ」
「い、言い方ってものがあるでしょう。今回限りですわ。今後は弁当の用意を怠らないと誓いますわよ」
「ふうん。ならさ――」私は箸に摘ままれて行き場を失っていた豚の生姜焼きを弁当箱に戻す。「俺もサボる。一位と二位が一緒にサボれば格好はつくだろう?」
「なっ、何を言っているんですの! 許されませんわ、そんなこと」
清華は足を止めて振り向き、烈火の如く怒りの声を上げた。
「いいからいいから。せっかくなんだ、一緒に飯食おうぜ」
私が箸を持つ手を掲げて言うと、清華は困惑した表情を見せる。しばらく逡巡するような様子で顔を俯かせていたが、やがて顔を上げると、悔しそうな表情で私を眼光鋭く睨みつけた。
「いいですの? 私が戻るまで先に食べないでくださいませ!」
清華はそう言うと、踵を返して屋上から立ち去る。私は弁当箱のふたを閉めてその上に箸を置き、彼女が来るまでの静かな時間を、屋上の風景を眺めながら待った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った時――屋上の扉が音を立てて開かれる。そして、清華が弁当箱というより重箱が入ってそうなほど大きい包みを持って現れた。その後ろに二人のSPを引き連れて。
SPの二人は学校の机と椅子を抱えている。すると、素早い動きで私の前に来て、机をセッティングし始めた。二つの机を向かい合わせに付けて、机の上にあるひっくり返った椅子を下ろす。それで仕事は終わりだと言わんばかりに、SPの二人は清華に頭を下げてすぐさま屋上を去った。
「清華……これ、どっから持ってきた?」
私は訊く。清華は悠然と机まで歩を進め、大きな包みを机に置いた。それから、無駄な動作もなく椅子に座る。
「そんなのは些細な問題ですわ。学校に机と椅子なんていくらでもありますのよ」
やれやれ、と私はつぶやきながら荷物をまとめて立ち上がり、清華の反対側の机に荷物を置き、尻を払ってから椅子に座った。わざわざ清華が席を用意してくれたのだ、利用しない手はない。
「それじゃあ、食べるか」
清華は頷き、包みを解く。私の予想通り重箱だった。それも漆塗りの高価な重箱が三段重ねになっている。
「って、お前、それを一人で食べるのか?」
「何を驚いているんですの? これくらい食べないと体が持ちませんわ」
「太らないのか?」
「失礼ですわね。私はスイミングとテニスとゴルフを日々の習い事として行ってますのよ……常に体重は適切な値を維持していますわ」
「へえ……スイミングにテニスにゴルフか」
私はつい水着姿――もちろん競泳用――の清華や、ミニスカート姿の清華や、ショートパンツ姿の清華を思い浮かべて興奮してしまう。
「いやらしいことを考えていましたわね?」
私は心を見透かされたように感じて「馬鹿を言うな」とすぐに否定した。
「鼻の下が伸びていますわよ」
清華が自分の鼻の下あたりを示しながら言う。
「えっ?」私はとっさに鼻の下を指で触れる。「…………はっ!?」
そして自分のミスに気がつき、顔が熱くなった。
「変態」
「男は総じて変態だ、何が悪い!」
最早開き直るしかない。私は弁当箱のふたを開けて、箸を取る。話を切り上げて弁当に集中することにした。清華は微笑んで、それ以上追撃はしてこなかった。
先程口に運ばれなかった豚の生姜焼きを一気に押し入れ、咀嚼する。ご飯を口の中に追加した時、私はふと今朝のことを思い出す。
「――変態と言えば」私はそう切り出した。「今日の朝、『アテナ』と名乗る元中二病の先輩が俺に話しかけてきた。あの人の方こそ変態だ」
清華は怪訝な顔で高級そうな牛のステーキを食しており、嚥下してから答える。
「元中二病の先輩? 誰ですの?」
「わからない。本名を教えてくれなかった。元って言ってたけど、絶対現役だ」
「それだけの理由で変態と言うのはどうかと思いますわよ」
「それだけじゃないんだよ。男なのに髪は赤くてサラサラしてて、顔も女みたいで、極めつけは女みたいな仕草やしゃべり方をするんだ」
「むしろそれは女子ではなくって?」
「男子の制服を着た女子がどこの高校にいる?」
そっちの方がありがたいのだが、その可能性は極めて低いだろう。
清華は「いないでしょうね」と言い、興味が失せたかのように弁当に視線を戻す。
「まあ、私の知ったことではありませんわ。中二病同士仲良くしてくださいませ」
「冗談じゃないぜ……ただでさえ中二病同士は反発し合うっていうのに、あの人はそれを除いたって付き合いたくねえよ」
「私はその人とお会いしたことがないから、何とも言えませんわね」
「そんなこと言ってられるのも今の内だ。すぐに対岸の火事じゃあ済まされなくなるぞ」
その頃私の岸はどれだけ火が強くなっているのかわかったものじゃないが。会った時から嫌な予感しかしなかったのだ――気をつけなければ。
「私にとっては瑣末な問題でしてよ。今は、授業をサボタージュしてまで過ごすランチを楽しむべきですわ」
清華は一切気を乱さずに、淡々と一定のペースで重箱の中身を平らげていく。話を聞く限りでは、彼女の場合、カロリーの摂取量と消費量が拮抗しているのだろう。お嬢様なんだから、恐らく専属の栄養士やトレーナーがいてもおかしくはない。こういう下地があるから、制服でも隠し切れない豊満な肉体や脚線美が形成されているのだ。
私は清華を育てた環境に感謝をする。
「確かに……ここからの景色は悪くないだろう?」
「ええ、そうですわね」
「世界は常にここに在り続ける。何も起こらないし、何も変わらない。ある日突然隕石が落ちることもなければ、大魔王が世界を支配しようと侵攻してくることもない。魔界の門も冥府の門も開かれない。神も悪魔もいないし、ツチノコや一角獣は……どうだろうな、わからない」
「また中二病モードですの? それとも通常モード?」
清華は首を傾げながら訊く。
「言っただろう? 最近は混在しているって。いや、どちらかと言うと、中二病の世界が終わりに向かいかけているのかな」
「世界の終わり?」
「ああ。ありとあらゆる幻想はことごとく現実によって蹂躙される。圧倒的な力で、日々を重ねる度に万力のようにゆっくりと押し潰していく」
清華は心配そうな眼差しを私に向ける。
「それは、終わるのではなくて進んでいると考えられないかしら?」
「進んでいるか……そうかもしれないが、わからない」
「考え過ぎではありませんの? 私は将来が確立されているようなものだからマイペースかもしれないですけれど、今はまだ高校一年生ですわ。考える時間は、いくらでもあると思いますわよ」
「そうだな……気遣い感謝する」
私が言うと、清華ははにかむような表情を見せた。ないことだらけの世界にも、一輪の美しい花はあるようだ。
4 厨二病ワンダーランド
――言葉――
雑草一本生えていない砂漠を少女と走っていると、石造りの家が見えてきた。バイクと並走してきた少女は、疲れた様子も見せずに中へ這入るよう手招きしている。
「てっいは」
少女は白色と黄色のギザギザ模様のワンピースに青いサンダルという軽装だった。とても砂漠を軽快に走れるような格好ではない。髪の色は青白く透明感があり、髪型はツインテールで、左右の毛先が肩を優しく撫でている。雷の形を模した黄色の髪留めが似合っていて印象的だった。あどけなさが残っている顔だが、身長は僕の鼻の高さくらいだから、百六十一、二はあるだろう。少女にしては高い。
一見して普通の少女に見えるが、初めてその姿を見た時、少女は雷と共に現れたようにも見えた。ただそう見えただけかもしれないが、少なくとも雷と近かったのは事実だ。そして、少女がしゃべる言葉からも、少女が普通ではないことがわかる。どこの言語かわからないので、コミュニケーションもままならない。
少女に招かれるように僕は石造りの家に這入る。砂漠の焼かれるような日差しが遮られる分、涼しく感じられた。薄暗いけど辺りが見えないというほどではない。砂漠のど真ん中にある家だからどんなものかと思ったけど、家とは言えないくらい酷かった。床は砂の上に平らな石を置いただけなので不安定だし、家具や調度類が一切ない殺風景な部屋だ。
ただ砂漠の直射日光を避けるための建物のようにも見える。
少女は僕を見て口を開こうとし、途中で止めた。僕に言葉が通じないと思ってしゃべるのを躊躇しているのだろうか。確かに、僕は少女の言葉を理解できない。だけど――それは少女もそうなのだろうか? 雷と赤いコモドドラゴンの群れから逃れた時に僕が「ありがとう」と言ったら、少女は笑顔を返してくれた。それは通じているからなのか? 確かめる必要がある。
「ねえ……君は僕の言葉がわかるの?」
少女は静かに頷いた。どうやら僕の言っていることは少女に伝わるようだ。それなら、まだやりようはある。
「君は、日本語がわかる?」少女は頷いた。
「日本語をしゃべることができる?」少女は迷いながらも頷いた。
「…………」
僕は考える。少女は日本語がわかってしゃべれるらしい。だけど、彼女の言葉は日本語とはかけ離れていて、英語やフランス語に聞こえるわけでもない。じゃあ特殊な言語なのか、それとも暗号なのか――ん? 待てよ。
「ねえ、『新聞紙』って言ってみて」
「しんぶんし」
言った直後、少女は驚いたような、でもうれしそうに口を押さえた。同時に、僕も同じような感情になる。
次に「トマト」と僕が言うと、少女も「とまと」と真似するように言った。
「じゃあ……『あいうえお』」
「おえういあ」
僕は、少女の意味不明な言葉の意味をようやく理解した。わかってしまえば呆れるほど単純で、どうして今まで気付かなかったのかがわからないくらいだ。
「君は言葉を逆にして言っているんだね?」
「うそ」
一瞬「嘘」と言われているようでドキリとしたが、それは逆にすれば「そう」。つまり肯定を意味している。
「君は何で言葉を逆にしているんだ? あっ、違うな。……もしかして、普通にはしゃべれないの?」
少女は申し訳なさそうに頷いた。
言葉の意味はわかっても、これは解読するのに時間がかかりそうだ。返事とかはわかっても、会話を成立させるのは難しい。頭の中で逆再生できるほど僕の頭は回らないし、紙に書く速度も人並み。せめて録音する機械があればいいんだけど。
その時――僕の頭にイメージが湧いた。それは、僕が《白雉》を名乗る五人組に襲われた時に感じたのと同じだ。バッグの中にあったS&W M500のことを知っていたように、何かが、バッグの中にある記憶が僕の中に存在している。
僕は石造りの家から炎天の外に出て、ハーレーに被せてあるシートを一部めくり、バッグの中身を漁った。すると、頭の中にぼんやりと浮かんだイメージ通りに、目当ての物が見つかる。
それは手の平に収まる手帳くらいの大きさの機械――スマートフォンだ。
僕はそれを持って再び家に戻る。急に家を出ていった僕に戸惑いを感じたのか、不安げな表情をする少女。僕は手に持つスマートフォンを少女に見せた。
「はれこ」
首を傾げる少女に「スマートフォン」と答える。
「携帯電話の一種なんだけど、ここは電波がないから使えないんだよね。でも、色々と便利な機能はある」
僕は人差し指で画面に触れたり滑らせたりして操作をする。
少女は僕の横に回り込み、目を輝かせて画面を見ていた。どうやら少女はスマートフォンを知らないようだ。
音楽プレーヤー、メモ帳、キッチンタイマー、ストップウォッチ、電卓などが並ぶ中、僕は一つのアイコンに目が止まり、それを起動させる。
それは――ボイスレコーダーだ。画面を弄って機能や設定を細かく見ていると、求めているものが見つかり、僕は頷く。
「ねえ、これに向かってあいさつをしてみて」
僕がスマートフォンを向けると、少女は頷いて「はちにんこ」と言った。録音が終わって、私は画面を操作して再生する。
軽いノイズが聞こえ、数秒後に『こんにちは』と少女の声が聞こえた。
「?!」
少女はびっくりした様子で口を開き、僕を見る。自分の言葉が逆になってなくて不思議に思っているのだろう。
これは、ボイスレコーダーの機能の一つ――逆再生だ。
言葉を逆にしてしゃべっているのなら、逆再生で聞けば普通になる。そう思ってやってみたのだが、思いのほかうまくいった。スピーカーから聞こえる少女の声は、普通に再生したのと同じような聞こえ方なのだ。
「これを使えば、君の言葉もわかるようになる」
少女が何かを言う。録音して逆再生をすると『すごい。ありがとう』と聞こえた。
私の腕を握って、少女は屈託のない笑顔を見せる。
これで、タイムラグ――頭で考えたり紙で書いて後ろから読んだりする時間に比べれば無いに等しいが――こそあるものの、少女とコミュニケーションを取ることができる。
「えっと、とりあえず……君の名前は?」
『驫騎鸞鸞。馬が三つに騎馬隊の「騎」で驫騎。親鸞の「鸞」が二つで鸞鸞』
録音時に逆の言葉を聞いてわかる。長くしゃべっていると複雑怪奇な呪文のように思えてしまう。これを頭の中で逆再生できるやつは天才だ。
そして、今までは短く言葉を切っていたのでわからなかったが、少女の話し方は抑揚があまり感じられない静かなものだった。
逆再生された言葉を聞き、少女は口頭で名前の漢字まで教えてくれた。だが、言われただけでは漢字がわからない。メモ帳の画面で漢字を打ってみる。驫騎鸞鸞。画数が多過ぎて文字が潰れていた。カタカナでランランと書くと、パンダの名前のように見える。
「すごい名前だね。じゃあ、ランランって呼んでいい?」
少女は頷き、僕も何度か頷いた。言葉の問題が解決したところで、僕はようやく少女に聞きたいことを訊ける。
「結構聞きたいことがあるんだけど……まずは、君のことだ。僕の見間違いじゃなかったら、君はあの時、雷が落ちた木のすぐそばにいた?」
僕の問いかけに、ランランは頷く。
『というより、雷と共にあの木に降り立ったの』
「えっ? 雷と共に降りた? ちょっとごめん。言っている意味がよくわからないんだけど……」
『私は荒野と砂漠の巫女。この地のどこにでもいる存在。だから雷雨と共に現れ、雷雨と共に去ることができる。私はあなたのことをずっと見ていた』
ランランの言葉は信じがたいものではあるが、雷が落ちたのとほぼ同時に姿が見えたこと、ハーレーと並走しても息が上がらないという不思議への解答にはなっている。
疑ってもキリがないと思い、僕は話を続けることにした。
「そうか。なら教えてくれ。あの赤いコモドドラゴンについて。僕を襲ってきたし、しゃべっているようにも見えた」
『あれは砂漠に近付けなくてずっと荒野にいるだけの存在。縄張り意識が強くて、侵入者を喰い殺そうとする獰猛な性格。声が聞こえたのは彼らの意思。彼らは直接意思を相手の頭に飛ばす』
「なるほど。でも、あの時何で僕のことを助けてくれたの?」
『私が荒野と砂漠を統べる巫女だから。私の前で死んで欲しくなかった』
どんな理由にせよ、僕からしたらランランは命の恩人なのだ――感謝しかない。
「ありがとう。僕はそろそろ行かなきゃ。そうだ……砂漠の向こうにビル群が見えたんだけど、この砂漠を進んだ方がいいかな?」
ランランは首を振る。
『砂漠は広くて休む場所もない。道路を進んで行けばいつかは辿り着ける』
「道路か、わかった。あと一つ、《白雉》って名前に聞き覚えは?」
『たまに荒野と砂漠に来る。悪い人達。それ以外知らない』
彼女なら知っているかなと思ったが、当てが外れた。まあ、いつかは知る時が来るだろう。今知ることができなくたって構わない。
「本当に助けてくれてありがとう、ランラン」
僕は出発することにした。石造りの家から外に出て、灼熱の砂地を踏む。バイクにかけられたシーツを畳み、バッグに仕舞う。それから車体に跨り、エンジンをかける。
少し迷ったが、僕はランランにスマートフォンをあげた。僕が持っていても使い道がないので、彼女が持っていた方がいい。
「うとがりあ」
ランランがうれしそうな笑顔で言った言葉は、逆再生して聞くまでもなかった。それから彼女は、自分で声を録音して逆再生させる。
『道路までの道案内をする』
ランランは走り出し、行く先を指さす。そのいきいきとした姿は、荒野と砂漠の巫女には似つかわしくないものだった。
僕はランランの後姿を追うようにハーレーを走らせる。
砂漠を抜けて荒野に差しかかると、焼ける日差しやうだるような暑さが和らいだ。僕はバイクのスピードを緩めて、ランランと石造りの家ではできなかった話をする。
「ランランの他に誰か人はいないの? 友達とか、家族とか」
彼女は複雑な表情をし、少しの間考えてから答えた。
『私はずっと一人。誰かと会っても、話ができなくて仲良くなれなかった』
確かに、言葉を逆にして言われれば誰だってわからない。理解されないと、仲良くもなれないし、気味悪がる人もいるだろう。
「どうして、ランランは言葉を逆にしてしか話せないの?」
『荒野と砂漠の巫女になった時からこうだった。こういう風にしかしゃべれない』
ランランの謎は深まるばかりで、僕は彼女との別れが惜しくなってきた。
「僕と一緒に来ない?」
誘ってみるが、彼女は目を伏せて、悲しそうな表情でゆっくりと首を振る。
『ごめんなさい。気持ちはうれしいけど、私は荒野と砂漠の巫女。ここから離れてはいけない。私の不在は、この地が無秩序になることを意味する』
「そっか。いや、こっちこそごめん。嫌な思いをさせちゃって」
ランランはもう一度首を振った。
やがて――僕の視界に道路が映る。徐々に近付くにつれて、彼女との別れの時が迫っているのを感じた。僕はアクセルを吹かして彼女の前に出ていき、道路の少し手前で停車をする。
「何か……久しぶりに戻ってきた気がする。色々とありがとう、ランラン」
バイクから降りて彼女と向き合い、改めて感謝の言葉を述べた。それに対して、彼女は照れ臭そうに笑う。
『私の方こそ、ありがとう。あなたは私に言葉をプレゼントしてくれた』
ランランは僕があげたスマートフォンを胸に抱え、大事に持っていた。それを見ると、あげてよかったなとしみじみ思う。
彼女がすっと一歩下がったその時――道路の方から車の走る音が聞こえてくる。その音に気付いた頃には、既にその車が近くにまで迫っていた。
車種はジープ。屋根はなく、凶悪な容姿をした男達が座っているのが見えた。ジープは道路上で止まり、乗っていた五人の男が一斉に降りる。
僕はランランの方を見ていたために、反応が遅れた。男達の手にはMP5やイングラムM10などのサブマシンガンが握られていて、こちらに銃口が向けられている。今、まさに引き金が引かれようとしていた。
「ランラン!」
僕はとっさに彼女の前に出る。彼女の盾になることしか考えられなかった。直後に銃声が響き、僕はサブマシンガンの弾に全身を貫かれる。なおも銃撃は続き、男達は弾切れになるまで僕に銃弾を浴びせた。
痛みという次元はとっくに超え、僕の中にあったのは死だけだった。世界がスローモーションになる。道路にいる男達の動作が緩慢に見え、飛び散る僕の血は、その一滴一滴が細かく見えた。後ろからはランランの叫び声が聞こえる。そこで僕は彼女のことを思う。無事なのか、弾は当たっていないか、と。確認したいのだが、もう僕には後ろを向く力も残っていない。
僕は膝をつき、そのまま地面へと倒れる。と思った。しかしそうはならなかった。どういうわけか、僕の体は頭から地面に倒れ込む途中で止まっているのだ。写真でこの瞬間を切り取られたかのように、僕は停止している。
それは一瞬のことで、今度は僕の体が起こされ、更には浮き上がった。足が地面から離れ、宙に浮いた状態になっている。それは、雫となって落ちたはずの血も例外ではない。まるで無重力空間で漂っているような感覚だ。
次の瞬間、僕は目を疑う光景を見る。浮かんでいた血の雫が、銃弾を喰らって出血した箇所へと戻っていったのだ。僕の血が全て戻ると同時に、体の中から何かが出てきた。それは先端に丸みを帯びた円錐のような形をしている――弾丸だ。弾丸が、僕の体から真っ直ぐ、弾道を遡るようにして出てきた。
弾の様子を眺めていると、その奥に五人の男の姿が映る。全員驚きを隠せない様子で、この光景をずっと見て固まっていた。
僕は撃たれた箇所に目をやる。そこには、傷どころか撃たれた痕跡もなく、服のほつれすらなかった。撃たれる前と全く状態が変わっていない。致命傷を負って鉛以上に重かった体も、薄れかけていた意識も元に戻っている。
一体何が起きたんだろう? まるで、撃たれたシーンを逆再生しているような。
「はっ! まさか……ランラン!?」
僕が気付いて後ろを振り向くと、彼女は僕に手を伸ばして何かを唱えている。僕の顔を見ると彼女は頷き、もう片方の手で宙に浮く僕の手をつかみ、思いっきり引っ張った。直後、僕がさっきまでいた場所を銃弾が通過する。
それを確認すると、彼女は額に汗を浮かべて疲労の色を見せながらも、心底ほっとした顔を見せた。それから、スマートフォンを介して言葉を伝える。
『あなたの周囲だけ、時を逆流させた』
ランランのその一言で理解した。時間を戻すことで僕は全身を撃たれる前の姿になり、そこから一気に引っ張り出すことで、僕が撃たれたという事実自体をなかったことにしたのだ。結果、僕は死なずに生きることとなった。
「くそっ! どうなってんだ。撃ち殺したはずだぞ」
「知らねえ。次だ、次。撃て!」
男達は我に返ったのか、すぐさまマガジンを換えて銃撃を再開させようとする。それを見てランランは男達を睨みつけた。そして、男達がいる方へと天高く手を翳し、言葉を発する。
「えまたぎそそりふにちどちいまいにめたるすっめをくあ。よちたちずかいるけかをらそ――くぞんけがわ」
何かの呪文を唱えて翳した手を一気に振り下ろすと、五人の男に雷が落ちた。
まばゆい光と爆発のような轟音が目の前で起きて、僕はびくりと体が反応する。
サブマシンガンを構えた男達は、雷の直撃を受けて倒れた。体を痙攣させる者や指先すら動かない者もいるが、顔を上げる者は一人としていない。
「何だ今の? 雷?」
『そう。私が降らせた』ランランは言う。『だって、あなたを殺そうとした。私は、許せなかった』
「そっか。でも、雷を降らせることもすごいけど、時を逆流させるってことは、時を巻き戻すことだろう? 時を操作するなんてもっとすごい……何でそんなことができるんだ?」
『時に限った話じゃない。私は森羅万象を逆にすることができる』
普通に言うものだから、僕がそのすごさを実感するのには少し時間がかかった。だが、その能力が現実離れし過ぎていて、驚きを超えて疑問に思ってしまう。
「森羅万象を逆にするってどういうこと?」
『方向性を持つ物体や法則や現象を、現在の状態から逆にすること。だから……石を砂に変えられるし、その逆もできる。不可逆の時間を巻き戻すことや死人を生き返らせることも可能。やったことないけど、重力や自転や公転だって逆にできる』
実際に体験しているから信じざるを得ない。ランランには驚嘆するばかりだ。そして、また助けられたのだから感謝しなければ。
「すごいな、言葉もないよ。一度ならず二度まで僕の命を救ってくれたんだ。ランラン、ありがとう」
『私の方こそ、お礼を言う必要がある。あなたは身を呈して私を銃弾から守ってくれた』
「いや、あの時はとっさだったから。だけどその能力があれば、僕がいなくたって大丈夫だったんじゃない?」
僕がそう訊くと、ランランは表情に翳りを見せ、首を振る。
『逆行の能力は、流動的かつ不可逆の時間や物理法則には一時的。継続は無理』
確かに、さっき彼女に体を引っ張られた後、僕がいた場所に銃弾が通過した。それは、時を戻したままではいられなかったからか。僕は納得する。
『それに……自分に能力を使うことはできない。だから転んで傷を負っても時間を戻して治すことはできないし、死んだら生き返ることは不可能』
じゃあ、僕はランランを庇って正解だったんだ。よかった。
「へえ。でも、使い方によっては素晴らしい力だよ。あって不便ではないし、僕も欲しいくらいだ」
僕はその能力のすさまじさに興奮している。しかしランランの表情は硬く、自分の能力を説明している時からあまり笑顔が見られない。
『あまりいいものではない。巫女になってこの能力を得た。その代償として、私は言葉を逆にしかしゃべれなくなった。そして、もう一つの代償が、肉体の逆行』
「肉体の逆行?」
『私の肉体は時を遡っている。つまり、肉体年齢が日々若くなっているということ』
僕はそれを聞いて一つの疑問が浮かぶ。
今見ているランランの姿は、一体何年若返った姿なのか、と。
『私が荒野と砂漠の巫女になったのは六十歳の時。それから四十五年が経ち、今の私は百五歳だけど、肉体は十五歳』
僕は絶句した。人は還暦になると生まれた時に帰ると言うが、少なくとも若返るという意味で聞いたことはない。突拍子もなくて、信じていいのかどうか判別がつかない。
少し考えて、ランランの話を整理して気付いた。肉体が十五歳なら、あと十五年、いや十年経てば自力で生きることが不可能になるじゃないか。僕は彼女を見る。彼女は、僕に悲しそうな顔を見せた。
『わかったみたいね。でも、違う。私の命はもっと短い』
「えっ? じゃあ、何年なの?」
『何年も生きられない。私は近い内に死ぬ』
僕はその告白に驚き「何で?」と思わず訊く。
『荒野と砂漠の巫女になった時に、予言があったの。その予言によれば、私は百五歳の時に死ぬことになる。正確な日時はわからないけど』
「そんな……」
僕はどう反応していいのかわからず、口をつぐんだ。
『悲しい顔をしないで。私は、最後の年にあなたと会えてよかったと思っている。あなたは私に言葉をくれたし、私の命を守ってくれた』
「最後とか言うなよ。まだ死ぬと決まったわけじゃないんだ」
『そうあって欲しいけど、でも、今がいいのかもしれない。無知な子供になってまで生きたくはないから』
僕は何もできない。何か言葉をかけることもできない。そんな自分が悔しくて、情けなくて、僕は唇を噛み締める。ランランのために何かしてあげたいと思った。
「ランラン、僕はもう少しここに残って、君と時間を共有するよ」
『ありがとう。でも……私には私の生きる道があって、それはあなたも同じ。私のことを思ってくれるのはありがたいけど、あなたはあなたの道を進むべき』
「でも、僕が進む道の先には何があるかわからないし、それが正しいのかどうかもわからないんだ」
『今は何も考えずに進んで。別に、これが今生の別れじゃないんだから。もし何かあったり、話したいことがあったら来て。私は荒野と砂漠の巫女。あなたが足を踏み入れれば、私はすぐに会いに行く。道が続く限り、この荒野と砂漠もまた続いているから』
ランランは僕の手にそっと触れた。僕はその手に自分の手を重ねる。彼女の手が更に上から被せられた。それから手の位置を変えて、両手で握手を交わす。
「わかった。絶対会いに行くよ」
僕が言うと、彼女は笑顔で頷いた。
手を離し、僕はバイクに跨ってエンジンをかける。重い唸り声のような音がシートから来る振動と共に伝わってきた。少し走らせて、荒野から道路へと出る。
ランランは手を振りながら、エンジンの音に負けない声で叫ぶ。
「らなうよさ!」
僕は手を振り返してからアクセルを吹かし、ハーレーを走らせる。
後ろは振り向かない。振り向いたら、いつまでも進めなくなりそうだと思ったから。